中国人にとって、「村上春樹」は日本人ではない!?
2012年9月11日、日本政府が尖閣諸島を地権者から購入し国有化したことによって、中国各地で反日デモが発生するなど、最近の日中関係は悪化の一途を辿っている。12月中旬にも中国の海洋監視船が日本の領海に侵入したり、中国の航空機が領空侵犯したりするなど、緊張関係は現在も続いている。日本は自民党が政権を奪還したが、対中強硬姿勢の安倍晋三首相が就任したことで、ますます関係が悪化するとの懸念もある。
2012年9月以降に予定されていた日中国交正常化40周年の記念式典が相次いで中止・延期されたことにも現れているように、日中を巡る政治問題は多方面に深刻な影響を与えた。
このような政治面での緊張が高まると必ず、文化的な側面からでの雪解けを目指そう、という話が出てくる。しかし、はたしてそんなことは可能なのだろうか。
初版120万部のベストセラー作家
中国ではもともと、夏目漱石や川端康成を始め、日本の作家は人気がある。その中でも中国の「80后」(80年代生まれ)以降の若者の間で絶大な人気を誇っているのが、村上春樹だ。
1989年以降、130以上もの本が翻訳出版され、『ノルウェイの森』はミリオンセラーになり、『1Q84』は初版が120万部で発売されるなど、大ヒットしている。
こうした状況だけを見ると、村上春樹など日本の文芸を通して、日中の友好を進めることは確かに効果的なようにも見えてくる。
しかし、中国の若者がどのように「村上春樹」を受け止めているかをより詳しく調べてみると、事態はそれほど単純でないことがわかる。
上海で取材した若者たちに「村上春樹」についてたずねてみる。すると、「日本が好きだから村上春樹を読む」という人もいないし、「村上春樹は憎き日本人だから読まない」という人もいない。彼らはそもそも作家・村上春樹を日本人だと認識していないことがわかる。
もちろん、「村上春樹」という名前はどう見ても日本的な名前であり、彼が日本人だということは知識としては知られている。だが、長年に渡り、中国で幅広い人々に読まれていることもあって、もはや村上春樹は外国文学の領域を飛び越えてすっかり中国社会に定着しているのだ。
その証拠に、2012年11月中旬、私が上海を訪れた際に訪れた小さな書店にさえ「村上春樹」のコーナーはあった。特徴的なのは、大きな書店だけでなく、小さな書店にも村上春樹の本は置かれていて、「外国文学」として書店の隅のほうで、一括りに取り扱われているわけではないということだ。村上春樹の本は、中国人作家による売れ筋の本と同様に、書店の最も目立つスペースに配置されている。
村上がいちばん好きで、魯迅には反感を持っている
「全体にどこかもの悲しいような独特の雰囲気があって、なんとなく心惹かれるものがあるんですよね、村上春樹の文学には……」
上海市の中心部、「上海書城」という大きな書店にときどき足を運ぶという私の中国人の友人は村上春樹の大ファンだ。彼女は上海で独り暮らしをする趙さん(1978年生まれ、34歳)。故郷から離れ、孤独なOL生活を送るで、村上文学は心の拠り所になっているという。狭いアパートの一角には、村上春樹の書籍が何冊も置かれている。
趙さんによれば「中国の作家より村上春樹のほうがずっとおもしろいし、自分の気持ちにフィットする感じがするから好き」とのこと。趙さんの同世代の友人たちも、村上ファンは多いという。
湖南省在住の劉さん(25歳、女性、1987年生まれ)も、中学生のときに『ノルウェイの森』を読んで以来、大ファンになった。
「『ダンス・ダンス・ダンス』もよかったなぁ。行間にあふれる哀愁みたいなものに惹かれたんですね」と懐かしそうに振り返る。社会人になった今ではあまり読まなくなったそうだが、「村上春樹の世界は好きなジャンル」だと語る。
上海の復旦大学の王海藍さんは村上春樹を研究対象とする気鋭の研究者。村上春樹に傾倒して日本に留学し、「中国における村上春樹の受容」というテーマで、筑波大学で博士号を取得している。
「村上春樹は中国で非常に人気のある代表的な作家のひとり。主に10代後半から30代後半までの、都会に住む比較的エリート層の男女の読者が多いとされています。熱心に読書をするような層であれば、日本人作家、というだけの理由で彼を敬遠する人はほとんどいません。村上春樹は確かに日本人ではありますが、そういう目で彼を見ている読者はむしろ少ないでしょう」
ある国の文学界を支えてきた代表的な作家が、その国の若い作家に影響を与えるのとまったく同じように、日本人作家・村上春樹の影響を受けたという若い中国人作家も次々と出現している。ベストセラー作家の郭敬明や韓寒などがそれだ。彼らは2人とも日本で翻訳本を出版している。
中でもイケメンで知られる郭敬明は「いかにも村上春樹の影響を受けた作家」と形容されたこともあり、彼はかつて堂々と「村上がいちばん好きで、魯迅には反感を持っている」(重慶晩報=四川省の夕刊紙)と中国のメディアに答えたことさえあった。
韓寒も中国で個性的なタレントを持つ作家という位置づけであり「サイン会はしない、講演はしない、パーティーには参加しない」など独自の主義を貫いている。信念を貫いて独自の世界観を持ち、カリスマ性があるという点では、韓はどことなく作家として村上を意識しているのでは、と想像させる。
高度成長とともに
前出の王さんは2008年に北京、上海、大連など11都市、22大学で3000人以上の大学生(と大学院生)を対象に村上春樹に関するアンケート調査を実施し、その結果を分析して日本語の著書『村上春樹と中国』(アーツアンドクラフツ刊)にまとめた。
その調査によれば、若者が村上春樹を手に取る理由で最も多いものは、「友人に勧められたから」。次いで「流行しているから」、「村上春樹に興味を持っているから」の順だった。
村上の読者は、決して大学で日本文学を専攻した学生でもなければ、日本に留学した特別な学生でもなく、ごく普通の若者たちだ。彼らが読んだ本のトップは圧倒的多数で『ノルウェイの森』。2位は『海辺のカフカ』、3位は『風の歌を聴け』だった。
中国の消費やファッションをリードしているという「80后」や「90后」(90年代生まれ)は、村上のどんな点に共感しているのだろうか?
「村上作品が最も読まれたのが2003年から2006年ごろで、ちょうど中国の経済発展が急拡大する時期と重なります。読後の印象については、『孤独と喪失感に満ちているから』や『大量に性描写があるから』などを挙げており、『社会システムや共同体を冷ややかに傍観しているから』という回答もありました。中国には村上のような作品はほとんどありません。超競争社会を生きる中国の若者たちは孤独です。多くの悩みを抱えて生活する中で、村上作品は孤独や喪失感という点で自分自身と重なる部分があったのではないでしょうか」(王さん)
このように語る王さん自身も、山東省の大学を卒業する頃(1996年)に偶然、書店で村上文学と出合った。興味本位で手に取ったものの「無国籍的な感じもあり、退廃的でもあり、それまでの中国の小説とは明らかに異なるワールドがあり、惹かれていった」と語る。
王さんと同じく上海の復旦大学4年の周さん(1991年生まれ、男性)は高校時代に熱心に読んでいた、と振り返る。
周さんの高校時代(2005~2008年)、『海辺のカフカ』が大ヒットしていたという記憶があり、周さんはそれ以外に『国境の南、太陽の西』、『東京奇譚集』、『ノルウェイの森』も立て続けに読んだという。
「村上春樹の本の登場人物は、複数の自分を持っていて、日常を否定しながら生きているようなところがある。『現代を生きる人』と『都市の環境』が二元対立的に語られていると思います。ひと言でいえば、彼の小説に共通するのは『息苦しさ』とか『窮屈さ』のようなものでしょうか。高校時代は哲学的なものに憧れるところがあり、私もむさぼるように読みました」
誰でも知っていますけど、読んだことがない人も多い
しかし、中国人の若者全員が村上春樹に心酔しているわけではない。このように熱弁をふるう若者が多い一方で、「もともと村上春樹はあまり読まない」という答えも少なくなかった。
「私は一度も読んだことがないです。なぜって? 理由はないですけど、もともとあまり小説は読まないから。中国で村上春樹の知名度は抜群ですから、たぶん、誰でも知っていますけど、読んだことがない、という人も案外多いんですよ」(1986年生まれ、都内の大学院に在学中の男性)
「5ページしか読んだことがないんです。ちょっと読んで、あ、この作家は自分には合わないって思いましたから、やめちゃいました。もともと私、推理小説くらいしか読まないので。だから、好きか嫌いかといわれても困りますね。とくに村上を読まない理由はありません」(1989年生まれ、北京の大学院生、女性)
村上はよく「日本独自の情緒的な表現ではなく、翻訳しやすい文体や世界観だから世界中に広く翻訳された」と評される。だが、私が取材したかぎり、そうしたこととはあまり関係がないように感じられた。
北京の大手企業に勤務する朱さん(1979年生まれ、33歳)はいう。
「大学時代に『ノルウェイの森』だけは読みました。大学時代に取っていた文学の授業でこの作品が取り上げられたので。でも、それだけです。印象は『暗い』の一言。登場人物もみんな暗くて、私はとてもこういう世界にはついていけないなぁ…と。私の同級生の間でも、評判はあまりよくなかったですね。中国で『1Q84』もすごい話題になりましたけど、私は書店で手に取ろうという気には一切ならなかったです」
3歳違えば価値観が異なる中国人
彼女は、ちょっとおもしろいことも分析してくれた。
「でも、不思議なことに、私より少し上と少し下の世代は読んでいる人が多かったんですよね。理由はよくわからないですけど、私の上下の学年は就職氷河期で、大変な時代だったんです。本当に1~2年しか違わないんですけどね。自分が置かれている境遇の変化によって、村上春樹を読みたくなったり、読みたくなくなったりするのかもしれません」
このように、読者の声を深く分析してみると、中国の中でも、ほんの数歳の年代差によって村上観はかなり異なることがわかる。「村上春樹はとても人気がある」と言っても、それは「中国人」どころか、「中国の若者」の傾向を表すものではない。
以前、私が著書『中国人エリートは日本人をこう見る』(日経プレミアシリーズ)の取材していたとき、ある中国人の若者がこんなことを漏らしていたことがあった。
「中国は急激に変化したため、3歳違えば価値観が大きく異なり、同世代でもまったく意見が合わない。変化が激しすぎて、ひとつのジェネレーションとして、同じものを見て懐かしがったり、共感したり、同じ価値観を共有したりできないのは残念で寂しいこと。こうした気持ちは、世界中のどんな国の人にも理解してはもらえないだろう」
世界に類を見ない経済成長を果たすのと同時に、さまざまな社会問題を抱える中国。日中関係が悪化しようが、改善されようが、変わりなく、今後も中国人の間で村上春樹は読み継がれていくだろう。ひとつの文化が国境を越え、他国に浸透していくことは意味のあることであり、これこそ文化の神髄といえる。
しかし、そのことと現在の日中関係が抱える問題が解決することとは、かなり距離があるのではないか。
少なくとも「村上春樹」はすでにいわゆる世界的ベストセラー作家であり、「日本の作家」と認識されていない。また、文芸作品に限らず、世代が細分化されている中国においては、ある文化作品によってどこかの世代をまるごと味方につけることにはつながらない。
文化交流は必要である。しかし、日中関係はそれだけで解決するほど単純な問題ではないことも事実だろう。
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