村上春树2013.5.6在京都大学的演讲辑录

观照灵魂,书写灵魂
——村上春树2013.5.6在京都大学的演讲辑录

来源于@杜海玲在日本 :
“我通过写作和跑步,将黑暗的部分抖落下去了。”
“我只是一个普通人,以写作为业,所以不爱上电视,觉得那些都跟我无关”。
“将我当作危险生物吧,可以远远观察,别走近,近了,可能我会因为恐惧而咬人。”
来源于@叶千荣:
“根据各自的喜好咀嚼作品是读者的权利”。
“所谓‘物语’就是一种只存在于人内心深处的东西,在我使用这个词时,准确而完整理解的,只有河合隼雄先生”。

关于新作:
“原本只想写一个短篇,但构思时登场人物自己动了起来,这还是首次遇到”。
“于是对活人有了一点兴趣,对人与人之间的纽带、共鸣有了一点关心,这也许是三四年前写不出的”。
“「1Q84」抹去了日常与非日常的界限,这次又写了一部现实与非现实不再交错、如「挪威的森林」般的作品”。
关于过去的作品:
“我自己,从未因重读自己过去作品而被打动过”。
关于自己:
“我是一个过着普通的日子的普通人,只写写东西,不想介入别的事,如能被视为是一种如西表山猫一般濒临绝灭的动物,我将深以为幸。”

来源于@毛丹青:

“说到日本文学,我喜欢夏目漱石、谷崎润一郎,但不喜欢川端康成和三岛由纪夫,他们是叫人郁闷的人!”
“故事深藏于人的心底,写小说就是往这个深处走的过程,至于我为什么喜欢跑步,其理由是长时间人在外,可以把我写小说时的晦气除掉,跑步跟驱魔一样。”
“我写故事就是下到黑暗处,河合先生也一样,他是临床心理学家,需要听很多人的经历,他也要下到黑暗处,我们就像有了狗狗的嗅觉一样,相互很合得来,气味相投。他是理解我文学创作的唯一的一个人。”
“其实,我是不愿意在人面前露面的人,因为想坐地铁,想乘巴士,想过普通人的生活。我想去旧书店和旧唱片店,要是被人认出来,还跟我打招呼的话,那我会很窘的。写作是我的工作,所以不想涉足其它方面。”
“比起读我的小说哭的读者来说,我喜欢笑的,因为哭是内向的,对外无法敞开胸襟,反倒是幽默会让人鼓足勇气,这个我最喜欢。”
村上春树谈到1997年出版的非虚构文本《地下》,他说他在采访了奥姆真理教的受害者3个小时之后,自己哭了1个小时,写这本对他是非常重要的体验。

 

日文版:

 

村上春樹さんの冒頭講演

2013/5/6 21:31

作家の村上春樹さんが6日、京都大学の百周年記念ホールで講演した。臨床心理学者でユング研究などが有名な河合隼雄氏の七回忌にあたる今年、「河合隼雄物語賞・学芸賞」の創設を記念して行われたもの。河合氏と親交の深かった村上さんだが、国内で講演するのは極めてまれ。抽選で選ばれた約500人の参加者が耳を傾けた。講演の内容は次の通り。

ここにおられる皆さんは初対面だと思いますが、せっかくの機会なので、今日はゆっくり楽しんでいただければと思います。僕は普段からテレビや講演といった場には出てきませんが、「河合隼雄」を冠する賞の創設記念ということで、今回は出てきました。あまり人前に出てこないということでカッパやカラスてんぐにたとえられることもありますが、僕は普通の人間です。

地下鉄やバスに乗って古本屋やコンビニなど近所に買い物にも行きます。そんなときに人から声かけられるのが嫌なのであまりテレビには出ないんです。「じゃあなぜラジオに出ないか」と聞かれますが、向いていないんですね。物書きですので、やはり。

やっぱり面倒なことが多いです。近所をジョギングしていたら、人から「このあたりに村上春樹の家があるそうだけど、知らないか」と尋ねられたことがあって、知りませんといって走って逃げた。また、運転免許の更新の時に窓口で「村上春樹さん!」と呼ばれ、窓口の女性からまじまじと「同姓同名ですよね」と言われたこともありました。そのときは「ええ、いつも困ってます」と言いました。

また、京都のがんこ寿司で若い店員さんが呼び込みをしてて、「あ、村上さんじゃないですか、なにしてるんですか」と声をかけられたこともあります。その人は僕のファンで、僕の本を全部読んでくれていました。そのときはそばを食べたかったんですが、なぜかそのまま、がんこ寿司に入ってしまいました。

僕はイリオモテヤマネコのような絶滅危惧種と思っていただけるとありがたいです。見かけてもあんまり手に触れないでいてほしいんですよね。手を出すとおびえてかみつくかもしれないんで、気をつけてくださいね。

さて、河合隼雄先生についてしゃべりますね。

僕は○○先生と人を呼んだことはないんですが、河合隼雄さんに限っては、いつも河合先生と言っています。河合先生は「河合隼雄」と「河合先生」とをうまく使い分けられている人という印象でしたが、河合さんは僕の前では「河合先生」を最後まで一貫しておられました。僕らは最後まで「小説家」と「心理療法家」というコスチュームを脱ぐことはなかったと思います。でもそれは他人行儀とかいうのではなく、そういう枠がある方が率直に話ができ、プロフェッショナルとしてのすがすがしい、心地良い緊張感が出るんです。もちろん河合先生が服を脱いで一人の「河合隼雄」になったときの状態もすごく興味があったんですけれども。

僕が河合先生と知り合ったのは、1993年ですから今から20年前ですね。当時河合先生はプリンストン大学に客員教授として在籍しておられました。僕はちょうど先生が来る直前までプリンストンにいまして、先生とは入れ違いになりました。そのとき僕はボストンにあるタフツ大学で日本文学の講義を持っていたときで、当時は河合先生のことは知らず、心理療法などというものも知りませんでした。

ただ、妻が河合先生の本を熱心に読んでいて、彼女は「本をわざわざ読む必要はないが、河合先生に一度会ってみては」と言ってきました。こういうときは女性の方が直感が鋭いんでしょうね。

僕は河合先生の本はあまり読んでいなくて今でも「ユングの評伝(生涯)」「未来への記憶(下)」だけしか読んでいません。小説家の役目はテキストをパブリックに提供するだけだと思っています。読者はテキストを自由に解読する権利を持っていますが、小説家が自分の作品を分析し始めることほど具合の悪いことはないと思います。僕は河合先生の「ユング」の著書からもあえて距離を取ってきました。

プリンストン大で初めてお会いしたとき、ずいぶん暗い人だと思いました。尋常ではなかったです。僕は小説家ですから人を観察はするんですが、判断はしません。なので、そのときも彼の様子を観察するだけで、どういう人かまでは判断せず、目が据わっているというか、どろっとしていて、何となく重くて含みがある、そんなことを見ていました。僕は熱心に話をする方ではないので、その日は会話よりも沈黙が多かったんですが、あの不思議な眼光が今も記憶に焼き付いています。

ところが翌日お会いしたときは、子供の目のような澄んだ瞳で、とても快活にしゃべられた。人は一晩でこんな変わるのかと思い、昨日は自分を制御していた、無にしていたのだなと思いました。そう思ったのは、僕自身が時としてそういうことをやるからなんですが、特にインタビューしているときなんかには自分の意識を無にしています。

僕は「アンダーグラウンド」を書くに当たって、地下鉄サリン事件についての取材をしましたが、そのとき河合先生と初めてお会いしたときの様子に合点がいきました。「ああ、こういうことを仕事にしているのだな」と思ったものでした。

その後、何度か会う機会があって仲良くさせてもらいましたが、ほとんど会話の内容は覚えていません。覚えているのは河合先生のギャグくらいですね。本当にくだらないんですが、「文化庁長官をやってるときに会議に遅れてきた小渕総理(当時)が英語で謝ってきた。アイムソーリー、アイムソーリー」とか。僕の推測ですが、日々、臨床家として多くの人に寄り添っているのですから、往々にして暗い場所で、危険な、力業の作業をしておられる、だからできるだけくだらないダジャレを口にしなければいけなかったのではないでしょうか。悪魔払いというか、毒消しのような感じですね。僕自身も毎日ジョギングをして、小説を書くときについてきた暗いものを払うようにしています。

僕と河合先生との会話で何も覚えていないと言いましたが、僕はそれはそれでいいのではないかと思っています。というのは、「物語」というコンセプトを共有していたからです。物語というのは人の一番深い場所になりますから、それを共有することは、一人ひとりを深いところで結びつけることができる。あえて言葉には出さなかったですが、互いにそういう何かしらの共感があったのではないかと思います。そんな深い共感を持てた相手は、河合先生以外には一人もいませんでした。

近年、「物語」という言葉がよく口にされていますけれど、それを僕が言わんとすることを、本当に丸ごと受け取ってくれたのは河合先生以外にいなかったです。僕のボールを、きちんと両手で受け取ってくれたという感触がありました。とてもありがたいことだったし、励ましになりました。文学の世界でも残念ながらそういうことはあまりないことでしたので。

最後に、河合隼雄先生のご冥福をお祈りするとともに賞が末永く続くことを期待しております。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0602C_W3A500C1000000/
村上春樹さんの公開インタビュー

2013/5/6 22:43

作家の村上春樹さんが6日、京都大学の百周年記念ホールで講演した。つづいて行われた文芸評論家の湯川豊氏による公開インタビューの内容は次の通り。

湯川豊さん 先ほどの河合さんについての話を興味深く聞きました。村上さんは「海辺のカフカ」のときの長いインタビューで「人間は2階建てであり、1階、2階のほかに地下室があってそこに記憶の残骸がある」とおっしゃっていた。その上で「本当の物語はそこにはない。もっと深いところに地下2階があって、そこに本当の人間のドラマやストーリーがある」と。それを聞いて「なるほど」と思いました。河合さんとは「物語」というコンセプトでは共有していたとのことですが。

村上春樹さん 僕は以前から地下1階の下にはわけの分からない空間が広がっていると感じていました。多くの小説や音楽は(作家や音楽家が)記憶や魂の残骸が残っている地下1階を訪れることで書かれているが、それでは人の心をつかまえるものは生まれない。(米国の作家)スコット・フィッツジェラルドは、人と違うことを書きたければ人と違う言葉で書け、と言っていた。また(ジャズピアニストの)セロニアス・モンクは「どうやったらこんな音が出るのか」と尋ねられ、「鍵盤は88本あるだろう。みんなこれで音を作っている」と言っていたが、そのなかで魂に響くピアノを弾いていた。もっとも、(地下1階の)下まで行く通路を見つけた人はそれほど多くない。実際、地下1階を訪れて書いていた方が、ロジカルな批評はしやすい。(作曲家の)モーツァルトとサリエリもそう。生きているうちに評価されたのはサリエリだったかもしれない。でも何かを作りたいと思うならば、地下のもっと奥まで行かなければならない。河合先生も理解されていたと思うが、(それを分かっている人は)文学の世界では少ない。僕は正気を保ちながら地下の奥深くへ下りていきたいと思っています。

湯川さん 村上さんは初期のアフォリズム(警句)とデタッチメント(孤立)から、(長編第3作の)「羊をめぐる冒険」でストーリーテリング(物語)に入ったと言われます。そのとき、スポンティニアス、つまり自発的なものでないと意味がないとおっしゃっていたと思うが、それを説明していただけますか。

村上さん 「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」という最初の長編2冊と短編集「中国行きのスロウ・ボート」は飲食店をしながら書いていたため、まとまったストーリーを書く時間がなかった。断片をコラージュするという書き方しかできませんでした。当初はそれが斬新で評価されたが、それより先に行きたかった。それから村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」を読み、こういう書き方をしたいと思い、店を辞めました。時間を好きなだけ使って物語を書ける喜びを味わい、途中で結末がどうなるかもわからないまま書き続けました。そのうち自分がこういう風なものに向いていると感じるようになりました。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は「世界の終り」だけで発表、100枚ぐらいの小説でした。自分でも面白いとは思ったが、納得はしていませんでした。それだけでは読者を引きずり込む力がないので、いつか書き直そうと思っていたら、あるときに思いついたのが同時進行の物語。「私」と「僕」に人称を分けて自分を分裂させ、最後に再統合しようと。順番に書いていったら何とかなるだろうと思って書いていましたが、(「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の部分が)不思議に呼応しているようです。(神がかりな感じがするので)セラピーを受けた方がよいかもしれませんね。

湯川さん 「ねじまき鳥クロニクル」は物語一辺倒で良かったときからの第3ステップとの作品ということですが、詳しく説明していただけますか。

村上さん 「羊をめぐる冒険」や「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は「次はどうなる?」「次はどうなる?」と僕自身が楽しんで書いていました。「ねじまき鳥」では「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」よりも世界をもっと分散してみよう、分割してみようと考えました。一人称を使っていたので分割はすごく難しいのですが、思い出、記憶、手紙、日記などを組み合わせて重層的な世界を作ろうとしました。その意味では新しい試みです。あの小説には主人公が壁を抜ける「壁抜け」という場面が出てきますが、あれはメタファーではなく、僕の本当の体験。小説はリアリズムと非リアリズムに分けて考えられることが多いですが、自分にとってはいずれもリアリズム。(コロンビアの作家)ガルシア=マルケスの作品をみなマジックリアリズムというが、僕には単にリアリズムと感じられる。西洋文学などではリアリズムと非リアリズムをロジックで分けて書こうとしているが、僕はマルケスの方にリアリティーを感じる。

湯川さん 物語には(1)魂の奥底にあるもの(2)人と人をつなぎ合わせるものといえそうですが。

村上さん デタッチメントから始まった僕はコミットメント(関与)へとシフトしてきました。今は魂のネットワークを作りたいという気持ちがあります。人はそれぞれの物語を持っている。子供が童話を読み、剣を持って森の中へ行くのは、自分の中に物語を取り込んだからです。大人になってからもそれぞれを主人公とする複雑な物語を持っています。ただし、魂の中に持っている物語が深みを持っているか、奥行きを持っているかというと難しい。それを本当の物語とするには相対化が必要であり、小説家の仕事はそのモデルを提供することだと思います。読者に共感してもらえるということは感応してもらえることであり、それが広がることでネットワークが生まれる。良い音楽を聴くと心が震えるが、それは小説も同じ。それが物語の力だと思います。僕の場合も、「どうして私の考えていることが分かるのですか」と読者に言われたりするとうれしい。

湯川さん 19世紀が小説の時代だったのに対して、20世紀は物語が軽視された時代ですが、これはなぜでしょう。

村上さん 僕は10代で19世紀の小説を読みあさりました。ドストエフスキー、トルストイ、ディケンズ、バルザック。「戦争と平和」は3回、「カラマーゾフの兄弟」は4回読んでいるので体に染み込んでいる。物語はなくてはならない存在です。20世紀に入って階級闘争とか、フロイトの精神分析のおかげで、心理小説のようなものが出てきた。1980年代になって、(米国の作家)ジョン・アーヴィングが出てきて、「おおこれは」と思った。話がどんどん進んでいくので。

湯川さん 村上さんはアーヴィングと対談をされていますよね。

村上さん 彼はディケンズマニアなんですね。僕はセントラルパークを一緒に走ったことがあります。1983年のことですが、これは良かった。変な人でね。セントラルパークには馬車が走っているので、馬糞が落ちている。それをいちいち指摘してくれるんです。アーヴィングはレスラーですので、体を鍛えるために走っているようでした。

湯川さん 戦前は「私小説」の隆盛で夏目漱石などが軽視されてしました。

村上さん 僕は漱石のファン。文章もうまいし、面白い。僕も最初の頃は批判が多かった。でも読者がちゃんと付いてきてくれた。それが30年続いている。ありがたいことだと思う。

湯川さん 「1Q84」は物語を内にはらんだ大長編です。現実と非現実、日常と非日常の境目がないようです。一方で最新刊「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は「ノルウェイの森」以来のリアリズム小説のようですが。

村上さん 「ノルウェイの森」は純粋なリアリズム小説を目指した作品。上の段階にいかないといけないだろう、他の作家と同じ土俵に乗らないと次のステージにいけないだろうとしばりをかけ、それなりにうまく書けたと思う。本来のものでないもので売れてしまったので、プレッシャーを感じた。でも、あれがないと「ねじまき鳥」は書けなかったと思っている。「1Q84」は全部三人称で書くことで世界が広がった。三人称はどこへでもいけるし、誰のことも書ける。ミクロコスモスを並べ、お互いが反応し合うところを作品にできる。ドストエフスキーの「悪霊」が念頭にあって、そういう総合小説を書きたかった。「1Q84」はやりたかったことがフォーマットとしてできたと思う。「多崎つくる」は現実と非現実に分かれているものを全部現実の土俵に乗っけてみたらどうだろうと思って書いた作品。アタマと意識が別々に動いている。羊男やカーネル・サンダースは出てこないが、底の方で横たわっている。「ノルウェイの森」には文学的な後退だという批判もあったが、僕にとっては実験。今回も新しい試みをしている。

湯川さん 「多崎つくる」は議論の多い小説だと感じました。トーマス・マンの「魔の山」やドストエフスキーの「悪霊」をほうふつさせます。

村上さん 僕の中では対話小説です。灰田親子の部分はたしかに議論的なところがあるが、彼らは筋に絡んでいない。筋に絡んでいない人たちなので議論になるのだと思います。僕は小説を書く上で会話部分で苦労したことはなく、会話でストーリーを進めていくことが好き。ただし会話を描くときに体温が変化しているようなリズムがないとだめです。

湯川さん 今度の小説は「アフォリズム」が多いように感じましたが。

村上さん 自分ではあまり意識しなかったが、それは読み手の自由ですね。僕はテキストを提供する側ですから。

湯川さん 読み終わった後、つくるが辿った時間はすごく単純、劇的なものが何もない。しかしつくるの内面では非常に激しいドラマがある。時間的な筋と物語とはちがうのか。

村上さん 確かにあれをあらすじにするとおもしろくなくなる。出来事を描写するのではなく、意識の中に出来事を並べている。そこで読者の意識がついていかなければならないので、難しいところでもあります。僕は今回のように人間をきちんと書いたのは初めてだった。最初「多崎つくる」は短い小説にするつもりだった。名古屋の4人も説明しないつもりだったが、書いているうちにどうしても書きたくなった。沙羅がつくるに「行きなさい」「向き合いなさい」と言ったと同時に僕に「書きなさい」と言ってきた。彼女は僕も導いてきたので、たしかにすごい存在です。僕にはこれまでもそういうことはあった。たとえば昔雑誌でフィンランドに行ったことがあって、そのあとにフィンランドの場面を思いついた。フィンランドに行かずに書いたけど、わりとそっくりそのままだった。借りたフォルクスワーゲンも紺色だった。僕にとっては導かれるということが大事で、導かれて体験し、より自分が強くなる。自分自身や登場人物が強くなっていくなかで、読者にも伝わればいいと感じています。

湯川さん 人と人をつなぐのが物語の役割。場面場面に問いかけがあるように思います。

村上さん これまではこっちは書かないと言ったことがあったが、(最近は)人間的興味が出てきた。「アカ」とは、「アオ」とはなどと、勝手に動き出す。人間と人間のつながりに強い関心があります。「1Q84」を書いてそのような力が出てきたのではと思う。

湯川さん 今回の場合は5人というユニットで、とても象徴的。「アオ」のような出世人間を描き、しかもリアリティーを感じるが、どのようなところから着想を得ているのか。

村上さん 僕の小説登場人物にはモデルというのはなく、ほとんど自分で、仕事やしゃべり方を自分で作りました。

湯川さん つくる君はグループから突然切り捨てられ、なぜそうなったかという問いに半年間ぼうぜんとします。

村上さん 僕も近いような経験はあったが、そういうとき、人はそのような経験を隠そうとするのだと思う。人は傷を受け、時間が経つと上を向いて、という繰り返しではないのか。僕は結局、そういうのを書きたかったかもしれません。

湯川さん フィンランドでの再会の場面はたった2、3回しか「悪霊」という言葉を使ってないが、「シロ」や「クロ」の人生をまざまざと象徴しています。

村上さん 僕はメタファーとしての悪霊ではなく、本当にいるおばけというものを意識して「悪霊」と書いた。そういうのは本当にとりつかれる人がいるし、本当にこわい。メタフォリックに読み取られることはあるだろうけれど、僕の中では、一人の人間を滅ぼすほどの本当のお化けを考えていた。

湯川さん 「エリ(クロ)」がつくるにハグしてくれというとき、「痛みと痛みによってつながっているのだ」との言葉によって、二人が肉体を持つように感じたが。

村上さん 自然とそうなっちゃうのかな。あまり読み返すことはないが、自分の本を読み返したとき、「アンダーグラウンド」でいつも涙が出る。インタビューのときはにニコニコしながら話を聞いていたが、去ってから1時間ぐらい涙が出た。そういう経験が大事だと思う。

湯川さん 19世紀小説が意識のどこかにあったか。

村上さん 全くなかった。小説を書き始めた頃は、書きたくても書けない、という事が多かったが、少しずつ書けることを増やしていった。なんとか書けるようになったのが2000年ごろ。「海辺のカフカ」から自分の書きたいことがちゃんと書けるようになったと感じている。

湯川さん 「多崎つくる」は執筆にどれくらいかかりましたか。

村上さん 半年で第1稿を書き、半年で第2稿を書いた。朝は小説を書き、昼からは翻訳などしてほかはしない。朝に集中して早く書く。僕は書き直しが好きで、第1稿と第2稿は全く違ったものになる。第1稿はコンピューターに残っているが、早く捨てたい。

湯川さん リスト「ル・マル・デュ・ペイ」のラザール・ベルマン、小説で使おうと思ったのは?

村上さん 僕は朝クラシックを聴く。夜に寝る前にLPに明日の聞くものをセットする。そこでたまたまリストのLPが仕事をしているときにかかって、使おうと思った。説明できないが、CDよりアナログLPのほうが音として仕事がはかどる。僕はいつも音楽に励まされて仕事をしている。これまでずっとジャズを聴いてきて、リズム曲になじんでいるので、文章を書くときにもリズムで書いている。僕は小説は独学だが、リズムに乗って文章を書けばいけると思う。最後に僕の本を読んで「泣きました」という人がいるが、「笑いました」と言われた方がうれしい。泣くという悲しみは個人的な感情に密接に結びついている。笑いはもっと一般的なものだから、読者に笑ってもらえるものを書きたい。ユーモアで笑うと人の心が広がる。悲しみは内向していくので、まず開かないといけない。ユーモアをいろんなところにちりばめて小説を書いていきたい。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0602F_W3A500C1000000/
村上春樹さんと参加者との質疑応答
2013/5/6 22:43

Q マラソンについてのこれからのビジョンは?

A 昔はフルマラソンの時間を早くしようとずっと考えていたが、これからは年取ってもずっと走っていきたいという思いが強い。

Q 春樹さんの読書体験で思春期から青年期に呼んで、心の支えになっているものは?

A 小3ぐらいから兵庫県西宮市の図書館で手当たり次第に読んでいた。中学生から19世紀文学に。父母が日本文学をやっていたので、そこから逃げるように世界文学。大学からは日本文学も読んだ。好きなのは夏目漱石、谷崎潤一郎、第三の新人など。

Q 女子大生なのですが、身の回りの男子大学生がユーモアがなく、深いことを言わない、気の利いたジョークもいえない。

A 僕の若い頃にそっくり。若い頃にはそういうのは確かに無理だし、期待してはいけないのでは。

Q 村上さんは立ち飲み屋に行きますか?

A 行きません。最近は行きつけのバーに行くことが多い。

Q 今まで飲んだビールで1番は?

A どんなビールでものどを渇いてるときの冷たいものはうまい。ハワイでマウイブリュワーズカンパニーの缶ビールが最近いい。

Q 「海辺のカフカ」の上巻を日本語で、下巻を英語で読みました。どちらも良かったです。

A 物語が強くてどんどん進んでいくのは翻訳しやすい。地の文が長く、濃密な描写があるものは翻訳しにくい。結果的に僕が書くものは結果的に翻訳しやすいというものはあるかもしれません。

Q 英語に翻訳されたものは読み直すか?

A はい。しかし翻訳と原文の違いは自分で分からないので、ただ読んでしまうだけになる。

Q 英語以外の翻訳に関してどう思われるか?

A 小さい国へ行って、僕の本があるのはうれしい。アイスランドでフィンランド語の翻訳で出ている。読者層が少なく、お金にもならないが、自分の言語に誇りもあって村上作品を自分の言語にしたいというのがとてもうれしい。

Q 京都についての思い入れの場所は?

A 父親が京都の寺の息子だった。僕は2つくらいのときに阪神間に移ったが、南禅寺など今でもよく行きます。

Q アメリカでひいきの球場や球団は?

A ボストンに住んでいたのでレッドソックスの試合をよく見に行った。長年のひいきであるヤクルトスワローズの青木がブリュワーズに行ったので、ブリュワーズも応援している。先日、ヤクルト対DeNA戦に行き、場外ホームランを見たのがすごいと思った。子供の頃は阪神タイガース友の会に入っていた。僕は地元のチームを好きになって、地元の球場で応援するのが好き。神宮のレフトスタンドにいます。

Q 楽器をするなら? バンドを組むなら?

A ピアノを昔やっていたが、今は手が動かないので、和音探しをしている。モンクの和音は非常に難しく探せない。

最後に 「今回つまらなかった、けど次買う」という人がものすごく好き。僕自身は全ていいと思って書いているが、どうしても届かないところもある。それでも読み続けてくれる人がいることが、何万部売れるよりもうれしい。一生懸命没頭して書いているので、是非次も読んでもらえたらと思っています。

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村上春树2013.5.6在京都大学的演讲辑录:等您坐沙发呢!

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