PeterCat
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和米基喝杯咖啡
1974年還是學生的村上春樹〈1975年畢業〉, 在東京都外圍的國分寺開了一間名叫「Peter Cat」的爵士咖啡廳〈第一代〉,1979年前還沒成為作家的他,就頗有名氣,我共找到了三種他還只是爵士咖啡廳老闆身分時的雜誌報導:
「Jazz」 1975年5月特別増大号
內頁‧第一代「Peter Cat」
內頁‧26歲的村上〈村上朝日堂-搬家即景(3)插圖裡村上髮型就是這樣〉
「ジャズ日本列島」1975年 NO.3 - 昭和50年版
內頁「Peter Cat」介紹
內頁‧地圖
ジャズランド JAZZLAND 1975年8月創刊号
內頁是村上非作家時的訪問
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etc.解放区(読者のページ):「ジャズ喫茶のマスターになるための18のQ&A」村上春樹(ピーター・キャット)
Q1 ジャズ喫茶を始めたいと思うのですが、さしあたって一番要求される資質は何でしょうか?
A 恐れを知らぬ行動力です。
Q2 それでは一番不必要なものは?
A 知性です。
Q3 現在大学に在学中ですが、卒業はした方が良いでしょうか。
A 経験から言うと、卒業証書の表紙はメニューにぴったりです。
Q4 好きな女の子が居るのですが、ジャズ喫茶のマスターとしては結婚していた方が得でしょうか、それとも独身でいた方が得でしょうか?
A あなたが一体何を指して得とか損とか言ってるのか、よく理解できないけれど、この世の中で結婚して得をすることなど何ひとつないのです。
Q5 よくジャズ喫茶のマスターは女の子にもてるっていう話を開きます。そんな時、客の女の子には手を出していいのでしょうか?
A まったくの取り越し苦労です。
Q6 レコードは最低何故必要でしょうか?
A 度胸さえあれば15枚でOKです。
Q7 でも、「ファンキー」や「DIG」に行って、レコード棚やオーディオを見る度にガックリして、僕なんかにとても……という気分になるのですが?
A そんな所に行くのが間違っているのです。国分寺に来なさい。
Q8 僕は前衛ジャズに弱いので、それ以外のジャズを中心にやりたいのですか?
A お好きなように。
Q9 お客に文句は言われませんか?
A もちろん言う人は居ます。気にしなければいいのです。
あなたのお店なんだし、好きなようにやってみて、儲かるのもあなた一人だし、赤字を出して首を吊るのもあなた一人なのです。
Q10 お酒を出すつもりなのですが、酔って騒ぐような人が居たらどうしたらいいのでしょうか?
A 「戦艦バウンティ」という映画が昔ありました。その中で異端分子は全員船から突き落とされていました。
Q11 「スイング・ジャーナル」に広告を出すべきでしょうか?
A もちろんです。その上に「スクリーン」と「週刊平凡」に広告を出せば効果は抜群です。
Q12 僕はコルトレーンの『至上の愛』が嫌いなので店には置かないつもりなのですが、
友人は“『至上の愛』のないジャズ喫茶なんて…と言います。どうでしょうか?
A バカは相手にしないことです。
Q13 ジャズ評論家にコネがきくのですが、レコ-ド解説やコンサートをやった方が良いでしょうか?
A テスト盤をもらうだけくらいの方が賢明です。ロシア革命の時、一番最初に銃殺されたのはジャズ評論家だったそうです。
Q14 ジャズ喫茶という職業は一生続けていくに値いするものでしようか?
A 田中角栄にとって土建業が一生続けていくに値いする職業なのか?
川上宗薫にとってポルノ小説家が一生続けていくに値いする職業なのか?
猫にとってキヤツト・フードが一生食べていくのに値いする食物なのか?
非常に難しい問題です。
Q15 僕にとってジャズ喫茶はまるでなにか青春の里程標のような気がするのですが、 こういう考え方は間違っているのでしょうか?
A 間違ってはいませんが、明らかに誇張されています。
Q16 それではジャズ喫茶とは一体何なのでしょうか?
A ジャズを供給する場所です。ジャズとは何か?
僕はそれは、人生における一種の価値基準のようなものではないかと思うのです。
茫漠とした時の流れの中で、僕たちの人生がどんな風に輝き、どんな風に燃えつきていくのか?
ジャズの中に沈みこんでいる時、僕たちはそんな何かをみつけだせるような気がするのです。
Q17 そういう考え方は少し誇張されすぎてはいませんか?
A すみません。その通りです。ただ僕の言いたいのは、ジャズ喫茶のマスターがそういった使命感を忘れたらもうおしまいだっていうことなのです。
Q18 ところで話はガラッとかわりますが、今年のヤクルト・アトムズはどうなるのでしょうね?
A 当然優勝します。巨人は最下位になり、王はナボナのCMから下ろされます。
國分寺第一代「Peter Cat」〈地下一樓〉
國分寺Peter-Cat(1975)
1977年村上將「Peter Cat」店面從國分寺轉到近都心的千駄谷
〈換店面有沒有想到傑氏酒吧,而且一樣是二樓〉
此照片常看到被人引用,拍攝時間地點是1978年千駄谷第二代「Peter Cat」
1979年村上成為作家
週刊朝日1979年5月4日号
群像新人文学賞=村上春樹さんは、レコード三千枚所有のジャズ喫茶店店主
內文
http://www.geocities.jp/yoshio_osakabe/Haruki/Interview/Shukan-Asahi-19790504.html
群像新人文学賞=村上春樹さんは、レコード三千枚所有のジャズ喫茶店店主
東京・千駄ケ谷でジャズ喫茶(夜はバーを経営している二十九歳の青年、村上春樹さんの小説「風の歌を聴け」(二百枚が、第二十二回「群像新人文学賞」に入選した。選考委員五氏が全員一致、文句なしの決定だった。変わり種作家が続出する現代文学風景の中に、またひとり異色新人の登場である。
夜はピアノの生演奏もあるというその店を、昼間おとずれたら、白いエプロンを胸にかけグラスを磨いていた、髪を短くカットした青年が、
「僕が村上です」
なるほど、受賞作「風の歌を……」の作者のイメージは、まさにこうでなければならないのだろう。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」--こんな書き出しで始まるこの作品は、一九七〇年八月の八日から二十六日まで十九日間の物語。別に複雑な筋はない。
人口七万、海から山に向かつて伸びた惨めなほど細長い街の山の手にある「ジェイズバー」のバーテン、ジェイと、東京の大学から夏休みで帰ってきている生物学専攻の「僕」と、小説を書いている「鼠」との友惰、ジェイの店の洗面所に転がっていた左手の指が四本しかないレコード店の女と「僕」とのセックスのない交渉などが、しゃれた会話で、ものうく綴られてゆく。舞台が日本なのかどうなのか、ちょっと分からないような、どこか異国風の乾いた明るさがある。
店には村上龍もよく顔を出した
が、舞台は、まぎれもなく日本の今日だ。ラジオの「ポップス電話リクエスト」のディスク・ジョッキーのおしゃべりが不意に挿入される。「ふう…なんて暑さだい、まったく」「だれか、よく冷えたコーラ持ってきてくれない?」「ねえ、野球はどうなってる?…他の局で中継やってんだろう?」--レコードが回っている間の、こうしたDJの私語をとり入れた構成も、生きている。
「だいたい、映画のシナリオを書きたいと思ったんですよ」と作者は言う。早大文学部演劇科に七年間在籍し、卒業した。この間、映画の脚本ばかり書いていたそうだ。
物書きで生きるのなら、七年もかかって卒業証書をもらう必要もないようにも思えるのだが、その点、
「それが、自分でもなんで学校にそれほどこだわったのか、よく分からないんですよ」
と「ご当人も首をかしげる。突っぱり世代の後から来た青年の一人、なのであろう。兵庫県芦屋の会社員の一人息子。県立神戸高校から一浪して早稲田に入った。
「小説の舞台は私の郷里に近い町を想定したのですが、神戸の近くときめつけてしまうと、人物の言葉を関西なまりにしなくちゃならないので、少しぼかしたのです」
国籍不明の雰囲気は、このあたりにも原因があるようだ。
在学中にクラスメートの女子学生と結婚し、最後の一年間は単位が一科目しか残っておらず、あまり学校へ行く必要がなかったから、東京・国分寺で小さなジャズ喫茶を開いた。武蔵野美大の学生だった村上龍氏が、よく顔を見せたそうだ。その店がビルの建て替えのため一年半で閉店することになり、三年半前に千駄ケ谷の今の店をつくつた。
日本の小説にはあまリ縁がない
「これだけの店を開くには、大変な借金ですよ。銀行を回って、どうにかやりくりしたのですが、まだ大分残っています」
ジャズのLPが三千枚。夜はピアノの生演奏。朝十一時から夜の零時までの十三時間営業である。
「近くのマンションに住んでいるので、息抜きに一、二時間、自分の部屋に帰りますが、毎日十時間以上は音楽を聴いていることになりますねえ」
だから、受賞作にも、ジャズの曲名がふんだんに出てくる。
ブルック・ベジトンの「レイニー・ナイト・イン・ジョージァ」、ビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガール」、マイルス・デイビスの「ギャル・イン・キャリコ」、「エブリデイ・ピーブル」、「ウツドストツク」、「スピリツト・イン・ザ・スカイ」、「ヘイ・ゼア・ロンリー・ガール」……。
映画の脚本ばかり書いていた青年が、どうして小説を書き出したのか。早稲田を出るにあたって、「アメリカ映面における旅の系譜」という卒業論文を書いた。
「駅馬車」から「宇宙の旅」にいたるまで、アメリカ映画の発達とテーマは人と物の移動にある--という論旨だった。それを読んだ印南高一教授が「君は小説が書けるんじゃないかね」ともらした。その言葉が、頭にひっかかっていて、ふとペンをとらせたということらしい。その処女作がいきなり入選作となった。
この新人、日本の小説は、ほとんど読んだことがない。八年前、読むものがないのでたまたま目についた谷崎潤一郎の「細雪」を読んだくらいのもの。
「これは面白かったですねえ」
しかし、かといって谷崎のほかの作品を続けて読みたいという気持ちも、さらに起こらなかったという。読んだのは、もっぱらアメリカ文学。
この小説にも、デレク・ハー卜フィールドという聞きなれないアメリカの作家のことが盛んに出てくる。「僕」が、非常に影響を受けたということになっている。さすがアメリカ文学にはくわしい、と思つたら、
「あれは、でっちあげですよ」
茶目っ気も相当なものだが、もちろん、ただのいたずらではない。この架空作家ハートフィールドの存在は、この作品に、見事な効果を与えている。
ヘミングウェー、フィッツジェラルドと同時代人で、「文章を武器として闘うことのできる数少ない非凡な作家の一人」という設定。彼は、一九三八年八月のある晴れた日曜日の朝、右手にヒトラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしてエシパイアー・ステート・ビルの屋上から飛び降りる。しかし、生きていた時と同様、死んだことも大した話題にはならなかつた。「僕」が絶版になったハートフィールドの作品の何冊かを偶然手に入れたのは中学三年の夏休みだった--。
小説書くヒマは一日一、二時間…
そのハートフィールドは、例えば、“良い文章”について、こんな風に書く作家だ。
「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ」
そして、「風の歌を聴け」の結末は、このハートフィールドを冗舌に語って終わるのである。
-- 彼の小説の殆んどは冒険小説と怪奇ものであり、その二つをうまく合わせた「冒険児ウォルド」のシリーズは彼の最大のヒット作となり、全部で四十三編を数える。彼はパラマウントの撮影所とFBIの研究所を除けば、おそらく全米一の完璧に近い銃のコレクションを持っていた。
彼の墓碑には遺言に従って、ニーチェの次のような言葉が引用されている。
「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」
この架空の米国人もまた、作者の分身の一人であることはいうまでもあるまい。
「私の店には、若い編集者のかたが見えますよ。中上健次さんも編集者に連れて来られた一人で、ちょっと話したことありますけど。新聞に出たので、私が小説を書いたことはお客さんにも分かりましたが、店の名前は伏せてくれませんでしょうか。やはり店を大切にしないとねえ。私に特別の興味を持って来られても困るんですよ」
文名をあげるまでの仮の姿などではなく、レッキとしたジャズ喫茶のマスターである村上春樹さんは、突如、自分が「作家」と呼ばれる存在にされたことに、戸惑っているらしい。
「この仕事をしていると、小説を書く時間は、一日に一、二時間しか割けませんでねえ」
本誌・横山政男
ブルータス - BRUTUS -1980年12月1日 第1巻第9号
內頁‧第二代「Peter Cat」
「IN POCKET」1985年10月特大号
內頁‧第二代 Peter Cat (1980)
1980
1981年村上將「Peter Cat」賣給友人,搬離東京,專心寫小說。
千駄谷「Peter Cat」原址現在變成一間
名叫CAFE JAMAICA UDON的餐飲店
前幾年村上開始被預測會得諾貝爾文學獎,日本節目做的特集有訪問此店老闆
「Peter Cat」周邊
最有名的應該就是這個火柴盒
火柴盒有兩種版本,側面分別印Sendagaya〈千駄谷〉、Kokubunji〈國分寺〉加電話,
千駄谷背面是JAZZ,國分寺背面是JAZZ 50's,
JAZZ 50's的意思雜誌「ジャズ日本列島」內頁有解釋,
是指店裡以播放50年代盤為主
杯墊
有「Peter Cat」LOGO的店藏LP
Stan Getz - Getz Au Go Go
另一張不明的Stan Getz
千駄谷「Peter Cat」附近鳩森神社裡的「Peter Cat」燈籠
(2003年7月設)
大島先生的peter-cat存酒名牌
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PeterCat:等您坐沙发呢!