ダンス・ダンス・ダンス
僕がいるかホテルに着いた時、フロントのカウンターには三人の女の子が立っていた。女たちは前と同じようにしわひとつないブレザー・コートに純白のブラウスという格好で僕をにこやかに出迎えてくれたが、その中にユミヨシさんの姿はなかった。僕はそのことにひどく失望した。いや、絶望したといってもいいくらいだ。僕はここに来れば当然ユミヨシさんとすぐに再会できるものと頭から思いこんでいたのだ。それで僕はうまく口をきくことができなくなってしまった。僕は自分の名前さえうまく発音することができなかったし、その結果僕の相手をしてくれた女の子の微笑みは油が切れたみたいに少しこわばることになった。彼女は僕のクレジット・カードを疑わしそうに眺めてからコンピュータにさしこみ、それが盗品でないことを確かめた。
僕は十七階の部屋に入って荷物を置いて洗面所で顔を洗い、ロビーに下りた。そしてふわふわした上等なソファに座って、雑誌を読むふりをしながらちらちらとフロントを眺めていた。ユミヨシさんはあるいは休憩をとっているだけなのかもしれないのだ。でも四十分たってもユミヨシさんは現れなかった。同じような髪型をした見分けのつかない三人の女の子がいつまでも働いているだけだった。ちょうど一時間待ってから僕は諦めた。ユミヨシさんは休憩をとっているわけではないのだ。
僕は街に出て、タ刊を買った。そして喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら、ひょっとして何か僕に興味のある記事が出てないだろうかと思って隅から隅まで読んでみた。
でも何もなかった。五反田君のこともメイのことも、何も載っていなかった。別の殺人やら別の自殺やらについての記事が載っているだけだった。僕は新聞を読みながら、ホテルに帰ったらたぶんユミヨシさんはフロントに立っているだろうと思った。そうでなくてはならないのだ。
でも一時間後にも相変わらずユミヨシさんの姿はなかった。
僕は彼女が何らかの理由で世界から突然消えてしまったんじゃないかとふと思った。たとえば壁に吸い込まれてしまうみたいに。そう思うと、僕はひどく不安な気持ちになった。それで僕は彼女のアパートに電話をかけてみた。電話には誰も出なかった。僕はフロントに電話をかけてユミヨシさんはいるかと訊いてみた。「ユミヨシは昨日から休暇を取って休んでおります」と別の女の子が教えてくれた。明後日から勤務に戻るということだった。やれやれと僕は思った。どうして前もって彼女に電話をしておかなかったんだろう?どうして電話をするということを思いつかなかったんだろう?
でも僕はとにかく飛行機に乗ってすぐに札幌に来るということしか頭になかったのだ。そして札幌に来ればすぐにユミヨシさんに会えると思いこんでいたのだ。馬鹿気た話だ。だいたい僕はこの前いつ彼女に電話をかけた?五反田君が死んでから一度もかけてない。いや、その前だってかけてないぜ、と僕は思った。ユキが海岸で吐いて、僕に五反田君がキキを殺したと言った時からずっとかけてない。ずいぶん長い期間だ。僕はずっとユミヨシさんをほったらかしにしておいたのだ。その間に何が起こったかわからない。いろんなことが起こり得るのだ。簡単にいろんなことが起こるのだ。
でも、と僕は思う、僕には何も言えなかったのだ。本当に何も言えなかったのだ。五反田君がキキを殺したとユキが言った。そして五反田君はマセラティで海に突っ込んだ。僕はユキに「大丈夫、君のせいじゃない」と言った。キキが僕に私はあなたの影にすぎないのよと言った。僕にいったい何が言えるだろう?何も言えやしない。僕はまずユミヨシさんの顔を見たかったのだ。それから自分が何を彼女に言うべきかを考えたかったのだ。電話では何も言えないのだ。
でも僕は不安だった。ユミヨシさんは既に壁に吸い込まれてしまっていて、僕はもう永遠に彼女に会うことができないのではないだろうか?そう、あの白骨は全部で六個あったのだ。五つまでは誰だかわかっている。でもあとひとつだけ骨は残っているのだ。それは誰のものなのだろう?そのことを考え始めると僕は居ても立ってもいられないような気持ちになった。息苦しくなるくらい胸がどきどきした。心臓がどんどん膨らんでいって肪骨を突き破るんじゃないかという気がしたほどだった。そんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。僕はユミヨシさんを愛しているのだろうか?わからない。会って顔を見てみないことには何も考えられないのだ。僕は指が痛くなるくらい何度もユミヨシさんのアパートに電話をかけてみた。でも誰も出なかった。
僕は上手く眠れなかった。激しい不安感が僕の眠りを何度も分断した。僕は汗をかいて目覚め、電灯をつけて時計を見た。それは二時だったり、三時十五分だったり、四時二十分だったりした。そして四時二十分のあとはとうとう眠れなくなってしまった。僕は窓際に座って心臓の音を聞きながら街が明るくなっていく様子をじっと眺めていた。
ねえユミヨシさん、僕をこれ以上一人ぼっちにしないでくれ、と僕は思った。僕には君が必要なんだ。僕はもう一人ぼっちになりたくないんだ。君がいないと僕は遠心力で宇宙の端っこの方に吹き飛んでいってしまいそうな気がするんだ。お願いだから僕に顔を見せて、僕を何処かにつなぎとめてほしい。現実の世界につなぎとめてほしいんだ。僕はお化け組になりたくないんだ。僕はごく普通の当たり前の三十四歳の男なんだ僕には君が必要なんだ。
僕は朝の六時半からずっと彼女の部屋の電話番号を回し続けた。三十分おきに僕は電話の前に座ってダイヤルを回した。でも誰も出なかった。札幌の六月は素敵な季節だった。雪解けはずっと前に終わり、ほんの数カ月前には固く凍えていた大地は今は黒々として、柔らかな生命の息吹をたたえていた。木々は青い葉をいっぱいに茂らせ、清潔で優しい風がその葉を揺らせていた。空は高く透き通り、雲は輪郭をくっきりとさせていた。そんな風景は僕の心を震わせた。でも僕はずっとホテルの部屋の中に留まって、彼女の家の電話番号を回し続けていた。明日になれば彼女は戻ってくるんだ、それまで待てばいいじゃないか、と僕は十分ごとに自分に言いきかせた。でも僕は明日がくるのが待てなかった。明日がくるなんて誰に保証できる?僕は電話機の前に座ってダイヤルを回し続けた。そして電話をかけていない時はベッドに寝転んでうとうとまどろみ、意味もなくじっと天井を眺めた。
昔ここにいるかホテルがあったんだ、と僕は思った。ひどいホテルだった。でもそこにはいろんなものが留まっていた。人々の思いや時の残滓が、その床の軋みのひとつひとつに、壁のしみのひとつひとつに留まっていた。僕は椅子に深く座り足をテーブルの上に載せ、目を閉じているかホテルの光景を思い出してみた。その入り口のドアの形から、擦り切れたカーペットから、変色した真鍮の鍵から、隅にほこりのたまった窓枠まで。僕はその廊下を歩き、扉を開け、部屋に入ることができる。
いるかホテルは消えた。でもその影と気配はまだここに残っていた。僕はその存在を感じ取ることができた。いるかホテルは、この新しく巨大な『ドルフィン・ホテル』の中に潜んでいるのだ。目を閉じれば僕はその中に入っていくことができた。ごとごとごとごと、というあの老犬の咳みたいなエレベーターの震える音を聞き取ることもできた。それはここにあるのだ。誰も知らない。でもここにある。この場所が僕の結び目なのだ。大丈夫、ここは僕の為の場所なのだ、と僕は自分に言い聞かせた。彼女は必ず戻ってくる。じっと待っていればいいのだ、と。
僕はルーム・サービスで夕食を取り、冷蔵庫からビールを出して飲んだ。そして八時にもう一度ユミヨシさんに電話をかけてみた。誰も出なかった。
僕はTVをつけて九時まで野球の中継を見た。音を消して画面だけを見ていた。つまらない試合だったし、とくに野球の試合が見たいというのでもなかった。でも僕はとにかく生身の人間が動き回っているところを見ていたかった。バドミントンの試合だろうが、水球の試含だろうが、なんでもよかった。僕は試合の流れを追わずに、ただ人がボールを投げたり、それを打ったり、走ったりするのを見てた。ずっと遠くにある、自分とは関係のない誰かの生の断片として。まるで空を流れる遠い雲を眺めているみたいに。
九時になって僕はまた電話をかけてみた。今度はたった一度のコールで彼女が出た。僕はしばらくの間彼女が電話に出たことが信じられなかった。突然の巨大な一撃で僕を世界に繋ぎとめていた綱が断ち切られたような気がした。体の力が抜けて固い空気の塊が喉もとに上がってきた。ユミヨシさんがそこにいるのだ。
「今旅行から帰ってきたばかりなの」とユミヨシさんはとてもクールな声で言った。「休暇を取って東京に行ってたの。親戚の家に。あなたの家に二回電話したわよ。誰も出なかったけど」
「僕は札幌に来て、君にずっと電話かけてたんだ」
「すれ違い」と彼女は言った。
「すれ違いだ」僕はそう言って受話器を握りしめ、TVの無音の画面をしばらくじっと睨んでいた。上手く言葉が浮かんでこない。僕はどうしようもなく混乱していた。どう言えばいいんだろう?
「ねえ、どうしたの?もしもし」とユミヨシさんが言った。
「ちゃんといるよ」
「あなた声が変みたいだけど」
「緊張してるんだよ」と僕は説明した。「直接君と会って話さないとうまく喋れない。ずっと緊張していたし、電話だとその緊張が解けないんだ」
「明日の夜なら会えると思うけど」と彼女はちょっと考えてから言った。たぶん眼鏡のブリプジに指を触れているんだろうな、と僕は想像した。
僕は受話器を耳にあてたまま床に腰を下ろし、壁にもたれた。「ねえ、明日じゃ遅いような気がするんだ。今日これから会いたい」
彼女は否定的な声を出した。声にならない声だったが、その否定的な空気はちゃんと伝わってきた。「今とても疲れてるのよ。くたくたなの。帰ってきたばかりだって言ったでしょう?だから今からといわれても困るのよ。明日は朝から仕事に出なくちゃならないし、今はただただ眠りたいの。明日、仕事が終わってから会うわ。それでいいでしょう?それとも明日はもうここにはいないの?」
「いや、僕はしばらくずっとここにいるよ。君が疲れているのもよくわかってる。でもね、正直に言ってなんだか心配なんだ。明日になったらもう君が消えちゃっているんじゃないかって」
「消える?」
「この世界から消えちゃうこと。消滅」
ユミヨシさんは笑った。「そんなに簡単には消えたりはしないわよ。大丈夫よ、安心して」
「ねえ、そうじゃないんだ。君にはわかってないんだ。僕らはどんどん移動しつづけている。そしてその移動にあわせていろんなものが、僕らの回りにあるいろんなものが、消えていく。これはどうしようもないことなんだ。何ひとつとしてとどまらないんだ。意識の中にはとどまる。でもこの現実の世界からは消えていくんだ。僕はそれが心配なんだ。ねえ、ユミヨシさん、僕は君を求めている。僕はとても現実的に君を求めている。僕が何かをこんなに求めるなんて殆どないことなんだ。だから君に消えてほしくない」
ユミヨシさんは僕の言ったことについてしばらく考えていた。「おかしな人ね」と彼女は言った。「でも約束するわよ。消えない。そして明日あなたに会う。だからそれまで待って」「わかった」と僕は言った。そしてあきらめた。あきらめないわけにはいかないのだ。彼女がまだ消えていないことがわかっただけでも良かったのだ、と僕は自分に言い聞かせた。
「おやすみなさい」と彼女は言った。そして電話が切れた。
僕はしばらく部屋の中を歩きまわっていた。それから二十六階のバーに行って、ウォッカ・ソーダを飲んだ。僕が初めてユキを見掛けたバーだ。パーは混み合っていた。カウンターで若い女が二人で酒を飲んでいた。二人ともとてもシックな服を着ていた。着こなしも上手かった。一人は脚がきれいだった。僕はテーブル席に座って彼女たちを持に何の意味もなく眺めながらウォッカ・ソーダを飲んだ。それから夜景も眺めた。僕はこめかみに指をあててみた。別に痛みはない。それから僕は指で頭蓋骨の形をなぞった。僕の頭蓋骨。ゆっくり時間をかけて自分の頭蓋骨の形を確認してしまうと、こんどはカウンターに座った女たちの骨の形を想像してみた。頭蓋骨から脊椎から肋骨、骨盤、腕と脚、関節。とても綺麗な脚の中のとても綺麗な白骨。雪のように真っ白で、清潔で無表情な骨。脚の綺麗な方の女が僕の方をちらりと見た。たぶん僕の視線を感じたのだろう。僕は彼女に説明したかった。僕は君のからだを見ていたんじゃなくて、ただ骨の形を想像していただけなんだと。でももちろんしなかった。僕はウォッカ・ソーダを三杯飲んで部屋に帰って眠った。ユミヨシさんの存在を確認できたせいか、僕はぐっすり眠ることができた。
ユミヨシさんがやってきたのは午前三時だった。午前三時にドア・ベルが鳴った。僕はべッドサイドのライトを点け、時計を見た。そしてバスローブを羽織って、何も考えずにドアを開けた。ひどく眠くて、きちんと何かを考えるような余裕はなかった。ただ起きて歩いて、ドアを開けただけだった。ドアを開けると、そこにユミヨシさんが立っていた。彼女はライト・ブルーの制服のブレザー・コートを着ていた。彼女はいつもと同じようにドアのすきまからするりと部屋に入った。僕はドアを閉めた。
彼女は部屋の真ん中に立って、大きく息をついた。それからブレザー・コートを音もなく脱ぎ、皺にならないようにそれをきちんと椅子の背にかけた。いつもと同じように。
「どう、消えてないでしょう?」と彼女は言った。
「消えてない」と僕はぼんやりとした声で言った。僕には現実と非現実の境がまだうまく把握できなかった。僕は驚くことさえできなかった。
「そんなに簡単には人は消えないのよ」とユミヨシさんは噛んで含めるように言った。
「君は知らないんだ。この世界ではなんでも起こり得るんだよ。なんでも」
「でもとにかく私はここにいるわよ。消えてない。それは認めるわよね?」
僕はあたりを見回し、深呼吸し、ユミヨシさんの目を見た。現実だった。「認める」と僕は認めた。「君は消えてないみたいだ。でも夜中の三時にどうして君が僕の部屋に来るんだろう?」
「眠れなかったの、うまく、」と彼女は言った。「あれからすぐに眠ることは眠ったんだけど、一時過ぎにぱっちり目が覚めちゃって、それっきり全然眠れなくなったの。あなたの言ったことが気になったの。ひょっとしたらこのまま消えちゃうかもしれないんだってね。だからタクシーを呼んでここに来ることにしたのよ」
「でも夜中の三時に君が出勤して来たりしたらみんな変に思わないのかな?」
「大丈夫よ、見つかってないから。この時間はみんな寝てるの。二十四時間フル・サービスとは言っても、夜の三時だもの、特にやることもないのよ。きちんと起きて待機してるのはフロントとルーム・サービスの関係だけ。地下の駐車場から従業員用のドアを通って上がってくればわからないようになってるの。それに見つかったって、ここは従業貫が多いから勤務か非番かなんていちいちわからないし、わかったとしても仮眠室に眠りにきたんだって言えば全然問題ないのよ。こういうの、前にも何度かやったことがあるの」
「前にもある?」
「うん、眠れないとこっそり夜中にホテルに来るの。そして一人でうろうろするの。すると落ち着くの。馬鹿みたい?でも好きなのよ、そういうのが。ホテルの中にいるとすごくほっとするの。一度も見つかったことないわよ。だから安心しなさい。見つからないし、見つかっても何とでも言い抜けられるわよ。もちろん、この部屋に入ってることがわかったらそりゃちょっとした問題だけど、そうでなきゃ大丈夫。ここに朝までいて、出勤時間になったらそっと出ていく。いいでしょう?」
「僕はいいさ。出勤時間は何時なの?」
「八時」と彼女は言った。そして腕時計を見た。「あと五時間」
神経質そうな手付きで時計を腕から外し、ことんという小さな音を立ててテーブルの上に置いた。そしてソファに座って、スカートの裾をひっぱってまっすぐにし、顔を上げて僕を見た。僕はベッドの端に腰を下ろして少しずつ意識を取り戻していた。「それでーー」とユミヨシさんは言った。「あなたは私を求めているのね?」
「とても激しく」と僕は言った。「いろんなことが一回りしたんだ。ぐるりと。そして僕は君を求めている」
「激しく」と彼女は言った。そしてスカートの裾をまた引っ張った。
「そう、とても激しく」
「一回りして何処に帰ってきたの?」
「現実にだよ」と僕は言った。「ずいぶん時間がかかったけど、僕は現実に帰ってきた。いろんな奇妙なものの中を通り抜けてきた。いろんな人々が死んだ。いろんなものが失われた。とても混乱していたし、その混乱は解消したわけじゃない。たぶん混乱は混乱のままで存続しつづけるだろうと思うんだ。でも僕は感じるんだ。僕はこれで一回りしたんだって。そしてここは現実だ。僕は一回りするあいだくたくたに疲れていた。でも何とか踊り続けた。きちんとステップは踏み外さなかった。だからこそここに戻ってくることができたんだ」
彼女は僕の顔を見ていた。
「細かいことは今はとても説明できそうにない。でも僕を信用してほしい。僕は君を求めているし、それは僕にとってとても大事なことなんだ。そして君にとっても大事なことなんだ。嘘じゃないよ」
「それで、私はどうすればいいのかしら?」とユミヨシさんは表情を変えずに言った。「感動してあなたと寝ればいいの?素敵、そんなに求められるなんて最高!っていう具合に」「違うよ、そうじゃない」と僕は言った。そして適当な言葉を探した。でも適当な言葉なんてもちろんなかった。「なんて言えばいいんだろうな?それは決まっていることなんだよ。僕は一度もそれを疑ったことはない。君は僕と寝るんだ、最初からそう思っていた。でも最初の時はそれができなかった。そうするのが不適当だったからだよ。だからぐるっと一回りするまで待った。一回りした。今は不適当じゃない」
「だから今私はあなたと寝るべきだって言うの?」
「論理的には確かに短絡していると思う。説得の方法としては最悪だろうと思う。それは認める。でも正直に言おうとするとこうなってしまうんだよ。そうとしか表現のしようがない。ねえ、僕だって普通の状況ならもっとちゃんと手順を踏んで君を口説くよ。僕だってそれくらいのやり方は知ってる。その結果が上手く行くか行かないかはともかく、方法的にはもっとちゃんと人並みに口説ける。でもこれはそうじゃないんだ。これはもっと単純なことなんだ。わかりきってることなんだ。だからこれはこういう風にしか表現できないんだよ。上手くやるとかやらないとかの問題じゃないんだ。僕と君は寝るんだよ。決まってるんだ。決まっていることを僕はこねくりまわしたくないんだ。そんなことをしたら、そこにある大事ものが壊れてしまうからだよ。本当だよ。嘘じゃない」
ユミヨシさんはテーブルの上に置いた自分の時計をしばらく眺めていた。「あまりまともとは言えないわね」と彼女は言った。それから溜め息をついてブラウスのボタンを外し始めた。
「見ないで」と彼女は言った。
僕はベッドに寝転んで天井の隅を見ていた。あそこには別の世界がある、と僕は思った。でも僕は今ここにいる。彼女はゆっくりと服を脱いでいった。小さなきぬずれの音が続いていた。彼女はひとつ服を脱ぐと、それを畳んできちんとどこかに置いているようだった。眼鏡をテーブルの上に置くかたんという立目も聞こえた。とてもセクシーな音だった。それから彼女がやってきた。彼女は枕もとのライトを消し、僕のベッドの中に入ってきた。するりと、とても静かに彼女は僕の隣に潜りこんできた。ドアのすきまから部屋に入る時と同じように。
僕は手を伸ばして彼女の体を抱いた。彼女の肌と僕の肌が触れた。とても滑らかだ、と僕は思った。そしてそこには何かしら重みがある。現実だ。メイとは違う。彼女の体は夢のように素晴らしかった。でも彼女は幻想の中にいたのだ。彼女自身の幻想と、彼女を含む幻想の、二重の幻想の中に。かっこう。でもユミヨシさんの体は現実の世界に存在していた。その温かみや重みや震えは本当に現実のものだった。僕は彼女の体を撫でながらそう思った。キキを愛撫する五反田君の指も幻想の中に存在していた。それは演技であり、画面の上の光の動きであり、ひとつの世界からもう一つの世界へとすりぬけていく影だった。でもこれは違う。これは現実なのだ。かっこう。僕の現実の指がユミヨシさんの現実の肌を撫でているのだ。
「現実だ」と僕は言った。
ユミヨシさんは僕の首に顔を埋めていた。僕は彼女の鼻先の感触を感じた。暗闇の中で僕は彼女の体の隅から隅までをひとつひとつ確かめていった。肩から、肘、手首、手のひら、そして十本の指の先まで。僕はどんな細かいところも抜かさなかった。僕はそれを指で辿り、そこに封印をするみたいに唇をつけた。そして乳房と腹、脇腹、背中、足、そんなひとつひとつの形を僕は確かめ、そして封印をした。そうする必要があったのだ。そうしなくてはならなかったのだ。そして僕は彼女の柔らかな陰毛を手のひらでやさしく撫で、そこにもくちづけした。かっこう。それから性器にも。
現実なのだ、と僕は思った。
僕も何も言わなかったし、彼女も何も言わなかった。彼女はただ静かに呼吸をしていた。でも彼女もまた僕を求めていた。僕にはそれを感じることができた。彼女は僕が何を求めているのかがわかっていたし、それに合わせて微妙に姿勢を変えた。僕は彼女の体を全部確かめてしまうと、もう一度彼女を腕の中にしっかりと抱きしめた。彼女の腕も僕の体をしっかりと抱いていた。彼女の吐く息は温かく、湿っていた。それは言葉にならない言葉を空中に浮かべていた。そして僕は彼女の中に入った。僕のペニスはとても固く、そして熱かった。
それだけ激しく僕は彼女を求めていたのだ。僕はひどく乾いていたのだ。
最後にユミヨシさんは僕の腕を血がにじむくらい強く噛んだ。でもかまわない。これが現実なのだ。痛みと血。僕は彼女の腰を抱きながら、ゆっくりと射精した。とてもゆっくりと、順番を確かめるみたいに。
「すごい」と少し後でユミヨシさんが言った。
「だから決まってたんだよ」と僕は言った。
ユミヨシさんはそのまま僕の腕の中で眠った。とても静かな眠りだった。僕は眠らなかった。全然眠くなかったし、眠っている彼女を抱いているのは素敵だった。やがて空が明るくなり、朝の光が部屋を少しずつ淡く照らしていった。テーブルの上には彼女の腕時計と眼鏡が置いてあった。僕は眼鏡をかけていないユミヨシさんの顔を見た。眼鏡をかけていない彼女も素敵だった。僕は彼女の額に軽く唇をつけた。僕はまた固く勃起していた。もう一度彼女の中に入りたかったけれど、彼女はとても気持ち良さそうにぐっすり眠っていたし、その眠りを僕は乱したくなかった。そして彼女の肩を抱いたまま、光の領域が部屋の隅々に広がり、闇が後退して消えていく様を眺めていた。
椅子の上には彼女の服が畳んで置いてあった。スカートとブラウスとストッキングと下着と。そして椅子の足元には黒い靴が揃えられていた。現実なのだ。現実の服は皺にならないように現実的に畳まれるのだ。
七時に僕は彼女を起こした。
「ユミヨシさん、起きる時間だ」と僕は言った。
彼女は目を開けて僕を見た。そして僕の首にまた鼻をつけた。「すごかった」と彼女は言った。そして魚のようにすっとベッドを出て、裸で朝の光の中に立った。まるで充電でもしているみたいに。僕は枕に片肘をついて、彼女の体を眺めていた。僕が何時間か前に確かめ、封印したその体を。
ユミヨシさんはシャワーに入り、髪を僕のへア・ブラシでとかし、簡潔に的確に歯を磨いた。そして丁寧に服を身につけた。僕は彼女が服を着るのを眺めていた。彼女は白いブラウスのボタンを注意深くひとつまたひとつととめ、ブレザー・コートを着て、全身を映す鏡の前に立って皺もなくごみもついていないことを確かめた。ユミヨシさんはそういうことにはとても真剣だった。そういう彼女の仕種を見ているのは素敵だった。朝だという感じが伝わってきた。
「お化粧道具は仮眠室のロッカーに入れてあるの」と彼女は言った。
「そのままで綺麗だ」と僕は言った。
「ありがとう。でもお化粧しないと叱られるの。お化粧するのも仕事のうちなの」
僕は立ったまま部屋の真ん中でユミヨシさんをもう一度抱いた。ライト・ブルーの制服を着て眼鏡をかけたユミヨシさんを抱くのもまた素敵だった。
「夜が明けてもまだ私を求めてる?」と彼女は訊いた。
「とても」と僕は言った。「昨日より激しく」
「ねえ、こんなに激しく求められたのって初めて」とユミヨシさんは言った。
「そういうのってちゃんと感じるの。自分が求められているって。そういうことを感じたのは初めて」
「これまで誰も君を求めなかったの?」
「あなたのようにはね。誰も」
「求められるとどんな気がするの?」
「とてもリラックスする」とユミヨシさんは言った。「こんなにリラックスできたの久し振り。まるで温かい気持ちの良い部屋にいるみたいな気分なの」
「ずっとそこにいればいい」と僕は言った。「誰も出ていかないし、誰も入ってこない。僕と君しかいない」
「そこにとどまるのね?」
「そうだよ、とどまるんだ」
ユミヨシさんは少し顔を離して僕の目を見た。「ねえ、今日の夜もまたここに泊まりに来ていいかしら?」
「ここに君が泊まりに来ることは僕は全然構わない。でも君にとっては危険が大きすぎるんじゃないかな。だって、ばれたら君はクビになるかもしれないよ。それよりは君のアパートか、それとも別のホテルに泊まった方がいいんじゃないかな?その方が気が楽だろう?」
ユミヨシさんは首を振った。「いいえ、ここがいいの。私はこの場所が好きなの。ここはあなたの場所であると同時に私の場所でもあるの。私はここであなたに抱かれたいの。あなたさえよければ」
「僕はどこだって構わない。君の好きなようにすればいい」
「じゃあ今日の夕方にね。ここで」と彼女は言った。そしてドアを小さく開け、外の様子をうかがってから、すっと身をくねらせるようにして消えていった。
僕は髭を剃り、シャワーを浴びてから、外に出て朝の街を散歩し、それからまたダンキン・ドーナッツに入ってドーナッツを食べ、コーヒーを二杯飲んだ。
街は出勤をする人々で溢れていた。そういう光景を眺めていると、僕もまた仕事を始めなくてはという気持ちになった。ユキが勉強を始めたように、僕も仕事を始めなくてはならない。現実的になるのだ。札幌で仕事を見つけることになるのだろうか?それも悪くない、と僕は思った。そしてユミヨシさんと一緒に暮らすのだ。ユミヨシさんはホテルに働きにでかけ、僕は僕の仕事をするのだ。何の仕事だ?まあいいさ、何かあるだろう。たとえすぐに仕事がみつからなくても、まだ何カ月かは食べていける。
何か物を書くのも悪くないな、と僕は思った。僕は文章を書くことは嫌いではないのだ。ほぼ三年間切れ目なく雪かき仕事をやってきたあとで、僕は何か自分の為に文章を書きたいというような気持ちになっていた。
そう、僕はそれを求めているのだ。
ただの文章。詩でも小説でも自叙伝でも手紙でもない自分の為のただの文章。注文も締切もないただの文章。
悪くない。
それから僕はまたユミヨシさんの体のことを思い出した。僕は彼女の体の隅から隅までを覚えていた。僕がそれを確かめ、封印したのだ。僕は幸せな気分で初夏の街を歩き、美味い昼食を食べてビールを飲み、ホテルのロビーに座って植木の陰からフロントでユミヨシさんが働いている姿を少し眺めた。