ダンス・ダンス・ダンス

気持ちを整理するのにはもっと長い時間がかかった。
まず一番最初にユキの言ったことを信じるか信じないかという問題があった。僕はそれを純粋な可能性の問題として分析してみた。感情的な要素を見わたせる限りのフィールドから徹底的に排除した。それはさして困難な作業ではなかった。僕の感情はそもそもの最初から蜂に刺されたみたいにぼんやりと麻痺していたからだ。可能性はある、と僕は思った。そして時間が経つにつれて、その可能性は僕の中でどんどん膨らみ、増殖し、ある種の確かさを帯びていった。その流れには抗うことのできない確かな勢いがあった。僕は台所に立って湯を沸かし、コーヒーの豆を挽き、時間をかけて丁寧にコーヒーを入れた。食器棚からカップを出し、コーヒーを注ぎ、ベッドに腰かけてそれを飲んだ。そしてそれを飲み終える頃には、可能性は殆ど確信に近いものに変わっていた。おそらくそのとおりだろう、と僕は思った。ユキは正確なイメージを見たのだ。五反田君がキキを殺してどこかに死体を運んで埋めるか何かしたのだ。
不思議だ、と僕は思った。そこには何の確証もないのだ。ただ感じやすい十三歳の少女が映画を見てそう感じたというだけのことなのだ。でもどういうわけか僕は彼女の言ったことに対して疑念をはさむことができなかった。もちろんショックはあった。でも僕はユキの見たイメージを殆ど直観的に受け入れたのだ。どうしてだろう?何故そんなに確信が持てるのだ?わからない。
でもわからないなりにとにかく僕はそこから話を進めることにした。
話を進める。次の問題。何故五反田君がキキを殺さなくてはならなかったのだろう?
わからない。次の問題。メイを殺したのもやはり彼なんだろうか?もしそうだとしたら、それは何故だ?何故五反田君がメイを殺さなくてはならなかったのだ?
やはりわからない。どれだけ考えてみても、五反田君がキキを、あるいはキキとメイの両方を、殺さなくてはならない理由は思いつけなかった。ひとつとして思いつけない。
わからないことが多すぎた。
結局のところユキにも言ったように僕が五反田君に会って、直接訊いてみるしかないのだ。でもいったいどういう風に切りだせばいいのだろう?僕は自分が彼に向かって「君がキキを殺したのか?」と質問する情景を想像してみた。それは何だか馬鹿げていたし、どう考えてもグロテスクだった。そして汚らしい。そういうことを口にする自分を想像しただけで吐き気がするほど汚らしく感じられた。そこには明らかに何か間違った要素が含まれている。でもそれをやらないことには、前に進めないのだ。適当に事実をぼかしたまま成り行きを見るというわけにはもういかないのだ。今の僕は選り好みできる立場にはないのだ。グロテスクであるにせよ、間違った要素が含まれているにせよ、それはやらなくてはならないことなのだ。やらなくてはならないことは、きちんとやらなくてはならないのだ。僕は何度か五反田君に電話をかけようとした。でも駄目だった。僕はベッドに腰掛け、深呼吸し、電話機を膝に載せてダイヤルをゆっくりと回した。しかしいつも最後までその番号を回しきることはできなかった。僕はあきらめて受話器を戻し、そのままベッドに寝転んで天井を眺めた。五反田君の存在は僕にとって、僕が考えていたよりずっと大きな意味を持っていたのだ。そう、僕と彼は友達だったのだ。彼がもしキキを殺していたとしても、それでも彼は僕の友達なのだ。そして僕は彼を失いたくないのだ。僕は既にあまりに多くのものを失ってきたのだ。駄目だ。どうしても電話ができない。
僕は留守番電話装置のスイッチを入れて、電話が鳴っても絶対受話器を取らなかった。もし五反田君から今電話がかかってきても、今のままでは彼に対して何と言えばいいのかわからなかったからだ。一日に何度か電話のベルは鳴った。誰からの電話かはわからない。ユキかもしれない、ユミヨシさんかもしれない。でもとにかく僕はその呼び掛けに応じなかった。それが誰からのものであるにせよ、今のところ僕は誰とも話をする気になんかなれなかった。どの電話も七度か八度コールして消えた。僕は電話が鳴るたびに、電話局に勤めていたガールフレンドのことを思い出した。「月へ帰りなさい、君」と彼女は僕に言った。本当だ、君の言うとおりだ、と僕は思った。僕はたしかに月に帰った方がいいのかもしれない。ここの空気は僕にはいささか濃すぎる。ここの重力は僕にはいささか重すぎる。
四日か五日、僕はじっと考えつづけていた。何故だ、と。僕はその間ほんの少しだけ食べ、ほんの少しだけ眠り、一滴の酒も飲まなかった。体の機能を上手く把握できないような気がしたので、外にも殆ど出なかった。様々な物が失われていく、と僕は思った。失われ続けている。いつも一人で取り残されてしまう。こんな風に、いつもこんな風に。僕も五反田君もある意味では同じような種類の人間なのだ。状況も違う、考え方や感じ方も違う。でも我々は同じ種類の人間なのだ。我々はどちらも失い続ける人間なのだ。そして僕らは今お互いを失おうとしている。
僕はキキのことを考えた。僕はキキの顔を思い出した。「どうしたっていうのよ」と彼女は言った。彼女は死んでいて、穴に横たわり、その上から上がかけられた。死んだいわしと同じように。結局のところキキは死ぬべくして死んでしまったのだという気がした。不思議な感じ方だったが、僕にはそういう風にしか感じられなかった。僕が感じたのは諦めだった。広大な海面に降りしきる雨のような静かな諦めだった。僕は哀しみをさえ感じなかった。魂の表面にそっと指を走らせるとざらりとした奇妙な感触があった。すべては音もなく過ぎ去っていくのだ。砂の上に描かれたしるしを風が吹きとばしていくように。それは誰にも止めようがないことなのだ。
でもこれで、おそらく、また死体がひとつ増えた。鼠、メイ、ディック・ノース、そしてキキ。これで四つだ。残りはあと二つ。これ以上誰が死ぬんだ?でもどうせみんないつか死ぬんだ、と僕は思った。遅かれ早かれ。そして白骨となって、あの部屋に運ばれるんだ。様々な種類の奇妙な部屋が僕の世界に結びついていた。ホノルルのダウンタウンの、あの死体を集めた部屋。札幌のホテルの、暗く冷やかな羊男の部屋。そして五反田君がキキを抱いていたあの日曜日の朝の部屋。いったい何処までが現実なんだろう、と僕は思った。僕は頭がどうかしてしまっているのだろうか?俺はまともなんだろうか、と。あらゆる出来事が非現実の部屋で起こって、それが徹底的にデフォルメされて現実の中に持ち込まれたみたいに感じられた。いったい何がオリジナルの現実なんだろう?考えれば考えるほど、真実が僕から遠ざかっていくように感じられた。雪の降りしきるあの三月の札幌は現実だったのだろうか?それは非現実に見えた。ディック・ノースと二人でマカハの海岸に座っていたことは現実なんだろうか?それも非現実に見えた。それに類することはあったと思うのだが、それはオリジナルの現実ではないような気がした。だって片腕の男にどうしてあんなに綺麗にパンが切れるのだ?どうしてホノルルのコールガールがキキの案内した死の部屋の電話番号を僕に書き残していくのだ?でもそれは現実であるはずだった。何故ならそれが僕の記憶している現実だからだ。それを現実としてみとめなくなったら、僕の世界認識そのものが揺らいでしまうことになる。
僕の精神は狂いを見せ、病んでいるのだろうか?
それとも現実が狂いを見せ、そして病んでいるのだろうか?
わからない。わからないことが多すぎる。
でもいずれにせよ、どちらが狂ってどちらが病んでいるにせよ、僕はこの中途半端なまま放置された混乱の状況をきちんと整理しなくてはならなかった。そこに含まれているものが哀しみであれ、怒りであれ、諦めであれ、僕はとにかくそこに終止符を打たなくてはならないのだ。それが僕の役割なのだ。それがあらゆる物事が僕に示唆してきたことだった。そのために僕は様々な人々と出会い、この奇妙な場所にまで運ばれてきたのだ。
さて、と僕は思った。もう一度ダンスのステップを取り戻すのだ。みんなが感心するくらいうまく踊らなくてはならない。ステップ、それが唯一の現実なのだ。それはきちんと決まっていることなのだ。考えるまでもない。それは僕の頭の中に一OOOパーセントの現実として刻みこまれている。踊るのだ。すごく上手に。五反田君に電話をかけて、こう訊くのだ。「ねえ、君がキキを殺したのか?」と。
でも駄目だった。手が動かないのだ。電話機の前に座っただけで僕の心はどうしようもなく震え混乱した。強い横風を受けた時のように、僕の体は揺らぎ、息をすることさえ困難になった。僕は五反田君が好きだったのだ。彼は僕の唯一の友人であり、そして僕自身だった。五反田君は僕という存在の一部だった。僕には彼のことが理解できるのだ。僕は何度もダイヤルを回し間違えた。何度やっても正確な数字の配列を辿ることができなかった。そして五回目か六回目で僕は受話器を床に放り投げた。駄目だ、僕にはできない。どうしてもうまく
ステッブが踏めない。
部屋の中の静けさは僕をたまらない気持ちにさせた。電話のベルの音を聞くのも嫌だった。僕は外に出て、街を歩き回った。まるでリハビリテーションの患者みたいに足の動かし方や、道路の横断の仕方をひとつひとつ確かめながら。そして人込みに混じって歩き、公園に座って人々の姿を眺めた。僕はたまらなく孤独だった。僕は何かにつかまりたいと思った。しかしまわりを見回しても、つかまるべきものは何もなかった。つるりとして捉えどころのない氷の迷宮の中に僕はいた。闇は白く、音はうつろに響いた。,僕は泣きたかった。でも泣くことさえできなかった。そう、五反田君は僕自身なのだ。そして僕は僕自身の一部を失おうとしているのだ。
結局僕は五反田君に電話をかけることはできなかった。
電話をかけられるようになる前に、五反田君が僕のアパートを訪ねてきたのだ。
それはまた雨の夜だった。五反田君は二人で横浜に行った時と同じ白いレインコートを着て、眼鏡をかけ、コートと同じ色のレイン・ハットをかぶっていた。かなり強い雨だったが、傘はさしていなかった。帽子からは水滴がしたたり落ちていた。彼は僕の顔を見るとにっこりと微笑んだ。僕も反射的に微笑んだ。
「ひどい顔してる」と彼は言った。「電話しても誰も出ないから直接来てみたんだ。具合でも悪かったの?」
「あまり良くはなかったね」と僕はゆっくりと言葉を選んで言った。
彼は目を細めてしばらく僕の顔を検分していた。「じゃあまた出直してこようか?何だかその方がいいみたいだな。いずれにせよ、こういう風に直接訪ねて来るのは良くなかったね。君が元気になったらまた会おう」
僕は首を振った。そして息を吸い込んで言葉を捜した。言葉はなかなか出てこなかったが五反田君はじっと待っていてくれた。「いや、体がどうこうっていうんじゃないんだ」と僕は言った。「あまり寝なかったし、あまり食べなかったから疲れてるように見えるだけだよ。もう大丈夫だし、君に話もある。外に出よう。久し振りにまともな食事がしたい」
僕と彼はマセラテイに乗って街に出た。マセラテイは僕を緊張させた。雨に滲んだ色とりどりのネオンの中を、彼はしばらくあてもなく車を走らせた。五反田君のギャ・チェンジはスムーズで正確だった。車はかたりとも震えなかった。加速は優しく、ブレーキは静かだった。街の騒音が切り立った谷のように我々のまわりにそびえていた。
「何処がいいかな。ロレックスをつけた業界の人間に会う恐れがなくて、二人で静かに話ができて、まともなものの食える店」と彼は言って、僕の方をちらりと見た。でも僕は何も言わずぼんやりと外の景色を眺めていた。三十分ほどぐるぐると走ってから、彼はあきらめた。「やれやれ、どういうわけか全然思いつけないや」と五反田君は溜め息をついて言った。「君の方はどう、どこか知ってるところはある?」
「いや、僕も駄目だ。何も思いつけない」と僕は言った。本当に何も思いつけなかった。頭がまだうまく現実に接続されていないのだ。
「オーケー、じゃあ逆の考え方をしようじゃないか」と五反田君はよく通る明るい声で言った。
「逆の考え方?」
「徹底的にうるさいところに行こう。そうすればかえって二人だけで落ち着いて話ができるんじゃないかな?」
「悪くないけど、例えば何処?」
「シェイキーズ」と五反田君は言った。「ピッツァでも食べないか?」
「僕は別に構わない。ピッツァは嫌いじゃない。でもそんなところに行って、君の顔は割れないかな?」
五反田君は力なく微笑んだ。木の葉の間からこぼれる夏の夕暮れの最後の光のような微笑みだった。「君はこれまでシェイキーズで有名人を見掛けたことある?」
週末だったので、シェイキーズは混んでいて、うるさかった。バンド・スタンドがあって、そこで揃いのストライブのシャツを着たディキシーランド・ジャズのバンドが『タイガー・ラグ』を演奏し、ビールを飲みすぎたらしい学生の団体がそれに負けじと声を張り上げていた。薄暗かったし、誰も僕らになんか注意を払わなかった。ピッツァの焼ける香ぱしい匂いが店内に漂っていた。僕らはピッツァを注文し、生ビールを買って、いちばん奥の派手なティファニー・ランプの下がったテーブルに座った。
「ほらね、僕の言った通りだろう?気楽だし、かえって落ち着く」と五反田君が言った。「そうだね」と僕は認めた。確かに話がしやすそうだった。
僕らは何杯かビールを飲み、それから焼きあがった熱いピッツァを齧った。僕は久し振りに空腹感を感じた。ピッツァが食べたくなることなんて余りないのだが、一口食べてみると世の中にこれ以上美味いものはないような気がした。僕はたぶんすごく空腹だったのだろう。五反田君も腹が減っていたらしく、我々は何も考えずに黙々とビールを飲み、ピッツァを食べた。ピッツァがなくなってしまうと、もう一杯ずつビールを買って飲んだ。
「美味い」と彼は言った。「三日前からずっとピッツァが食べたかったんだ。ピッツァの夢まで見たよ。オーブンの中でね、じりじりと音をたててピッツァが焼けているんだ。夢の中で僕はただじっとそれを見ている。ただそれだけの夢。始めもないし、終わりもない。ユングだったらどう解釈するだろう?僕だったら『僕はピプッツァが食べたいんだ』と解釈するけどね。さて、僕に何の話があるのかな?」
さあ今だ、と僕は思った。でもうまく切り出すことができなかった。五反田君はとてもリラックスして、夜を楽しんでいるように見えた。僕は彼のイノセントな微笑みを見ると、うまく言葉が出てこなかった。駄目だ、と僕は思った。今はとても切り出せない。少なくとも今は駄目だ。
「君の方はどうなんだ?」と僕は言った。おい、そんな風にずっと後回しにはしつづけられないんだぞ、と僕は思った。でも駄目だった。切り出せない。どうしても駄目だ。「仕事のこととか、奥さんのこととか?」
「仕事は相変わらずだね」と五反田君は唇を曲げて笑いながら言った。「相変わらずだよ。僕のやりたい仕事は来ない。やりたくない仕事はいっぱい来る。雪崩みたいにいっぱい来る。雪崩にむかって大声で怒鳴っても誰にも聞こえない。喉が痛くなるだけだよ。女房のことはーーしかし変なものだな、もう別れたのにずっと女房って呼んでるなんてねーー女房とはあれから一度だけ会った。ねえ、君はモーテルとかラブ・ホテルとかで女と寝たことある?」
「あまりないね。殆どない」
五反田君は首を振った。「あれは変なものだよ。あれが続くとね、疲れるんだ。部屋の中はとても暗い。窓が塞いであるんだ。やるための部屋だからね、窓なんて要らないんだ。光なんて入ってこなくていいんだ。早い話、風呂とベッドさえあればいいようなものなんだよ。あとはBGMとTVと冷蔵庫。それでいい。即物的なんだ。必要なものしか置いてない。もちろんやるには便利なところだ。僕はそういうところで女房とやってる。まさにやってるっていう感じだね。うん、彼女とやるのは素敵だよ。落ち着くし、楽しいんだ。優しい気持ちになれる。終ったあとでずっと優しく抱き締めていてやりたいという気分になる。でもね、光が差し込まないんだ。密閉されているんだ。何もかもが人工的なんだよ。あんなところ、僕は全然好きになれない。でもそこでしか女房と会うことができない」
五反田君はビールを一口飲み、紙ナプキンでくちもとを拭った。
「僕のマンションの部屋に彼女を連れてくるわけにはいかない。そんなことしたらあっという間に週刊誌にばれちゃう。本当だよ。あいつらはそういうことってすぐに嗅ぎつけるんだ。どうしてかはわからないけど、わかっちゃうんだ。二人で何処かに旅行するってわけにもいかない。そんなまとまった時間はとれない。だいいちどこに行ったってすぐに顔が割れる。僕らはプライバシーの切り売りをしているようなものだからね。結局どっかの安っぽいモーテルに行くしかないんだ。まったくこんなのってさ……」五反田君はそこで話しやめて僕の顔を見た。そして微笑んだ。「また愚痴だ」
「構わないよ。愚痴だろうが何だろうが、話したいだけ話せばいいよ。僕はずっと聞いてる。今日のところ、僕は喋るより聞いてる方が楽だから」
「いや、今日だけじゃないさ。君はいつも僕の愚痴を聞いている。僕は君の愚痴を聞いたことがない。他人の話を聞く人間ってあまりいないんだよ。みんな話したがる。たいした話もないくせにね。僕もその一人だけど」
ディキシーランドのバンドは『ハロー・ドリー』を演奏していた。僕と五反田君はしばらくそれに耳を傾けていた。
「ねえ、もっとピッツァを食べないか?」と五反田君が僕に訊いた。「あと半分ずつなら食ベられるだろう。どういうわけか、今日はやけに腹が減ってる」
「いいよ、僕もまだ腹が減ってる」
彼がカウンターに行ってアンチョビのピッツァを注文してきた。そしてピッツァが焼きあがると僕らはまた何も言わずに黙々と、そのアンチョビのピッッァを半分ずつ食べた。学生の団体はまだ大声で騒いでいた。やがてパンドが最後のステージを終えた。バンジョーやトランペットやトロンボーンがそれぞれのケースに仕舞いこまれ、ミュージシャンたちは舞台から消えていった。あとにはアップライト・ピアノが一台残っているだけだった。
ピッツァを食べ終えたあとでも、僕らはしばらく何も言わずに空っぽのステージをじっと眺めていた。音楽が消えると、人々の話し声が奇妙な硬質さを帯びたように感じられた。それは漠然とした硬質さだった。実体が柔らかいのに、存在の状況が硬質なのだ。そばに来るまではとても固そうに見える。でも体に当たると柔らかく砕けてしまう。それは波のように僕の意識を打っていた。ゆっくりとやってきて意識を打ち、そしてひいていった。それが何度も何度も繰り返された。僕はしばらくその波の音に耳を澄ませていた。僕の意識は僕自身から離れてひどく遠くにあった。遠い波が、遠い意識を打っていた。
「どうしてキキを殺したの?」と僕は五反田君に訊いてみた。訊こうと思って訊いたわけではない。それはふと口をついて出てしまったのだ。
彼はずっと遠くにある何かを見るような視線で僕の顔を見た。唇が少し開いて、その間から白い綺麗な歯が見えた。長い間、彼は僕の顔をじっと見ていた。喧騒が僕の頭の中で大きくなったり小さくなったりした。まるで現実との接触が近づいたり離れたりしているみたいに。彼の端正な十本の指がテーブルの上にきちんと組み合わされていたのを覚えている。現実との接触が遠く離れると、それは精巧な細工みたいに見えた。
それから彼は微笑んだ。とても静かな微笑みだった。
「僕がキキを殺したのか?」と彼はゆっくりと言葉を区切るようにして言った。
「冗談だよ」と僕も微笑んで言った。「ただ何となくそう言ってみただけだよ。ちょっと言ってみたかったんだ」
五反田君は視線をテーブルの上に落として、自分の手の指を見ていた。「いや冗談なんかじゃないよ。それはとても大事なことなんだ。きちんと考えなくちゃならないことだ。僕はキキを殺したのか?真剣に考えなくちゃならない」
僕は彼の顔を見た。くちもとは微笑んでいたが、目は真剣だった。彼は冗談を言っているわけではないのだ。
「何故君がキキを殺す?」と僕は質問した。
「何故僕がキキを殺すか?何故だろう、僕にもそれがわからない。何故殺したんだろう?」
「ねえ、よくわからないな」と僕は笑って言った。「君はキキを殺したのか、それとも殺してないのか?」
「だからそれについて考えているんだよ。僕はキキを殺したのか、それとも僕はキキを殺してないのか?」
五反田君はビールをひとくち飲み、グラスをテーブルに置いて、頬杖をついた。「僕にも確信が持てないんだ。こういう言い方って、馬鹿馬鹿しいと思うだろう?でも本当なんだよ。確信が持てない。僕はキキを絞め殺したような気がするんだ。あの僕の部屋で僕はキキの首を絞めた。そういう気がする。どうしてだろう?どうして僕はあの部屋にキキと二人きりでいたんだろう?僕は彼女と二人きりになんかなりたくなかったのにね。でも駄目だ、思いだせない。とにかく僕はキキと二人で僕の部屋にいた。ーー僕は彼女の死体を車で運んで何処かに埋めた。どこかの山の中に。でもそれが事実だという確信が持てない。本当に起こったことだとは思えない。気がするっていうだけなんだ。証明できない。それについて僕はと考えていた。でも駄目なんだ。わからない。肝心なことが空白の中に呑みこまれてい何か具体的な証拠がないかと考えてみる。たとえばシャベル。僕は彼女を埋めるのにシャベルをつかったはずだ。それがみつかれば、現実だってわかる。でもそれも駄目だ。ばらばらになった記憶を辿ってみる。僕は何処かの園芸店でシャベルを買った。そしてそれを使って穴を堀って彼女を埋めた。シャベルは何処かに捨てた。そういう気がする。でも細かいところが思い出せない。何処でシャベルを買って、どこでそれを捨てたんだろう?証拠がないんだ。だいいち、僕は彼女を何処に埋めたんだろう?ただ山の中としか覚えてないんだ。それは夢みたいにきれぎれなんだ。話があっちに行ったかと思うとこっちに来る。錯綜している。順番通りに辿っていけないんだ。記憶はあるよ。でもそれは本当の記憶なんだろうか?あるいはそれはあとから僕が状況にあわせて適当にこしらえたものなんだろうか?僕はどうかしていると思う。女房と別れてから、その傾向はますますひどくなってきた。疲れている。そして絶望している。絶望的に絶望している」
僕は黙っていた。しばらく間があった。五反田君が続けた。
「いったいどこまでが現実なんだろう?そしてどこからが妄想なんだろう?どこまでが真実なんだろう?そしてどこからが演技なんだろう?僕はそれを確認したかった。こうして君とつきあっているうちにそれがわかるんじゃないかという気がした。君が僕にキキのことを最初に尋ねた時から僕はずっとそう思っていたんだ。君が僕のこの混乱を解消してくれるんじゃないかってね。まるで窓を開けて冷たい新鮮な空気を入れるみたいにさ」彼はまた指を組んだ。そしてその指をじっと見ていた。「でももし僕がキキを殺したとしたら、それはどうしてだろう?僕にはキキを殺すどんな理由があるんだろう?僕は彼女のことが好きだった。彼女と寝るのが好きだった。僕が絶望しているときに、彼女とメイが僕の唯一の息抜きだった。それなのに、何故殺すんだろう?」
「君はメイも殺したの?」
五反田君は長いあいだテーブルの上においた自分の両手をじっと見ていた。そして首を振った。「いや、僕はメイを殺してはいないと思う。あの夜の僕にはありがたいことにきちんとしたアリバイがある。TV局で夕方から真夜中までアテレコをやって、それからマネージャーと一緒に車で水戸まで行った。だから間違いはないんだ。もしそうじゃなかったら、もし誰かがその夜ずっと僕が放送局にいたことを証明してくれなかったら、僕は自分がメイを殺したかもしれないと真剣に悩んでいたと思う。でもね、それでも何だか僕はメイの死にたいしてもたまらなく責任を感じるんだ。どうしてだろう?しっかりとしたアリバイがあるというのに、なんだかまるで僕自身がこの手で彼女を殺したように感じられる。僕のせいで彼女が死んだんだっていう気がする」
また間があった。沈黙が長く続いた。彼はすっと自分の十本の指を見ていた。
「君は疲れてるんだよ」と僕は言った。「それだけだよ。君はたぶん誰も殺してないんだ。キキはただ何処かに消えちゃっただけだよ。あの子は僕の時にだってそういう風にふっと消えちゃったんだ。初めてじゃない。君は自分を責めたい気持ちになっているだけなんだ。だから何もかもを、自分を責める方向に結びつけちゃうんだよ」
「いや違うね。それだけじゃない。そんなに簡単なことじゃない。僕はたぶんキキを殺したよ。メイは殺してないだろう。でもキキは殺したように感じる。彼女の首を絞めた感触がまだこの両手に残っている。シャベルを土に入れた時の手応えも覚えている。僕は彼女を殺したんだ。実質的に」
「でも何故君がキキを殺すんだ?意味がないじゃないか?」
「わからない」と彼は言った。「たぶんある種の自己破壊本能だろう。僕には昔からそういうのがあるんだ。一種のストレスだよ。自分自身と、僕が演じている自分自身とのギャップがあるところまで開くと、よくそういうことが起きるんだ。僕はそのギャップをこの目で実際に見ることができるんだ。まるで地震でできた地割れみたいにね、ぽっかりとそれが開いてるんだ。深くて、暗い穴だ。目が眩みそうに深い。そしてそうなると、何かを無意識に破壊してしまうんだ。気がつくと何かを壊している。そういうことは子供のころからよくあった。何かを叩き壊している。鉛筆を折る。グラスを叩きつける。プラモデルを踏み潰す。でもどうしてそんなことをしたのかはわからない。もちろん人前ではやらないよ。自分一人になった時にやるんだ。でも小学生の時、友達の背中をついて崖から落としたことがあった。どうしてそんなことやったのかはわからない。でも気がついたらそうしてたんだ。でもそれほど高くない崖だったし、その時は軽い怪我ですんだ。突き落とされた友達も事故だと思った。たまたま体がぶつかるか何かしたんだとね。だって誰も僕がわざとそんなことをやるなんて思わないもの。でも違う。僕は自分でわかってる。僕はこの手でその友達をわざと突き落としたんだよ。そんなことは他にもまだまだいっぱいある。高校生の時に郵便ポストを何度か燃やした。火をつけた布をボストの中に放り込むんだ。卑劣で意味のないことだ。でもやってしまうんだよ。気がついたらやってるんだ。そうせずにはいられないんだ。そうすることでね、そういう無意味で卑劣なことをやることによってやっと自分自身が取り戻せるような気がするんだ。無意識的な行為なんだ。でもその感触だけは覚えている。そういう感触のひとつひとつが僕の両手にしっかりとしみついている。どれだけ洗っても落ちない。死ぬまで落ちない。ひどい人生だ。僕にはもう耐えられそうにない」
僕は溜め息をついた。五反田君は首を振った。
「でも僕には確かめようもないんだ」と五反田君は言った。「僕が殺したという確証がないんだ。死体もない。シャベルもない。ズボンに土もついてない。手にマメもできてない。もっとも人を埋める穴を掘るくらいでマメもできやしないけどさ。どこに埋めたかも覚えてない。たとえ警察に行って自白したとしても、誰が信じる?死体がなきゃそれは殺人でさえないんだ。僕には償うことさえできないんだ。彼女は消えた。はっきりとわかっているのはそれだけだ。僕は君にそのことを何度となく打ち明けようとした。でも言えなかった。もし僕がそんなことを口に出したら、僕らの間の親密な空気が消えてしまうだろうという気がしたんだ。ねえ、僕は君といるときはとてもリラックスできた。そういうギャップというものを感じずにすんだ。そういうのは僕にとってはとても貴重なことだったんだ。そして僕はそういう関係を失いたくなかった。それで、少しずつ後にのばしていた。また今度にしよう、もっとあとでいい……結局ここまで来てしまった。本当は僕がきちんと打ち明けるべきだったんだろうね」
「でも打ち明けるもなにも、君が言うように確証がないじゃないか」と僕は言った。
「確証云々の問題じゃない。僕は自分の口から君に話すべきだったんだ。僕はそれを隠していたんだ。それが問題なんだ」
「でももしそれが本当にあったことだとしても、もし君がキキを殺したんだと仮定しても、君には殺すつもりがなかった」
彼は両手の手のひらを広げてじっと見つめた。「なかったよ。あるわけがないさ。何故僕がキキを殺さなくちゃならない。僕は彼女が好きだった。僕と彼女はきわめて限定された形態においてではあるにせよ、友達だった。僕らはいろんな話をした。僕は彼女に女房の話をした。キキはちゃんと聞いてくれた。何故僕が彼女を殺さなくちゃいけない?でも殺したんだよ、この手で。殺意なんてなかった。僕は自分の影を殺すみたいに彼女を絞め殺したんだ。僕は彼女を絞めてるあいだ、これは僕の影なんだと思っていた。この影を殺せば僕は上手くいくんだと思っていた。でもそれは僕の影じゃなかった。キキだった。でもそれは闇の世界で起こったんだ。こことは違う世界世界なんだ。わかるかい?ここじゃないんだよ。そして誘ったのはキキなんだ。私を絞めなさいって、キキが言ったんだ。いいのよ、絞めて殺しなさいって。彼女は僕を誘い、僕を許したんだ。嘘じゃないよ、本当にその通りだったんだ。僕にはわからない。そんなことが起こるんだろうか?何もかもが夢みたいに思える。考えれば考えるほど現実が溶解していくんだ。何故キキが僕を誘うんだ。何故僕に自分を殺せなんて言うんだ?」
僕は生温くなったビールの残りを飲んだ。煙草の煙が上の方に固まっていて、それが空気の流れにあわせて何かの心霊現象のようにふらふらと揺れていた。誰かが僕の背中にぶつかって「失礼」と言った。店内放送が焼きあがったピッツァの番号を呼んでいた。
「ビールをもう一杯飲まないか?」と僕は彼に訊いて見た。
「飲みたいね」と彼は言った。
僕はカウンターに行ってビールを二杯買って帰ってきた。そして我々は何も言わずに黙ってそれを飲んだ。店はラッシュ・アワーの秋葉原駅みたいに混乱してごったがえしていて、僕らのテーブルの脇を人がしょっちゅう行ったり来たりしたが、誰も僕らには注意を払わなかった。誰も僕らの話なんて聞いてなかったし、誰も五反田君の顔を見なかった。
「言っただろう」と五反田君は感じの良い微笑みをくちもとに浮かべて言った。「ここは穴なんだよ。シェイキーズで有名人なんて見ないもの」
五反田君は三分の一ほどビールの残ったグラスを、試験管でも振るみたいにふらふらと揺らしていた。
「忘れよう」と僕は静かな声で言った。「僕は忘れることができる。君も忘れろ」
「僕に忘れられるだろうか?口で言うのは簡単だ。君は自分の手で彼女を絞め殺したわけじゃないからね」
「ねえ、いいかい、君がキキを殺したという確証はなにもないんだ。確証のないことでそんな風に自分を責めるのはよせ。君は君自身の罪悪感を彼女の失踪に結びつけて無意識的に演技しているだけかもしれないじゃないか。そういう可能性はあるだろう?」
「じゃあ可能性の話をしよう」と五反田君は言って、テーブルの上に両手を伏せて置いた。「僕は最近可能性についてよく考えるんだ。いろんな可能性がある。たとえば僕が女房を殺す可能性もある。そうだろう?もし彼女がキキとおなじように僕を許すと言ったら僕はやはり絞め殺しちゃうんじゃないかという気がする。僕は最近そのことばかり考えてるんだ。そして考えれば考えるほどその可能性が僕の中で膨らんでいくんだ。止めようがないんだ。自分がコントロールできなくなってくる。郵便ボストを焼いただけじゃない。僕は猫を何匹も殺した。いろんなやり方で殺した。止められないんだょ。夜中に近所の家の窓にパチンコで石をぶっつけて割った。そして自転車で逃げる。止められないんだよ。このことは今まで誰にも言わなかった。話したのは君が初めてだ。言ってしまってすっとした。でもだからといってそれが止まるわけじゃないんだ。止まりゃしない。演技する僕と、根源的な僕との溝が埋まらないかぎり、それはいつまでも続く。それは自分でもわかってるんだ。僕がプロの役者になってからその溝はどんどん大きくなっている。演技が大掛かりになるにしたがって、その反動も大きくなってくる。どうしようもないんだ。僕は今に女房を殺すかもしれない。コントロールできない。それはここの世界で起こっていることじゃないからだ。僕にはどうしようもないんだ。遺伝子に刻みこまれているんだよ、はっきりと」
「君は深刻に考えすぎる」と僕は無理に微笑んで言った。「遺伝子にまで遡って考え始めると、もうどこにも行けないよ。仕事を休んだ方がいいね。仕事を休んで、しばらく彼女と会うのをやめるんだよ。それしかないね。何もかも放り出すんだよ。僕と一緒にハワイに行こう。ビーチに毎日寝転んで、ピナ・コラーダを飲もう。あそこはいいところだよ。何も考えないでいい。朝から酒を飲んで、泳いで、二人で女の子を買おう。ムスタング借りて、ドアーズでも、スライ&ザ・ファミリー・ストーンでも、ビーチ・ボーイズでも何でもいいから聴きながら一五○キロ出してドライブしよう。気持ちが解放される。もし何かを真剣に考えたいのなら、そのあとで改めて考えるんだな」
「悪くないな」と彼は言った。そして目の脇に小さく皺を寄せて笑った。「また女の子を二人呼んで、四人で朝まで遊ぼう。あの時は楽しかった」
かっこう、と僕は言った。官能的雪かき。
「僕はいつでも行ける」と僕は言った。「君はどうだ?仕事の始末つけるのにどれくらいかかる?」
五反田君は不思議そうに微笑みながら僕を見た。「君は何もわかってないな。仕事の始末なんていつまでたったってつきゃしないんだよ。全部放り出すしかないんだよ。そしてそんなことしたら僕はまず間違いなくこの世界を永久追放される。永久に、だよ。そしてそれと同時に、前にも言ったように、僕は女房を失うことになる。永久に」
彼はビールの残りを飲み干した。
「でもいいよ。何もかもなくしたって、もうかまわない。あきらめてもいい。君の言うとおりだ。僕は疲れてる。ハワイに行って頭を空っぽにするべき時期だ。オーケー、何もかもを放りだそう。君と一緒にハワイに行こう。そのあとのことは、一度頭をしっかり空っぽにしてから考えよう。僕はーーそうだな、まともな人間になりたい。もう駄目かもしれない。でもたしかにもう一度試してみる価値はある。君に任せるよ。僕は君を信頼してる。本当だよ。君が僕に電話してきたときから、僕はそう思っていたんだ。どうしてだろうね。君にはひどくまともなところがある。そしてそれは僕がずっと求めていたものだった」
「僕はまともなんかじゃない」と僕は言った。「僕はただきちんとステップを守っているだけなんだ。ただ踊っているだけだ。意味なんかないんだ」
五反田君はテーブルの上で五十センチほどの幅に両手を広げた。「何処に意味んてある?我々の生きることの意味いったい何処にある?」そして笑った。「でもいいよ、別に。それはもうどうでもいいんだ。諦めてる。僕も君を見習うことにするよ。エレベーターからエレベーターへと乗り移ってやっていこう。それは不可能なことじゃないんだ。やろうと思えば何だってできるんだ。僕は頭がきれてハンサムで感じの良い五反田君だからね。いいとも、ハワイに行こう。明日切符を取ってくれ。ファースト・クラスを二枚。ファース・クラスじゃちゃ駄目だよ。そう決まってるんだ。車はメルセデス、時計はロレッス、マンションは港区、飛行機はファースト・クラスなんだ。明後日に荷物をまとめて飛び立つ。その日のうちにホノルルだ。僕はアロハシャツが似合うんだ」
「君は何でも似合う」
「有り難う。微かに残されたエゴがくすぐられる」
「まずビーチ・バーに行って、ピナ・コラーダを飲む。きりっと冷えたやつ」
「悪くない」
「悪くない」
五反田君はじっと僕の目を見た。「ねえ、君は僕がキキを殺したことを本当に忘れられるのか?」
僕は肯いた。「忘れられると思う」
「僕にはまだ言ってないことがある。いつか僕は留置所に放り込まれて二週間完黙したって言ったね?」
「言った」
「あれは嘘だ。僕は何もかもべらべらしゃべってすぐに出てきた。怖かったからじゃない。自分を傷つけたかったからだ。自分を貶めたかったからだ。卑劣なことだよ。だから君が僕の為にずっと黙っていてくれたことは、僕には本当に嬉しかったんだ。何か、自分の卑劣さまでが救われたような気がした。変な感じ方だとは思うけどね、でもそういう気がしたんだ。君が僕の卑劣な部分を洗い流してくれたようなさ。しかし今日一日でずいぶん打ち明け話をしたな。総ざらいだ。でも話せてよかった。ほっとした。君は不快だっただろうけれど」
「そんなことはない」と僕は言った。君は以前よりもっと近づけたような気がする、と僕は思った。そしてたぶんそう言うべきだったのだろう。でも僕はそれをもう少しあとにまでとっておくことにした。そんな必要もなかったのに。でもその時はそうした方がいいような気がしたのだ。そういう言葉がもっと力を持つ機会がいつか近いうちに巡ってくるような気がしたのだ。「そんなことはない」と僕はもう一度繰り返した。
彼は椅子の背にかけたレイン・ハットを取って、その湿りけを調べ、それをまたもとに戻した。「友達のよしみで、ひとつ頼みがある」と彼は言った。「もう一杯ビールが飲みたい。でも今は立ってあそこまで行く元気がない」
「いいですよ」と僕は言った。そしてカウンターに行って、またビールを二杯買った。カウンターは混んでいて、買うのに時間がかかった。グラスを両手に奥のテーブルに戻ったとき、彼の姿はなかった。レイン・ハットも消えていた。駐車場のマセラティもなくなっていた。やれやれと思った。そして首を振った。でもどうしようもなかった。彼は消えてしまったのだ。

©http://www.cunshang.net整理