ダンス・ダンス・ダンス
ディック・ノースは月曜日の夕方に箱根の町に買い物に出て、スーパーマーケットの袋を抱えて外に出たところをトラックにはねられて死んだ。出合い頭の事故だった。トラックの運転手もどうして下り坂のあんな見通しの悪いところにスピードを落とさずにつっこんでしまったのか自分でもわからない、魔がさしたとしか思えないと言った。もっともディック・ノースの方にもいささかの落ち度はあった。道路の左の方向だけを見て、右方向の確認が一呼吸か二呼吸遅れたのだ。外国で長く暮らして日本に戻ってくるとよくそういう一瞬の間違いをする。車の左側通行に神経が馴れないのだ。そしてつい左右確認を逆にやってしまう。大抵の場合ひやりとする程度で済むが、時には大きな事故に巻き込まれることもある。デイック・ノースの場合がそうだった。彼はそのトラックにはねとばされ、向かいから来たライトバンに礫かれた。即死だった。
その知らせを聞いた時、まず僕はマカハのスーパーで買い物をしていたディック・ノースの姿を思い出した。手際良く品物を選び、果物を真剣な目付きで検分し、タンパックスの箱をそっとショッピング・カートに放り込んでいた彼の姿を。かわいそうに、と僕は思った。考えてみれば、最後まで運のない男だった。隣の兵隊が踏んだ地雷で左腕を失った男。朝から晩までアメの吸いさしの煙草を消してまわっていた男。そしてスーパーマーケットの袋を抱えたままトラックにはねられて死んだ男。
彼の葬儀は奥さんと子供のいる家で行われるということだった。もちろんアメもユキも僕もそこには行かない。
僕は五反田君から返してもらったスバルにユキを乗せて、火曜日の午後に箱根まで行った。ママを一人で置いておくわけにはいかないから、とユキは言った。
「あの人一人じゃ本当になにもできないのよ。お手伝いのおばさんはいるけど、もう歳であまり気もきかないし、それにその人夜になると帰っちゃうから、一人にしておけないのよ」
「しばらくはお母さんと一緒にいた方がいいだろうね」と僕は言った。
ユキは肯いた。そしてしばらくロードマップのベージをぱらぱらと繰っていた。「ねえ、私この前、彼についてひどいこと言ったわよね」
「ディック・ノースのこと?」
「そう」
「どうしようもない馬鹿だって言った」と僕は言った。
ユキはロードマップをドアのポケットに戻し窓枠に片肘をついて、じっと前方の風景を眺めた。「でも今思うと悪い人じゃなかった。私にも親切だったし、とてもよくしてくれた。サーフィンも教えてくれた。片腕なのに、両腕がある人よりしっかり生きてた。ママのことだって大事にしていた」
「知ってるよ。悪い男じゃなかった」
「でもひどいことを言いたかったのよ、私」
「知ってる」と僕は言った。言わずにいられなかったんだ。君が悪いんじゃない」
彼女はずっと前を向いてた。一度も僕の方を見なかった。開けはなたれた窓からはいってくる初夏の風が彼女のまっすぐな前髪を草の葉のように揺らしていた。
「気の毒だけれど、彼はそういうタイプの人間だったんだ」と僕は言った。
「悪い男じゃない。ある意味では尊敬にさえ値する。でもときどき品の良いごみ箱みたいに扱われる。いろんな人間がいろんなものをそこに投げ込んでいく。投げ込みやすいんだ。どうしてかはわからない。たぶん生まれながらにそういう傾向が備わっているんだろう。君のお母さんが黙っていてもみんなに一目おかれるのと同じようにね」凡庸さというのは白い上着についた宿命的なしみと同じなのだ。一度ついたものは永遠に落ちない。
「不公平なのね」
「原理的に人生というのは不公平なんだ」と僕は言った。
「でも自分がひどいことをしたような気がする」
「ディプク・ノースに対して?」
「そう」
僕は溜め息をついて車を道ばたに停め、キーを回してエンジンを切った。そ してハンドルから手を放して彼女の顔を見た。
「そういう考え方は本当に下らないと僕は思う」と僕は言った。「後悔するくらいなら君ははじめからきちんと公平に彼に接しておくべきだったんだ。少なくとも公平になろうという努力くらいはするべきだったんだ。でも君はそうしなかった。だから君には後悔する資格はない。全然ない」
ユキは目を細めて僕の顔を見た。
「僕の言い方はきつすぎるかもしれない。でも僕は他の人間にはともかく、君にだけはそういう下らない考え方をしてほしくないんだ。ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。身につかない。君はディック・ノースに対して後悔する。そして後悔していると言う。本当にしているんだろうと思う。でももし僕がディック・ノースだったら、僕は君にそんな風に簡単に後悔なんかしてほしくない。口に出して『酷いことをした』なんて他人に言ってほしくないと思う。それは礼儀の問題であり、節度の問題なんだ。君はそれを学ぶべきだ」
ユキは何も言わなかった。窓枠に肘をついて、こめかみに指先をじっと押しつけていた。彼女はまるで眠りこんでしまったみたいに静かに瞼を閉じていた。時々まつげが微かに上下に動き、唇が小さく震えるだけだった。たぶん体の中で泣いているんだろうと僕は思った。声も涙も出さずに泣いているのだ。僕は十三歳の少女に対して余りにも多くを望んでいるのだろうか、とふと思った。そして僕はそんな偉そうなことを口にできる人間なんだろうか、と。でも仕方ない。相手が幾つだろうと、自分自身がどういう人間であろうと、僕はある種のことに対しては手加減というものができないのだ。下らないことは下らないと思うし、我慢できないことは我慢できないのだ。
長い間ユキは同じ格好をしたままびくりとも動かなかった。僕は手を伸ばしてそっと彼女の腕に触れた。
「大丈夫だよ、君が悪いんじゃない」と僕は言った。「たぶん僕が偏狭すぎるんだ。公平に見れば君はとてもよくやってる。気にしなくていい」
涙が一筋彼女の頬をったって膝の上に落ちた。でもそれだけだった。それ以上は涙もこぼさなかったし、声も出さなかった。立派なものだ。
「いったい私はどうすればいいのかしら?」と少しあとでユキは言った。
「何もしなくていい」と僕は言った。「言葉にならないものを大事にすればいいんだ。それが死者に対する礼儀だ。時間が経てばいろんなことがわかるよ。残るべきものは残るし、残らないものは残らない。時間が多くの部分を解決してくれる。時間が解決できないことを君が解決するんだ。僕の言うことは難しすぎる?」
「少し」とユキは言って、微かに微笑んだ。
「確かに難しいな」と僕も笑って認めた。「僕の言ってることは、大抵の人間にはまず理解されないだろうと思う。普通の大方の人は僕とはまた違った考えかたをしていると思うから。でも僕は自分の考え方がいちばん正しいと思ってる。具体的に噛み砕いて言うとこういうことになる。人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは君が考えているよりずっと脆いものなんだ。だから人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。公平に、できることなら誠実に。そういう努力をしないで、人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。個人的に」
ユキはドアにもたれかかるようにしてしばらく僕の顔を見ていた。
「でもそれはとても難しいことみたいに思えるけれど」と彼女は言った。
「難しいことだよ、とても」と僕は言った。「でもやってみる価値はある。ボーイ・ジョージみたいな唄の下手なオカマの肥満児でもスターになれたんだ。努力がすべてだ」
彼女は少し笑って、そして肯いた。「あなたの言うことなんとなくわかるような気がする」とユキは言った。
「わかりがいい」と僕は言った。そしてエンジンを入れた。
「でもどうしてそんなにボーイ・ジョージばかり目のかたきにするのかしら?」とユキは言った。
「どうしてだろう」
「本当は好きだからじゃないの?」
「今度ゆっくりそれについて考えてみよう」と僕は言った。
アメの家は大手の不動産会社が開発した別荘地の中にあった。大きな門があり、門の近くにプールやコーヒー・ハウスがあった。コーヒー・ハウスの隣にはジャンク・フードを山積みにしたミニ・スーパーのようなものもあった。しかしディック・ノースのような人間はそんな間にあわせの店で買い物をすることを拒否するのだ。僕だってこんなところで買い物なんかしたくない。道はずっと曲がりくねった上り坂で、僕の自慢のスバルもさすがに少し息が荒くなった。アメの家はその丘の中腹あたりにあった。親子二人で住むにはかなり大きな家だった。僕は車を停め、ユキの荷物を持って石垣の脇の階段を上っていった。斜面に立ち並んだ杉の木の間から小田原の海が見下ろせた。空気はぼんやりと霞み、海は春の鈍い色合いに光っていた。
アメは日当たりの良い広い居間の中を火のついた煙草を手に歩きまわっていた。大きなクリスタル・ガラスの灰皿は折れたり曲がったりしたセイラムの残骸で溢れていた。そしてそこに誰かが思いきり息を吹きかけたみたいに、テーブルの上には灰が勢い良く散乱していた。彼女は吸いさしのセイラムを灰皿に放りこんでユキのところに行き、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。彼女は現像用の薬品の染みのついたオレンジ色のLサイズのトレーナー・シャツを着て、色の褪せたブルージーンズをはいていた。髪が乱れて、目が赤くなっていた。たぶんずっと寝られずに煙草を吸いつづけていたのだろう。
「大変だったわ」とアメは言った。「本当にひどい。どうしてこんなにひどいことばかり起こるんだろう?」
本当にひどいことだと僕も言った。彼女は昨日の事故の顛末を話して聞かせてくれた。余りにも突然のことなので、自分はどうしようもなく混乱しているのだ、と彼女は言った。精神的にも、現実的にも。
「おまけにお手伝いのおばさんが今日は熱をだして来られないっていうのよ。こういう時に限って。何でこんな時に熱なんか出すのよ?何だかもう気が狂いそうだわ。警察の人は来るし、ディックの奥さんから電話はかかってくるし。私、本当にもうどうしていいかわかんない」
「ディックの奥さんはなんて言ったんですか?」と僕は訊いてみた。
「それが何が何だかよくわからないの」とアメは溜め息をついて言った。「ただ泣いてるだけ。ときどき小さな声でぼそぼそ何か言うだけ。殆ど聞き取れないの。私だってこんな時に何を言っていいか見当もつかないし……、そうでしょう?」
僕は肯いた。
「だからうちに残ってる彼の荷物はなるべく早くそちらに送りとどけるようにしますと言ったんだけど。でもその人ずうっと泣いてるだけなの。手のつけようがないの」
そういうと彼女は深い溜め息をつき、ソファにもたれた。
「何か飲みますか?」と僕は訊いた。
できたら熱いコーヒーが飲みたいと彼女は言った。
僕はとりあえず灰皿をかたづけ、テーブルの上に散らばった灰を雑巾で拭き、ココアのかすのこびりついたカップを下げた。そして台所をざっとかたづけ、湯を沸かし、濃いめのコーヒーを作った。台所はいかにもディック・ノースが働きやすいようによく整頓されていたが、死後一日を経ずしてそこにははっきりとした崩壊の様相がうかがえた。流しの中には無秩序に食器が放りこまれ、砂糖壷の蓋は開いたままだった。ステンレスのレンジにはココアがべっとりとこびりついていた。包丁はチーズか何かを切ったままの姿で放置されていた。
かわいそうな男だ、と僕は思った。一所懸命彼は彼なりの秩序をここに作りあげたのだろう。でも一日でそんなものはあとかたもなく消え失せてしまう。あっという間だ。人というものは自分にいちばん似合った場所にその影を残していく。ディック・ノースのそれは台所だった。そしてそれも、そのかろうじて残った不安定な影も、あっと言う間に消滅してしまう。
かわいそうに、と僕は思った。
それ以外の言葉を思いつけなかった。
僕がコーヒーを持っていくと、アメとユキは寄り添うように並んでソファに座っていた。アメは潤んだようなとろんとした目つきでユキの肩に頭を載せて休めていた。彼女は何かの薬物の作用で精神が後退しているようにさえ見えた。ユキは無表情だったが、母親が虚脱状態で自分にもたれかかっていることをとくに不快にも不安にも思っていないようだった。まったく不思議な親子だ、と僕は思った。二人が一緒になると、そこに何か奇妙な雰囲気が生まれる。アメだけの時とも違う、ユキだけの時とも違う何かだ。そこには何かしら近寄りがたいものがある。いったい何だろう?
アメは両手でコーヒー・カップを抱え、とても大事なものを飲むようにゆっくりとコーヒーを飲んだ。「おいしい」と彼女は言った。コーヒーを飲んでしまうと、アメは幾分落ち着いたようだった。目に少し光が戻ってきた。
「君は何か飲む?」と僕はユキに尋ねた。
ユキは無表情に首を振った。
「いろんなことの処理はもう終わったんですか?事務的なこととか、法律的なこととか、そういう細かい手続きは」と僕はアメに訊いた。
「うん、もう終わったわ。具体的な事故処理についてはとくに面倒なことはなかったの。ごく普通の交通事故だから。家に警官が来て、知らせてくれただけ。それで、私、その人にデイックの奥さんのところに連絡してもらったの。奥さんはすぐに警察に来たみたい。彼女が細かいことは全部済ませたの。だって法律的にも事務的にも私はディックとは無関係な人間だから。その後で彼女が家に電話してきたの。殆ど何も言わないで、ただ泣いてるだけ。非難もしないし、何もないの」
僕は肯いた。ごく普通の交通事故、と僕は思った。
あと三週間も経てばたぶんこの女はディック・ノースがいたことなんかあらかた忘れてしまうだろう、と僕は思った。忘れやすいタイプの女だし、忘れられやすいタイプの男なのだ。「何か僕にできることはありますか?」と僕はアメに訊いた。
アメは僕の顔をちらりと見て、それから床に目をやった。奥行きのない平板な視線だった。彼女はしばらく考えこんでいた。考えるのに時間がかかった。目の色が鈍くなり、それからまた少しずつそこに光が戻ってきた。遠くの方までふらふらと歩いて行って、ふと思い直してまた戻ってくるような感じだった。「ディックの荷物」と彼女は呟くように言った。「奥さんに返すって言ったやつ。そのことさっきあなたに言ったわよね?」
「ええ、聞きました」
「それを昨日の夜に整理したの。原稿とかタイプライターとか本とか服とか、そういうものをまとめて彼のスーツケースの中に詰めておいたの。そんなに沢山じゃないの。あまり物を持たない人だったから。中くらいの大きさのスーツケースひとつ分。悪いんだけど、それを彼の家に届けていただけないかしら?」
「いいですょ。届けます。家は何処にあるんですか?」
「豪徳寺」と彼女は言った。「細かい住所はわからないわ。調べてくれる?たぶんスーツケースのどこかに書いてあったと思うんだけど」
そのスーツケースは二階の廊下の突き当たりにある部屋に置いてあった。スーツケースのネームタッグには如何にも几帳面そうな字でディック・ノースという名前と豪徳寺の住所が書いてあった。ユキがその部屋に僕を案内してくれた。屋根裏部屋のような狭く細長い部屋だったが、雰囲気は悪くなかった。昔住み込みのお手伝いさんがいるときに、この部屋を与えていたのだとユキは言った。ディック・ノースはその部屋をとてもきちんと整理していた。小さなライティング・デスクの上には鉛筆が五本見事にほっそりと削られて、消しゴムと一緒に静物画みたいな感じに並べられていた。壁のカレンダーには細かい書込みがあった。ユキは戸口にもたれて、黙って部屋の中を見ていた。空気はしんとしていた。鳥の声の他には物音ひとつ聞こえなかった。僕はマカハのコテージを思い出した。あそこも静かだった。そしてやはり鳥の声しか聞こえなかった。
僕はそのスーツケースを抱えて下におりた。スーツケースの中には原稿や本がたっぷりと入っているらしく、みかけよりずっと重かった。その重みは僕にディック・ノースの死の重みを想像させた。
「今から届けてきます」と僕はアメに言った。「こういうことは早ければ早い方がいいですからね。ほかに何か僕のすることはありますか?」
アメは迷ったようにユキの顔を見た。ユキは肩をすぼめた。
「実は食料品があまりないの」とアメは小さな声で言った。「彼が買いに出て、それであんなことになって、だから…」
「いいですよ。適当に買ってきます」と僕は言った。
そして僕は冷蔵庫の中身を点検し、必要と思えるものをメモした。そして下の町に下りて、ディック・ノースがその前で死んだスーパーマーケットで買物をした。四、五日はもつだろう。僕は買ってきた食品をひとつひとつきちんとラップに包んで冷蔵庫にしまった。
アメは僕に礼を言った。大したことじゃないです、と僕は言った。実際に大したことではなかった。ディック・ノースがやろうとしてやり残して死んだことを僕が引き継いで済ませただけのことだった。
二人は石垣の上から僕を見送ってくれた。マカハの時とまったく同じように。でも今回は誰も手を振らなかった。僕に手を振るのはディック・ノースの役目だったのだ。二人の女は石垣の上に並んで立って、殆ど身動きひとつせずにじっと僕の姿を見下ろしていた。どことなく神話的な趣きのある情景だった。僕はそのグレーのプラスティックのスーツケースをスバルの後部席に入れ、それから運転席に入った。彼女たちは僕がカーブを曲がってしまうまで、ずっとそこに立っていた。日没が近付いていて、西側の海がオレンジ色に染まり始めていた。あの二人はこれからここでいったいどういう夜を過ごすんだろう、と僕は考えた。
それから僕はホノルルのダウンタウンのあの奇妙な薄暗い部屋で見た片腕の白骨のことを思い出した。あれはやはりディック・ノースの骨だったんだろうな、と僕は思った。たぶんあそこには死が集められていたんだ。六体の白骨ーー六つの死。あとの五つは誰の死なんだろう?一つは鼠かもしれない。鼠ーー死んでしまった僕の友達。そしてもうひとつはたぶんメイだ。あと三つ。
あと三つ。
でもどうしてキキがそんなところに僕を導いたんだろう。何故キキが僕にその六個の死を提示しなくてはならなかったんだろう?
僕は小田原まで下り、東名高速に入った。そして三軒茶屋で首都高速を下り、ロードマップを頼りに世田谷の曲がりくねった道路をしばらくうろうろしてかやっとディック・ノースの家にたどりついた。家そのものはこれという特徴のないごく普通の建売住宅だった。小ぢんまりとした二階建ての家で、ドアも窓も郵便受けも門灯も、何から何までみんなひどく小さく見えた。ドアの脇に犬小屋があって、鎖に繋がれた雑種犬が自信なげにうろうろとその回りを歩きまわっていた。家中に明かりがついていた。人々の声も聞こえた。狭い玄関には黒い革靴が五足か六足、きちんと向きを揃えて並べられていた。出前の寿司桶も見えた。ディック・ノースの遺体がここに置かれ、通夜が行われているのだ。彼にも、少なくとも死んでからは帰る場所があったのだ、と僕は思った。
僕はスーツケースを車から出し、玄関まで運んだ。ベルを押すと中年の男が出てきたので、この荷物をここまで運ぶように言われたのだ、と僕は言った。そしてそれ以上のことは何も知らないという顔をしていた。男はスーツケースのネームタッグを見て、すぐに事情を理解したようだった。,
「どうも御丁寧に有り難うございました」と彼は丁重に礼を言った。
僕はなんだか割り切れない気分のまま渋谷のアパートに戻った。
あと三つ、と僕は思った。
ディック・ノースの死はいったい何を意味するのだろう、と僕は部屋で一人でウィスキーを飲みながら考えた。でも彼の唐突な死は、殆ど何の意味も持っていないように僕には感じられた。僕のジグソー・パズルに開いたいくつかの空白には、その断片はまったく合致しなかった。裏返しても、横にしても駄目だった。たぶん違うカテゴリーに属する断片なのだ。しかし彼の死は、それ自体に何の意味もないとしても、状況に何か大きな変化をもたらすだろうという気がした。それもあまり良くない方向に。どうしてかはわからないけれど、僕は直観的にそう思った。ディック・ノースは本質的に善意の男だった。そして彼は彼なりに何かを繋ぎとめていた。でも今ではそれが消滅してしまった。きっと何かが変わる。たぶん状況は今までよりもっとハードなものになってくるだろう。
例えば?
例えばーー僕はアメといるときのユキの無表情な目付きがどうも好きになれなかった。そしてユキと一緒にいるときのアメのとろんとして平板な目付きがどうも好きになれなかった。そこには何かしら不吉なものがあるように僕には思えた。僕はユキのことが好きだった。頭の良い子だ。時々ひどく頑固になるが、根は素直だ。また僕はアメに対しても好意のようなものを抱いていた。二人だけで話すと、彼女はやはり魅力的な女性だった。才能にあふれ、無防備だった。ユキよりずっと子供っぽいところもあった。でも二人が一緒になると、その組み合わせは僕をひどく疲れさせた。牧村拓があの二人のおかげで俺の才能は尽きて消えてしまったと言う意味も何となく理解できた。
そう、そこには直接的なパワーのようなものが生じるのだ。
これまではその二人の間にティック・ノースがいた。でももう今はいない。ある意味では僕が二人に直接に対面している。
例えばーーそういうことだ。
僕はユミヨシさんに何度か電話をし、五反田君と何度か会った。ユミヨシさんの態度は全体的に見れば相変わらずクールだったが、その口調からすると僕から電話がかかってくることを多少は嬉しく思っているようだった。少なくともそれほど迷惑には思っていないようだった。彼女は一日も休まず週に二回スイミング・スクールに通い、休みの日にはボーイフレンドと時々デートをしていた。先週の日曜日に彼と何とかという湖にドライブに行ったと彼女は言った。
「でも、その人とは何もないのよ。ただの友達なの。高校のクラスが同じで、札幌で働いてる人なの。それだけ」
別にそんなこと気にしなくていい、と僕は言った。本当にそんなことどうでもよかったのだ。僕が気にしていたのはスイミング・スクールのことだけなのだ。ボーイフレンドと何処の湖に行こうが、何処の山にのぼろうが、僕の知ったことではない。
「でも一応言っておいた方がいいと思ったから」とユミヨシさんは言った。 「何かを隠しておくっていうの、私は嫌だから」
「そんなこと全然気にしなくていいんだよ」と僕は繰り返した。「僕はもう一度札幌に行って君に会って話をする。それだけが問題なんだ。君は好きに誰とでもデートすればいいさ。そんなの、僕と君との間の事柄にはなんの関わりもない。僕はずっと君のことを考えてる。前にも言ったように僕らの間にはなにかしら相通ずるものがあるんだ」
「たとえば?」
「たとえばホテルだ」と僕は言った。「あそこは君の場所であり、また僕の場所でもある。あそこは僕らふたりにとっていわば特別の場所なんだ」
「ふうん」と彼女は言った。肯定的でも否定的でもない、あくまで中立的な「ふうん」だった。
「僕は君と別れてからいろんな人に会った。いろんな目にも会った。でも根本的にはずっと君の事を考えているような気がする。しょっちゅう君に会いたいと思っている。でもまだ行けない。用事がまだかたづいてないから」
心はこもっているが、非論理的な説明だった。僕らしい。
中くらいの長さの沈黙があった。中立からのほんの少しだけポジティブな方向に傾いた感じのする沈黙だった。でも結局のところ沈黙はただの沈黙にすぎない。僕は物事を好意的に考え過ぎるのかもしれない。
「その作業は進展はしているのかしら?」と彼女は質問した。
「そうだと思う。たぶんそうだと思う。そう思いたい」と僕は答えた。
「来年の春までにかたづくといいわね」と彼女は言った。
「まったく」と僕は言った。
五反田君はいささか疲れているように見えた。仕事のスケジュールがひどくタイトな上に、その間を縫うようにして別れた奥さんと隠れて会っているせいだ。それもこっそりと人目につかないように。
「こんなことはいつまでも続けられないね。それだけは確信をもって言える」と五反田君は深い深い溜め息をつきながら言った。「僕はもともとこういう技巧的な生活に向いてないんだよ。僕はどちらかといえば家庭的な人間なんだ。だから毎日毎日すごく疲れる。神経が伸びきっているような気がする」
彼はゴム紐を伸ばすみたいに両腕を左右に広げた。
「彼女と二人で休暇をとってハワイに行くべきだな」と僕は言った。
「そうできればね」と彼は言った。そして力なく微笑んだ。「そうできればどんなに楽しいだろうね。何も考えずにぼんやりと何日か二人でビーチに寝転んで暮らすんだ。五日でいい。いや贅沢は言わない。三日でもいいよ。三日あれば随分疲れが取れるんだろうけど」
その夜僕は彼と一緒に麻布の彼のマンションに行き、シックなソファに座って、酒を飲みながら彼の出演したTVコマーシャルを集めたビデオを見た。胃腸薬のCM。そのCMを見たのは初めてだった。どこかのオフィスのエレベーター。壁もドアも仕切りもないオープンなエレベーターがかなり高速で四基並んで上がったり下がったりしている。五反田君はダーク・スーツを着て革鞄を抱えてエレベーターに乗っている。いかにもエリート・サラリーマンという風貌だ。彼はそのエレベーターからエレベーターへとひょいひょいと跳び移る。あっちのエレベーターに上役が乗っているとそちらに行って仕事の打ち合わせをし、こっちのエレベーターに綺麗なOLが乗っているとデートの約束をし、向こうのエレベーターにし残した仕事が置いてあるとそっちにいって急いで仕上げたりするのだ。二つ向こうのエレベーターで電話が鳴っていたりもする。高速で動くエレベーターからエレベーターへと跳び移るのはけっして簡単なことではない。五反田君はクールに表情を崩さず、しかしいかにも必死にとびうつっている。
そしてコメントがはいる。「疲労する毎日。疲労は胃にたまります。忙しいあなたに、優しい胃腸薬、……」
僕は笑った。「面白いね、これは」
「僕もそう思う。もちろん下らんCMだ。CMなんて根本的にはみんな屑だ。でもこれはなかなかよく撮れてる。情け無い話だが、僕の主演した大部分の映画よりずっと質が高い。これでけっこう金もかかってるんだ。セットとか、特殊撮影とかね。広告の連中は細かいところに惜しげなく金をかけるからね。設定も面白い」
「そして君の今の状況を示唆している」
「実に」と言って彼は笑った。「君の言うとおりだ。本当に良く似ている。寸暇を縫ってあっちにひょいと跳び移り、こっちにひょいと跳び移っている。やってる方は命懸けだ。疲労が胃にたまる。でもこの薬も効かないんだ。一ダースもらったから試してみたんだけど、見事に効かない」
「でもとても動きが良いね」と僕はリモコンでもう一度そのCMをプレイバックして見ながら言った。「どことなくバスター・キートン的おかしみがある。君は意外にこういう感じの演技が向いているのかもしれないね」
五反田君はくちもとに微笑みを浮かべて肯いた。「そうだな、僕は喜劇って好きだよ。興味がある。可能性を感じる。何と言うかね、僕みたいなストレートなタイプの役者のストレートな故のおかしみのようなものが上手く出せると面白いと思うんだ。このまがりくねったややこしい世界できちっとストレートに生きていこうとする。でもそういう生き方自体が滑稽だというようなね。僕の言ってることわかるかな?」
「わかるよ」と僕は言った。
「別に特に滑稽なことはやらなくていいんだ。ごく普通に振る舞っていればいい。それだけでけっこうおかしい。そういう演技には興味があるよ。そういうタイプの俳優は今の日本にはいないからね。コメディーとなると大抵の人間はオーバー・アクトする。僕のやりたいのはその逆なんだ。何も演じない」彼は一口酒を飲んで天井を見た。「でも誰も僕のところにそういう役をもってこない。あいつらには想像力というものがないからね。僕の事務所に持ち込まれるのは明けても暮れても医者だの教師だの弁護士だの、そんな役ばっかりだ。もう、飽きた。断りたいが、断れる立場に僕はない。疲労が胃にたまる」
そのCMはかなり評判が良くて、幾つか続編が作られた。パターンはいつも同じだった。端正な顔をした五反田君がビジネス・スーツに身を包み、電車やバスや飛行機に間一髪のタイミングで飛び乗ったりしていた。あるいは彼は書類を小脇に抱え、高層ビルの壁にしがみついたり、ロープをつたったりしてあっちの部屋からこっちの部屋へと移動していた。どれもよく出来ていた。何といっても五反田君が表情を崩さないところがよかった。
「最初はすごく疲れた顔をしろっていわれたんだ。ディレクターに。くたくたで疲労困憊でもう死にそうって感じでやれってさ。でも僕は嫌だって言った。そうじゃない、これはクールにやるからこそ面白いんだって。もちろんあいつらは馬鹿だから僕の言うことなんて全然信じなかった。でも僕も引かなかった。僕は好きでこんなCMに出てるわけじゃない。金のために仕方なくやってるんだ。でもそれとは別にこれはきっと面白いものになるっていう気がしたんだ。で、徹底的にごねた。結局二種類のフィルムを作ってみんなに見せたんだ。もちろん僕が主張したやり方のフィルムの方がずっと受けた。でもCMが成功したら手柄は全部そのディレクターどものものになった。何かの賞をとったっていうことだよ。別にそんなことどうでもいいさ。僕はただの役者だ。誰がどう評価されようと僕には関係ない。でもね、僕はあいつらがごく当然みたいなでかい面してのさばってるのが気にくわない。賭けてもいいけど、あいつらは今ではあのCMのアイデアは最初から最後まで全部自分で思いついたことだと信じこんでいるよ。そういうやつらなんだ。想像力のないやつらに限って自己合理化が素早いんだ。そして僕はごねるのが好きなただのハンサムなだけの大根だと思われてる」
「お世辞を言うわけじゃないけど、君には何か特別なものがあるような気がするな」と僕は言った。「正直言って、こうして君と実際に会って話してみるまではそんな風には感じなかった。何本か君の出た映画を見たけど、率直に言ってどれも程度の差こそあれひどい映画だった。そういうのに出てると君までひどく見えた」
五反田君はビデオ・デッキのスイッチを切り、新しい酒を作り、ビル・エヴァンスのレコードをかけた。そしてソファに戻って酒をひとくち飲んだ。そんな一連の動作は相変わらず見事に優雅だった。
「そのとおりだよ。実にそのとおりだ。あんな下らない映画に出てると、自分がだんだん下らなくなってくるのがわかる。自分がひどくみすぼらしく感じられる。でもさっきも言ったように、僕は何かを選べる立場にはないんだ。なにひとつとして選べない。自分のしめるネクタイの柄さえろくに選ばせてもらえない。自分の頭が良いと思ってる馬鹿どもと、自分の趣味が良いと思ってる俗物どもが好き勝手に僕を小突きまわすんだ。あっち行け、こっち来い、あれやれ、これやれ、この車に乗れ、この女と寝ろってね。下らない映画みたいな下らない人生だ。いつまでもいつまでもだらだらと続いている。いつまで続くんだろう?自分でも見当がつかない。もう三十四なのにね。あと一月で三十五になるんだぜ」
「思い切って何もかも捨ててゼロになればいいだろう。君ならゼロからやりなおせるよ。事務所を出て好きなことをしてぼちぼちと借金を返していけばいい」
「そのとおりだ。僕だって何度もそのことを考えた。そして僕ひとりだったら、きっともうそうしていただろうな。ゼロになって、どこかの劇団で好きな芝居をやっているかもしれない。それで構わないよ。金のことはなんとかなるだろう。でもね、僕がゼロになったら、彼女は間違いなく俺を捨てるよ。あれはそういう女なんだ。こういう世界でしか呼吸していけないんだ。ゼロになった僕と一緒にいたら、あれは呼吸困難になっちゃうね。良いも悪いもない。そういう体質なんだ。彼女はスター・システムというシステムの中で、そういう気圧の中で生きてるし、相手にもそれと同じ気圧を要求する。そして僕は彼女を愛している。彼女からは離れられない。それだけは駄目だ」
出口がないのだ。
「八方塞がりなのさ」と五反田君は微笑みながら言った。「何か別の話をしようよ。これについて話していると朝までかけても何処にもいかない」
僕らはキキの話をした。彼がキキと僕の関係について聞きたがったのだ。
キキが我々を引き合わせたようなものなのに、考えてみたら君の口から彼女の話を殆ど聞いていないような気がする、と五反田君は言った。それは話しにくい種類のことなのかな?
もしそうだったら話さなくてもいいけど。
いや、話しにくいってわけじゃない、と僕は言った。
僕はキキと会ったときの話をした。ふとしたことで我々は知り合い、一緒に暮らすようになったのだ、と。まるで空白に何かの気体が音もなく自然にもぐりこんでくるように、彼女は僕の人生にはいりこんできたのだ。
「ごく自然なことだったんだ」と僕は言った。「上手く説明できないな。何も彼もがすうっと自然に流れていってそうなったんだ。だからその時はとくに不思議だとは思わなかった。でもあとになって考えてみるといろんなことが非現実で筋が通ってないように感じられる。言葉にしてみると馬鹿気ているんだ、実に。だから僕はそれについてこれまで誰にも話さなかった」
僕は酒を飲み、グラスの中の綺麗な氷を揺すった。
「キキはその当時耳のモデルをしていてね、僕は彼女のその耳の写真を見て、それでキキに興味を持ったんだ。あれはね、何というか本当に完璧な耳だったんだ。僕はその時その耳の写真を使って広告を作る仕事をしていた。その写真にコピーをつけるんだよ。何の広告だっけな、忘れた。でもとにかくその耳の写真が僕のところに送られてきた。ものすごく大きく拡大されたキキの耳の写真だ。産毛まで見えるくらいのやつだよ。僕はそれを事務所の壁にかけて毎日眺めて暮らしていた。最初は広告コピーのインスピレーションを得る為だったんだけど、そのうちにその写真を見ることは僕の生活の一部になった。広告の仕事が終わったあとでも、僕はずっとその写真を眺め続けていた。それは本当に素晴らしい耳だったんだ。君にも見せたい。実物を見せなくちゃ説明にも何にもならないだろうからさ。それの存在自体が意味を持っているような、完璧な耳だった」
「そう言えば君はキキの耳のことについて何か言ってたな」と五反田君は言った。
「うん、そう。それで僕はどうしてもその耳の持ち主に会いたくなった。彼女に会わないことには人生がこれ以上一歩も前に進まないような気がした。どうしてだろう?でもそういう気がしたんだ。それで僕はキキに電話をかけた。彼女は僕と会ってくれた。そして会った最初の日にキキは僕に個人的に耳を見せてくれた。個人的な耳を見せてくれたんだ。営業用じゃない個人的な方の耳を。それは写真よりももっと凄い耳だった。信じられないくらい凄い耳だった。彼女は営業用に耳を出す時にはーーつまりモデルをする時にはーー意識的に耳を閉鎖するんだ。だから個人的な耳というのは、それとはまったく違う。わかるかな、彼女が耳を見せると、それだけでそこにある空間が変化してしまうんだ。世界のありようが一変するんだ。こんな風に言ってもたぶん凄く馬鹿馬鹿しく聞こえるんだろうけどね。でもそうとしか、表現のしようがない」
五反田君はそれについてじっと考えこんでいた。「耳を閉鎖するというのはどういうことだろう?」
「耳と意識を分断するんだよ。簡単に言えば」
「ふうん」と彼は言った。
「コンセントを抜くんだ。耳の」
「ふうん」
「馬鹿みたいだ。でも本当なんだ」
「もちろん信じてるよ、君の言うことは。ちゃんと理解しようとしているだけだよ。馬鹿にしてるんじゃない」
僕はソファにもたれて壁にかかった絵を眺めた。
「そして、彼女の耳は特殊な力を持っているんだ。何かを聞き分け、人をしかるべき場所に導くんだ」と僕は言った。
五反田君はまたしばらく考えこんでいた。「それで」と彼は言った。「そのときキキは君を何処かに導いたんだね?しかるべき場所に?」
僕は肯いた。でもそれについては何も話さなかった。話を始めると長くなるし、話したいとも思わなかった。五反田君もとくにそれ以上は質問しなかった。
「そして彼女は今また僕をどこかに導こうとしている」と僕は言った。「僕はそれをはっきりと感じるんだよ。この何カ月かずっとそれを感じ続けていた。そして僕はその糸を少しずつたぐり寄せてきた。ずるずるとね。細い糸だし、何度も切れそうになった。でも何とかここまで辿ってきた。そしてその過程でいろんな人間と巡り合った。君もそのひとりだ。中心的なひとりだね。でも僕は彼女の意図するところをまだ掴めていない。途中で人が二人死んだ。ひとりはメイで、もう一人は片腕の詩人だ。動きはある。でもどこにも行かない」
グラスの中の氷が溶けてしまったので、五反田君は台所からアイスペールいっぱいの氷を持ってきて、二人分の新しいオン・ザ・ロックを作ってくれた。優雅な手付きだった。彼が空のグラスに氷を入れるとからんというとても気持ちの良い音がした。まるで映画のシーンみたいだなと僕は思った。
「僕もやはり手詰まりなんだ」と僕は言った。「君と同じだ」
「いや、そうじゃない。君と僕とは違う」と五反田君は言った。「僕は一人の女を愛している。そしてそれは全く出口のない愛情だ。でも君はそうじゃない。少なくとも君は何かに導かれている。今は混乱しているかもしれない。でも僕がひきずりこまれているこの感情の迷路に比べたら、君の方がずっとずっとましだし、希望だって持てる。少なくとも出口があるという可能性はある。僕のは全くないんだ。その二つの状況には決定的な違いがあると思うね」
そうかもしれない、と僕は言った。「とにかく僕に出来ることはなんとかキキのラインにしがみついていることだ。それ以外に今のところやることもない。彼女は僕に何かしらの信号なりメッセージなりを送ろうとしている。僕はそれに耳を澄ましている」
「ねえ、どうだろう?」五反田君は言った。「キキが殺されてしまったという可能性はないだろうか?」
「メイと同じように?」
「うん、だって消え方があまりにも唐突に過ぎる。メイが殺されたって聞いたとき僕はすぐにキキのことを思い出した。彼女もやはり同じような目にあったんじゃないかってね。あまりそういうことを口にしたくないから黙ってたけど、その可能性はなくはないだろう?」
僕はじっと黙っていた。でも僕は彼女に会ったのだ、ホノルルのダウンタウンで、あの淡い灰色に染まった夕暮れの時刻に。本当に僕は彼女と出会ったのだ。そしてユキもそれを知っているのだ。
「ただの可能性だ。意味はないよ」と五反田君は言った。
「もちろんそういう可能性はあるだろうね。でもそれでも彼女は僕にメッセージを送ってくるよ。僕にはそれがはっきり感じられる。彼女はあらゆる意味で特別なんだ」
五反田君は長いあいだ腕を組んで考えこんでいた。彼はそのまま疲れて眠りこんでしまったみたいに見えた。でももちろん眠ってはいなかった。ときどき手の指が組みあわされたり離されたりした。指以外には何ひとつ動かなかった。夜の闇が何処かから部屋の中に忍び込んできて、羊水のように彼のスマートな体をすっぽりと包んでいるみたいに僕には感じられた。
僕はグラスの中の氷を一度くるっと回してからウィスキーを一口すすった。
そしてそのときふと部屋の中に第三者の存在を感じた。僕と五反田君の他に誰かがこの部屋の中に存在しているような。僕はその体温や息遣いやかすかな臭いをはっきりと感じることができた。でもそれは人間の気配ではなかった。それはある種の動物が引き起こす空気の乱れのようなものだった。動物、と僕は思った。そしてその気配は僕の背筋をはっとこわばらせた。僕はさっと部屋を見回してみた。でももちろん何も見えなかった。そこにあるのはただの気配だけだった。空間の中に何かがもぐりこんでいる硬質な気配。でも何も見えない。
部屋の中には僕がいて、五反田君がじっと目を閉じて考え事をしているだけだった。僕は深く息を吸いこんで耳を澄ませた。どんな動物だろう、と僕は思った。でも駄目だった。何も聞き取れなかった。その動物もやはりじっと息を殺してどこかの空間にうずくまっていた。そしてやがて気配が消えた。動物はいなくなった。
僕は肩の力を抜いて、酒をまた一口飲んだ。
二、三分あとで五反田君が目を開けた。そして僕に向かって感じ良く微笑みかけた。
「悪いね。何だか辛気臭い夜になっちゃったな」と彼は言った。
「それはたぶん僕らが二人とも本質的に辛気臭い人間だからだろう」と僕は笑って言った。五反田君も笑ったが、何も言わなかった。
一時間ばかり二人で音楽を聴いて酔いをさましてから僕はスバルに乗って家に帰った。そしてベッドにもぐりこんでこう思った。あの動物はいったい何だったんだろう、と。