ダンス・ダンス・ダンス

渋谷のアパートに戻って、留守中の郵便物にざっと目を通し、留守番電話をプレイバックしてみた。重要なものは何ひとつなかった。あいかわらず細々とした仕事の用件ばかりだった。次の号の原稿についての問い合わせとか、僕が姿をくらませていることに対する苦情とか、新しい注文とか、そういうものだ。でも面倒なので全部無視することにした。いちいち言い訳をするだけで相当な時間が潰されてしまいそうだったし、そんなことするくらいならいっそのこと言い訳抜きでさっさと仕事を片づけてしまった方が話が早いし楽だった。でも一度そんな雪かき仕事を始めたらそれ以外のことに手がつけられなくなってしまうことはわかりきっている。だから一切無視するしかないのだ。もちろん多少の義理は欠くことになる。しかし有り難いことに今のところ金の心配はないし、先のことは先のことでまあなんとかなるだろう。だいたい僕はこれまで文句ひとつ言わずに相手の言い分どおりに黙々と仕事をしてきたのだ。少しくらいは自分の生きたいように生きる。僕にだってそれくらいの権利はある。
それから僕は牧村拓の家に電話をかけた。フライデーが出て、すぐに牧村拓につないでくれた。僕はだいたいの経過を彼に説明した。ユキはハワイでずいぶんソラックスしていたし、問題は何もなかったと。
「結構」と彼は言った。「まったく君には感謝するよ。明日にでもアメのところに電話するよ。金は足りたか、ところで?」
「充分です。余ってます」
「好きに使っていい。気にするな」
「ひとつうかがいたいことがあるんですが」と僕は言った。「女のことです」
「ああ、あれね」と彼は何でもなさそうに言った。
「あれはいったいどういう組織なんですか?」
「コールガールの組織だよ。そんなこと考えればわかるだろう。君だってその女と一晩トランプ遊びしてたわけじゃないんだろう?」
「いや、そうじゃなくて、どうして東京からホノルルの女が買えるんですか?その仕組みが知りたいんです。ただの好奇心で」
牧村拓はちょっと考えていた。たぶん僕の好奇心の質について考えていたのだろう。「つまり国際宅急便みたいなもんだ。東京の組織に電話してホノルルのどこそこに何日の何時頃に女を届けてほしいと頼む。するとその東京の組織はホノルルで契約のある組織に連絡してその時間に女を送り届ける。俺は東京に金を払う。東京はコミッションを取って残りの金をホノルルに送る。ホノルルはコミッションを取って残りの金を女に渡す。便利だろう。世の中にはいろんなシステムがあるんだ」
「そのようですね」と僕は言った。国際宅急便。
「そう、金はかかるが便利だ。良い女が世界中何処でも抱ける。東京から予約できるんだ。向こうに行ってから苦労して深す必要もないし、安全だ。途中でヒモが出てくるなんてこともない。おまけに経費で落ちる」
「でもその組織の電話番号は教えてもらえないんでしょうね?」
「そりゃ駄目だ。絶対に秘密なんだ。会員しか取り次いでくれないし、会員になるにはものすごく厳しい資格審査がある。金と地位と信用が必要なんだ。君にはず無理だ。あきらめろ。俺がこのシステムのことを君に教えるだけですでに俺は部外者には秘密厳守という規約を破ってるわけなんだよ。俺がそれを君に教えてるのはただ単に純粋な好意からなんだぜ」
僕はその純粋な好意に対して礼を言った。
「でも良い女だったろう?」
「そうですね、確かに」と僕は言った。
「そりゃ良かった。良い女を寄越すようにって言っておいたんだ」と牧村拓は言った。「なんていう名前だった?」
「ジューン」と僕は言った。「六月のジューン」
「六月のジューン」と彼は繰り返した。「白だったか?」
「白?」
「白人」
「いや、東南アジア系です」
「今度ホノルルに行くことがあったら試してみよう」と彼は言った。
他に特に話すべきこともなかったので僕は礼を言って電話を切った。
次に僕は五反田君に電話をかけてみた。彼の電話は例によって留守番電話になっていた。僕は日本に戻ったので電話を欲しいというメッセージを入れておいた。そうこうするうちに日が暮れてきたので、僕はスバルに乗って青山通りに買い物に行った。そしてまた紀ノ国屋で調教済みの野菜を買った。あるいは長野の山奥あたりに紀ノ国屋出荷専用の調教的野菜畑があるのかもしれない。広い畑で、たぶんその回りには鉄条網が巡らせてあることだろう。『大脱走』みたいな感じのものものしい鉄条網だ。機関銃つきの監視塔があってもおかしくない。そしてその中でレタスやセロリに対して何かが行われているのだ、きっと。我々の想像を絶した非野菜的な訓練が。僕はそんなことを考えながら野菜を買い、肉と魚と豆腐と漬物を買った。そして家に帰った。
五反田君からの連絡はなかった。
翌朝僕はダンキン・ドーナッツで朝食を済ませてから図書館に行って半月分の新聞を調ベてみた。もちろんメイの事件の捜査の進捗ぶりを確かめるためだ。僕は朝日と毎日と読売の三紙を丁寧に読んでみたが、彼女の事件はただの一行も報道されてはいなかった。選挙の結果とレフチェンコ発言と中学生の非行問題が大きく取り上げられているだけだった。ビーチ・ボーイズが音楽的に不穏当だという理由でホワイト・ハウスでのコンサートをキャンセルされたという記事も載っていた。間違ったことだ。ビーチ・ボーイズが音楽的に不穏当でホワイト・ハウスを追われるとしたら、ミックジャガーは三回火あぶりにされてもおかしくないからだ。でもとにかく新聞には赤坂のホテルで一人の女がストッキングで絞め殺された事件についての記事は見当たらなかった。
僕はそれから週刊誌のバγクナンバーをまとめて読んでみた。そのうちのひとつにメイの殺人についての一ベージの記事が載っていた。『赤坂のQホテル・美女全裸絞殺事件』とタイトルにはあった。ひどいタイトルだ。写真のかわりに死体から専門の画家がおこしたらしい似顔絵が出ていた。死体写真を雑誌に載せるわけにはいかないからだろう。確かにじっとよく見るとその絵の女はメイに似ていたが、それは僕が最初からそれがメイだと知っているからこそ言えることであって、何の脈絡もなく急にその絵を見せられてもたぶんそれがメイだとはわからなかったんじゃないかと思う。確かに顔の細かい部分は上手く似せて描かれていたけれど、一番肝心なところが似ていなかったからだ。その絵は彼女の表情の根幹として存在していたものを伝えてはいなかった。それは死んだメイなのだ。生きているメイはもっと温かく、そしてもっと激しく動いていたのだ。彼女は間断なく希望し、幻想を抱き、思考していたのだ。彼女は優しく熟練したゴージャスな官能的雪かきだったのだ。だからこそ僕らは幻想を取引することができたのだ。彼女は朝に、イノセントに「かっこう」と言うことができたのだ。でもその線画のメイは実際よりずっと貧乏臭く、汚らしく見えた。僕は首を振った。そして目を閉じて、ゆっくりと溜め息をついた。その絵を見ていると、メイが死んでしまったんだということが僕にはあらためて実感できた。ある意味では死体写真を見るよりもずっと強くその死を、あるいはその存在の欠落を実感することができた。非常に、完全死んでしまったのだ。
い込まれてしまったのだ。彼女はもう戻ってはこないのだ。彼女の生は暗黒の虚無の中に吸い込まれてしまったのだ。そう思うと僕は胸の中に固く乾いた悲しみを感じた。
記事の方もその絵とおなじように貧乏臭く汚らしい文章で書かれていた。赤坂の一流ホテルQで二十代前半と推定される若い女がストッキングで絞殺されているのが発見された。女は裸で、身元を示すようなものは何ひとつとして身につけてはいなかった。フロントに告げた名前は偽名で云々、記事の中身は警察が僕に教えてくれたこととだいたい同じだった。ただし僕が知らないことも少しは書いてあった。警察はこの事件を売春組織にーーそれも一流ホテルを舞台にするような高級コールガール組織にーー関連させて調査を進めている、と記事の最後にはあった。僕はバックナンバーの束をラックに戻し、ロビーの椅子に座って考えをめぐらせた。
どうして彼らは売春に捜査を絞ることにしたんだろう?何か確実な証拠が出たのだろうか?でもまさか警察に電話をかけて漁師か文学を呼び出して、ところであれはその後どうなりましたかと訊くわけにもいかない。僕は図書館を出て、近くで簡単に昼食を済ませ、それから町をふらふらと散歩した。歩いているうちに何か良い考えが浮かぶんじゃないかと思ったのだが全然駄目だった。春の空気は漠然として重く、そして皮膚をむずむずとさせた。いったい何をどう考えればいいのか、思いがさっぱりまとまらなかった。僕は明治神宮まで歩いていって芝生に寝転んで空を眺めた。そして売春について考えてみた。国際宅急便、と僕は思った。東京で注文してホノルルで女と寝る。システマティックだ。手際が良いし、ソフィスティケートされている。汚らしくない。ビジネスライクだ。どんないかがわしいものでもあるポイントを越えると単純な善悪の尺度がきかなくなってしまう。そこにそれ独自の独立した幻想が生じるからだ。そして一度幻想が生じると、それは純粋な商品として機能しはじめる。高度資本主義はあらゆる隙間から商品を掘りおこす。幻想、それがキイ・ワードだ。売春だって人身売買だって階層差別だって個人攻撃だって倒錯性欲だってなんだって、綺麗なパッケージでくるんで綺麗な名前をつければ立派な商品になるのだ。そのうちに四武百貨店でコールガールがカタログ注文できるようになるかもしれないな、と僕は思った。
You can rely on me
ぼんやりとした春の空を眺めながら、僕は女と寝たいなと思った。そして出来ることならあの札幌のユミヨシさんと寝たかった。うん、そしてそれはけっして不可能なことではない。僕は自分が彼女のアパートのドアの隙間に靴を差し込んでーーあのうっとうしい刑事みたいにーー閉まらないようにしているところを想像した。そしてこう言うのだ。「君は僕と寝なくてはいけない。そうするべきなんだ」と。それから僕は彼女と寝るだろう。僕は優しく、ブレゼントのリボンをとくように彼女の服を脱がせる。コートを脱がせ、眼鏡を取り、セーターを脱がせる。服を脱がせるとそれはメイになった。「かっこう」とメイが言った。「私の体素敵だと思う?」
僕が答えようとする間もなく夜があけた。そして隣にはキキがいた。キキの背中を五反田君の指が優雅に這っていた。ドアが開いてユキが姿を見せた。そして彼女は僕とキキが抱き合っているところを目撃した。それは五反田君ではなくて僕だった。指は五反田君のものだった。でもキキと性交しているのは僕だった。「信じられない」とユキは言った。「本当に信じられない」
「そうじゃないんだ」と僕は言った。
「どうしたっていうのよ?」とキキが繰り返した。
白日夢。
ワイルドでごったがえして意味のない白日夢。
そうじゃないんだ、と僕は言った。僕が寝たい相手はユミヨシさんなんだ。でも駄目だった。混乱していた。繋がりがもつれているのだ。まずそのもつれを何とか解消しなければならない。そうしないことには僕は何も手に入れることができない。
僕は明治神宮を出て、原宿の裏通りにある美味いコーヒーを飲ませる店で熱くて濃いコーヒーを飲んだ。そしてのんびりと歩いて家に帰った。
夕方前に五反田君から電話があった。「ねえ、今あまり時間がないんだ」と五反田君は言った。「今夜君と会えるかな?八時か九時か、それくらいの時間に」
「会えるよ。まるで暇だから」と僕は言った。
「食事をして、酒を飲もう。迎えにいくよ」
僕は鞄を整理して旅行中の領収書を集め、牧村拓に請求するものと僕が自分で払うものとに分けた。食費の半分とレンタカーの料金は彼の方にまわしてもいいだろう。そしてユキの個人的な買い物(サーフボード、ラジオ・カセット、水着、エトセトラ)。僕はメモにその明細を書き、封筒に入れ、余ったトラベラーズ・チェックを銀行で現金化してそれと一緒にすぐに送れるように整理しておいた。僕はそういう事務処理がすごく手早くてきちんとしている。別に事務作業が好きなわけではない。そんなものが好きな人間なんていない。僕はただ金のことでごたごたするのが嫌なのだ。
精算を終えると、ホウレンソウを茹でてちりめんじゃこと混ぜ、軽く酢を振って、それをつまみにキリンの黒ビールを飲んだ。そして佐藤春夫の短編を久し振りにゆっくりと読みかえしてみた。何ということもなく気持ちの良い春の宵だった。タ暮れの青が透明な刷毛でかさね塗りされるみたいに一段また一段と濃くなり、夜の闇に変わっていった。本を読むのに疲れるとスターン・ローズ・イストミンの演奏するシューベルトの作品一OOのトリオを聴いた。僕はずっと昔から、春になるとこのレコードをよく聴いた。春の夜が含むある種の哀しみが、この曲のトーンに呼応しているように僕は感じていた。胸の中までが青い柔らかな闇に染められてしまいそうな、春の夜。そして目を閉じると、その闇の奥に白い人骨がぼんやりと浮かんだ。生は深い虚無の中に沈み、骨は記憶のように固く、僕の前にあった。
 

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