ダンス・ダンス・ダンス
翌日の朝、ユキは母親に会いに行くと言った。彼女は母親の住んでいる場所の電話番号しか知らなかったので、僕が電話をかけて簡単な挨拶をし、家に行く道順を聞いた。彼女はマカハの近くにコテージを借りて住んでいた。ポノルルから車で三十分くらいはかかると彼女は言った。たぶん一時すぎにはうかがえると思うと僕は言っておいた。それから僕は近くにあるレンタカーのオフィスに行って三菱ランサーを借りた。申しぶんなく快適なドライブだった。僕らはカーラジオを大きな音でかけ、窓を開けっぱなしにし、海岸沿いのハイウェイを時速百二十キロで飛ばした。あらゆる場所に光と潮風と花の香りが満ちていた。
お母さんは一人で暮らしているのか、と僕はふと気になって尋ねてみた。
「まさか」とユキは微かに唇を曲げて言った。「あの人が一人でそんなに長く外国でやっていけるわけがないわよ。本当に非現実的な人なんだから。あの人は誰か面倒をみてくれる人がいないと全然やっていけないの。賭けてもいいけどボーイフレンドが一緒よ。たぶんハンサムで若いボーイフレンド。パパと同じよ。ほら、パパのところにもいたでしょう、あのつるっとした気味の悪いゲイのボーイフレンドが?あの男きっと一日に三回くらいお風呂に入って、二回くらい下着換えてるわよ」
「ゲイ?」と僕は聞いた。
「知らなかったの?」
「いや、知らなかった」
「馬鹿みたい。見ればわかるじゃない」とユキは言った。「パパにその趣味があるかどうかはしらないけど、あれはとにかくゲイよ。完璧に。二○○パーセント」
ロキシー・ミュージックがかかるとユキはラジオのボリュームを上げた。
「ママはね、昔からずっと詩人が好きなの。詩人だか詩人志望だとかの若い男の子。現像したり何のかんのしているときに後ろで詩を朗読させるの。それが趣味なの。変な趣味。詩なら何でもいいのよ。宿命的に引かれるみたい。だからパパも詩を書ければよかったんだけどね。あの人はどう転んだって詩を書けるわけないし……」
不思議な家族だ、と僕はあらためて思った。宇宙家族。行動派作家と天才女流写真家と霊媒的少女とゲイの書生と詩人のボーイフレンド。やれやれ。僕はこのサイケ一アリックな拡大家族の中で一体どういう位置を占め、どういう役割を果たしているのだろう?調子はずれの娘の面倒を見る剽軽な男付き添い、というあたりだろうか。僕はフライデーが僕に見せた感じの良い微笑を思い出した。あれはひょっとしたら連帯の微笑だったのだろうか?おい、よしてくれよ、と僕は思った。これは一時的なことなんだよ。休憩時間なんだよ。わかるか?休暇が終わったら僕はまた雪かき仕事に戻らなくちゃならないし、そうすればもう君たちと遊んでいる暇なんてないんだ。これは本当に一時的なことなんだよ。本筋には関係のない挿話のようなものなんだ。すぐに終わる。そのあとは君たちは君たちだけでやればいい。
僕は僕でやっていく。僕はもっとシンプルでわかりやすい世界が好きなんだよ。
僕はアメの教えてくれたとおりにマカハの手前でハイウェイを右に折れ、山に向かってしばらく進んだ。今度大きな台風が来たら屋根が飛んでしまいそうなあぶなっかしい造りの家が道の両側にぼつぽつと並んでいたが、やがてそれも跡絶え、言われたとおり集合住宅地の門が見えてきた。門番小屋にはインド人のような顔つきの門番がいて、何処に行くのかと訊いた。僕はアメのコテージの番号を言った。彼は電話をかけ、そして僕に向かって肯いた。「いいよ、どうぞ」と彼は言った。
門の中に入るとよく手入れされた広い芝生が見渡す限り広がっていた。ゴルフ・カートのようなものに乗った庭師が何人か黙々と芝生と樹木の手入れをしていた。嘴の黄色い鳥の群れが芝生の上を虫のようにぴょんぴょんと跳ねていた。僕は庭師のひとりにユキの母親の住所を見せて場所を聞いた。あっち、と彼は言って簡単に指をさした。指の先にはプールと木立と芝生が見えた。黒々としたアスファルト道路がプールの裏手に向かって大きくカーブしていた。僕は彼に礼を言ってそのまま車を走らせた。坂を下り、また坂を上がったところにユキの母親のコテージがあった。トロピカル風にアレンジされたモダンな建物だった。玄関の前にベランダがあり、軒下で風鈴が揺れていた。まわりには名前のわからない果樹が茂って、名前のわからない実をつけていた。
僕は車を停め、ユキとふたりで階段を五段上って玄関のチャイム・ボタンを押した。風鈴が眠たげな微風に誘われるように時々小さな乾いた音を立て、開け放った窓から聞こえてくるヴィヴァルディの古楽と奇妙に心地よく混じりあっていた。十五秒ほどあとでドアが静かに開いて、男が姿を見せた。よく日焼けしたあまり背の高くない白人のアメリ人で、肩のところから左腕がなかった。体つきはがっしりとして、どことなく思慮深そうな趣のある口髭をはやしていた。色の褪せたアロハシャツにジョギングショーツをはき、ゴム草履をはいていた。歳は僕とだいたい同じくらいに見えた。ハンサムというほどではないが、感じの良い顔つきだった。詩人にしては少し外見がタフにすぎるかもしれない。でも世界にはタフな詩人だっているだろう。いたっておかしくない。世界は広いのだ。
彼は僕の顔を見て、ユキを見て、また僕を見て、顎をほんのちょっと傾け、そして微笑んだ。「へロー」と彼は静かな声で言った。それから「こんにちは」と日本語で言いなおした。そしてユキと握手し、僕と握手した。それほど強くない握手だった。「どうぞ、中に入って」と彼は綺麗な日本語で言った。
彼は広々としたリビング・ルームに僕らを通し、大きなソファに坐らせ、台所からプリモ・ビールを二本とコークを一本とグラスを三つ盆に載せて持ってきた。僕と彼はビールを飲み、ユキは飲み物には手もつけなかった。彼はそれから立ち上がってステレオ装置の前に行きヴィヴァルディのボリュームを小さくして戻ってきた。何となくサマセット・モームの小説に出てきそうな部屋だった。窓が大きくて、天井には扇風機がつき、壁には南洋の民芸品が飾ってあった。
「彼女は今、現像の最中なので、あと十分くらいで来ます」と彼は言った。「少しここで待っていてください。僕はディックと一言います。ディック・ノース。彼女とここに住んでいます」
「よろしく」と僕は言った。ユキは何も言わずに窓の外の景色を眺めていた。果樹の隙間から青く光る海が見えた。水平線の上には猿人の頭骨のような形をした雲がひとつだけぽつんと浮かんでいた。雲はびくりとも動かず、また動きそうな気配もなかった。それはどことなく頑迷そうな感じのする雲だった。漂白されたように真っ白で、輪郭はひどくはっきりしていた。嘴の黄色い鳥がさえずりながら時々その雲の前を飛び過ぎていった。ヴィヴァルディが終わるとディック・ノースはブレイヤーの針を上げ、片腕で器用にレコードを取ってレコードジャケットに入れ、それを棚に戻した。
「日本語が上手いですね」と僕は訊いてみた。他に話すことといっても特になかったからだ。
ディック・ノースは肯いて、片方の眉毛を動かし、目を閉じ、それから微笑んだ。「日本に長くいたんです」と彼は言った。ロを開くまでに時間がかかる。「十年いました。戦争でーーヴェトナムの戦争でーー初めて日本に行って、それで気に入って、戦争の後で日本の大学に入りました。上智大学です。今は詩を書いています」
やはり、と僕は思った。若くもないし、それほどハンサムでもないけれど、やはり詩人なんだ。
「それから日本の俳句や短歌や詩を英語に訳す仕事もしています」と彼は付け加えた。「難しい仕事です。とても」
「そうでしょうね」と僕は言った。
彼はにっこりと微笑んでもう一本ビールを飲まないかと僕に訊いた。飲む、と僕は言った。彼はまた二本ビールを持ってきた。片手で信じられないくらい優雅にプルリングを取り、それをグラスに注いで美味そうに一口飲んだ。それから彼はグラスをテーブルに置き、首を何度か振り、壁に貼ってあるウォーホールのポスターを点検するようにじっくりと眺めた。
「不思議な話ですが」と彼は言った。「世間には片腕の詩人というのがいないのです。どうしてでしょうね?片腕の画家もいますし、片腕のピアニストだっています。片腕のピッチャーだっていました。どうして片腕の詩人がいないんでしょうね?詩を書くのなんて腕が一本だろうが三本だろうが全然関係ないように思えるんですが」
たしかにまあそのとおりだ、と僕も思った。腕が何本だろうが、詩を書くのには別に関係ない。
「片腕の詩人を思いつけますか?」とディック・ノースは僕に訊いた。
僕は首を振った。でも正直言って僕は詩のことなんて殆ど知らないし、両腕揃った詩人だってろくに名前を思い出せないのだ。
「片腕のサーファーは何人かいます」と彼は続けた。「パドリングを足でやるんです。なかなか上手いもんです。僕も少しやりますが」
ユキは立ち上がって部屋の中をうろつき、レコード棚のレコードをぱらばらと見たが、彼女好みのものはなかったらしく、顔をしかめて馬鹿みたいという表情を浮かべた。音楽が消えるとあたりは眠りこんでしまいそうなくらい静かだった。ときどき芝刈り機のうううううんんんんという唸りが聞こえた。誰かが誰かを大声で呼んだ。風鈴がからからと小さな音で鳴った。鳥も啼いた。でも静けさは圧倒的だった。何か音がしてもそれはあっという間に痕跡ひとつ残さず静けさの中に吸い込まれてしまった。家の回りに何千人もの透明な沈黙男がいて、透明な無音掃除機でかたっぱしから音を吸い取っているような気がした。ちょっと音がするとみんなでそこに飛んでいって音を消してしまうのだ。
「静かなところですね」と僕は言った。
ディック・ノースは肯き、大事そうに自分の片方の手のひらを眺め、それからまた肯いた。「そうです。静けさです。これが一番大事なことです。とくに僕やアメのような仕事をする人間にはこういう静けさが必要なんです。hutsle-bustle
は苦手ですね。何と言ったかなーーそう、雑踏ね。賑やかなところ。駄目です。どうです?ホノルルはうるさいでしょう?」
僕はとくにホノルルがうるさいとも思わなかったけれど、話が長くなっても面倒なのでいちおうそれに同意しておいた。ユキは相変わらず「馬鹿みたい」という顔をして外の景色を眺めていた。
「カウアイは良いところです。静かで人も少ない。本当は僕はカウアイに住みたい。オアフは駄目だ。トゥーリスティックだし、車も多すぎるし、犯罪も多い。でもアメの仕事の関係でここにいるんです。週に二度か三度ホノルルの街に行かなくちゃならないんです。機材の関係です。いろいろと機材がいるんです。それからまあ、オアフにいるほうが連絡も楽だし、様々な人に会える。彼女は今はいろんな人を写しています。生活する人々を写しているんです。漁師や庭師や農夫やコックや道路工事の人、魚屋さん……何でも。優れた写真家です。彼女の写真には純粋な意味での才能が含まれています」
僕はアメの写真をそれほど熱心に見たことはなかったが、それにもいちおう同意しておいた。ユキはとても微妙な鼻の鳴らし方をした。
彼は僕にどのような仕事をしているのか、と質問した。
フリーランスのライターだ、と僕は答えた。
彼は僕の職業に興味を持ったようだった。たぶん従兄弟のまた従兄弟くらいの間柄の同業者だとでも思ったのだろう。どんなものを書いているのか、と彼は訊いた。
何でも、と僕は言った。注文があれば何でも書く。要するにそれは雪かきのようなものなのだ、と。
雪かき、と彼は言って、しばらく真剣な顔つきでそれについて考えていた。たぶん意味がよく理解できなかったのだろう。僕は雪かきについてもう少し詳しく説明しようかどうしようかと迷ったが、そのときちょうどアメがやってきたので、話はそこで終わってしまった。
アメは半袖のダンガリのシャツに、白いよれよれのショートパンツという格好だった。化粧もしていないし、髪は寝て起きたばかりとでもいうようにくしゃくしゃに乱れていた。それでも彼女は魅力的な女性だったし、僕が札幌のホテルの食堂で見掛けた時と全く同じような上品な傲慢さとでもいうべきものを漂わせていた。彼女が部屋に入ってくると、一瞬にして、彼女は他の誰とも違う存在なんだということを全員が実感するのだ。説明もなく、ショウ・オフもなく、一瞬にして。
彼女は何も言わずにまっすぐユキのところに行って、彼女の髪の中に指を入れてばさばさになるまでかきまわし、それからこめかみのあたりに鼻をこすりつけた。ユキはあまり面白そうな顔はしなかったが、それでも抵抗はしなかった。頭を二、三度振って髪をもとどおりまっすぐに戻しただけだった。そしてただクールに棚の花瓶を眺めていた。しかしそのクールさは父親と会っているときのあのどうしようもない無関心さとはまったく異なったものだった。彼女のちょっとした身のこなしに、ぎこちない感情の揺れのようなものがふとうかがえた。この母娘の間にはたしかに何かしらの心の交流はあるらしかった。
アメとユキ。たしかに馬鹿気てる、と僕は思った。本当にひどい名前をつける。牧村拓の言うようにまるで天気予報だ。もうひとり子供が生まれていたらいったいどんな名前をつけたんだろう?
アメとユキは一言も口をきかなかった。「元気?」もなく、「どうしてる?」もなかった。母親が娘の髪をくしゃくしゃにして、こめかみに鼻をくっつけただけだった。それからアメは僕のところに来て、隣に腰を下ろし、シャツのポケットからセイラムの箱を出して紙マッチで火をつけた。詩人はどこかから灰皿を持ってきて、それをテーブルの上に優雅にとんとんと置いた。あたかも妥当な場所に気のきいた装飾句を挿入するかのように。アメはそこにマッチを捨て、煙を吐き出し、洟をすすった。
「ごめんなさいね。仕事の手が離せなかったもんだから」とアメは言った。「途中で手が離せない性格なの。やりだすと駄目なの」
詩人はアメのためにビールとグラスを運んできた。そしてまた片手で器用にプルリングを取り、ビールをグラスに注いだ。彼女は泡が収まるのを見届けてから、それを一口で半分飲んだ。
「それで、あなた、いつまでハワイにいられるの?」とアメは僕に訊いた。
「わかりませんね」と僕は言った。「別に決めてないんです。でもたぶん一週間くらいでしょう。今は休暇中なんです。そのうちに日本に帰って仕事を始めなくてはなりませんし……」
「長くいるといいわよ。良いところよ」
「それはまあ良いところです」と僕は言った。やれやれ、僕の言うことなんて何も聞いてないのだ。
「食事はすんだ?」と彼女は訊いた。
「途中でサンドイッチを食べてきました」と僕は答えた。
「私たちはどうするのかしら、昼食は?」とアメは詩人に尋ねた。
「我々はたしか一時間前にスパゲッティを作って食べたと僕は記憶しているんだけどね」
詩人はゆっくりと静かな声で言った。「一時間前は十二時十五分だから、普通の人はそれを昼食と呼ぶだろうね、一般的に」
「そうかしら?」とぼんやりした顔でアメは言った。
「そうだよ」と詩人は言った。そして彼は僕の方を向いて微笑んだ。「彼女は仕事に夢中になるといろんな現実的なことを忘れてしまうんです。御飯を食べたかどうかとか、今まで何処で何をしていたかとか、そういうことをさっぱりと。頭の中が真っ白になっちゃうんです。強烈な集中力です」
それはどちらかといえば集中力というよりは精神病の領域に属する事例ではないのかと僕はふと思ったが、もちろんそんなことは口に出さなかった。僕はソファァ上で黙って礼儀正しく微笑んでいた。
アメはしばらくぼんやりとした目でビール・グラスを眺めていたが、やがて思い直したようにそれを手に取ってまた一口飲んだ。「ねえ、でも、それはそれとしておなか減ったわよ。だって私たち朝御飯だって食べなかったし」と彼女は言った。
「ねえ、僕は文句ばかりつけているような気がするけれど、正確に事実を述べるなら、君は朝の七時半に大きなトーストとグレープフルーツとヨーグルトを食べた」とディック・ノースは説明した。「そしてとても美味しかったと言ったよ。朝御飯が美味しいのは人生の大きな喜びのひとつだって」
「そうだったかしらね」とアメは言って鼻の脇を掻いた。そしてまたぼんやりとした目で宙を見ながらそれについて考えた。まるでヒッチコックの映画のシーンみたいだ、と僕は思った。だんだん何が真実かわからなくなってくる。何が正常で何が狂っているのか判断できなくなってくる。
「でもとにかくすごくおなかが減ったわ」とアメは言った。「別に食べたってかまわないんでしょう?」
「もちろんかまわないよ」と詩人は笑いながら言った。「それは君のおなかであって、僕のじゃない。君が食べたければ何だって好きなだけ食べればいい。食欲があるっていうのは良いことだよ。君はいつもそうだ。仕事が上手く行っていると、食欲も出てくる。サンドイッチでも作っであげよう」
「ありがとう。それとその時にビールをもう一本持ってきてくださる?」
「Certainly」と彼は言って台所に消えた。
「あなた、昼食はすんだ?」とアメはまた僕に訊いた。
「さっき途中でサンドイッチを食べてきました」と僕は繰り返した。
「ユキは?」
いらない、とユキは簡単に言った。
「ディックとは東京で会ったの」とアメはソファの上で足を組んで、僕の顔を見ながら言った。でも彼女はそれをユキに向かって説明しているように思えた。「それで、彼がカトマンズ行きを勧めてくれたの。あそこはインスピレーションをかきたててくれるって。カトマンズ、良いところだったわ。ディックはヴェトナムで片腕なくしたの。地雷で。バウンシング・ベティーっていうやつ。足で踏むとびょんと飛び上がって空中で爆発するやつ。どかん。隣の人が踏んで、彼が腕なくしたの。彼は詩人よ。日本語うまいでしょう?私たちカトマンズにしばらくいて、それからハワイに来たの。しばらくカトマンズにいたら暑いところに行きたくなったから。それでディックがここに家を見つけてくれたの。ここは彼の友達のコテージなの。客用のバスルームを暗室にしてね。うん、良いところよ」
それだけ言うと、言うべきことは全部言ったとでも言わんばかりに彼女は大きく息をして、背筋を伸ばした。そしてそのまま黙り込んだ。午後の沈黙は深く、窓の外には強い光の粒子が塵のようにちらちらと漂って、好き勝手な方向にゆっくりと移動していた。猿人の頭骨のような白い雲はまだ前と同じ格好で地平線の上に浮かんでいた。それは相変わらず頑迷そうに見えた。アメが灰皿に置いたセイラムは殆ど手も触れられないままに灰皿の中で燃えつきていた。
ディック・ノースはどうやって片腕でサンドイッチを作るんだろう、と僕は考えた。パンをどうやって切るんだろう?右手でナイフを持つ。これはまあ当然だ。じゃあ、パンはどういう風に押さえるんだろう?足か何かを使うんだろうか?僕にはわからなかった。あるいは上手く韻を踏むとパンが勝手に切れてくれるんだろうか?それにしてもどうして彼は義手をつけないんだろう?
少しあとで詩人は皿にとても上品に並べられたサンドイッチを持って現れた。きゅうりとハムのサンドイッチで、イギリス風に小さく切り揃えられ、オリーブまでついていた。とても美味しそうだった。どうしてこんなに上手く切れるんだろう、と僕は感心した。それから彼はビールを開け、グラスに注いだ。
「ありがとうディック」とアメは言った。そして僕の方を向いた。「彼はとても料理が上手いの」
「片腕の詩人を対象にした料理コンクールがあれば僕は絶対に一位になるね」と詩人は片目をつぶって僕に言った。
アメは僕にひとつ食ベてごらんなさいよ、と言った。僕はひとつつまんでみた。とても美味いサンドイプチだった。どことなく詩的な趣があった。たしかに材料が新鮮で、扱いかたが洗練されていて、音韻は正確だった。美味しい、と僕は言った。でもどういう風にパンを切るのかだけはどうしてもわからなかった。訊いてみたかったが、もちろんそんなこと訊くわけにはいかない。
ディック・ノースはこまめな人物であるらしかった。彼はアメがそのサンドイッチを食べているあいだに、また台所に行ってみんなのためにコーヒーを作ってくれた。とても美味しいコーヒーだった。
「ねえ、あなた」とアメは僕に言った。「あなた、ユキと二人でいて何ともない?」
僕はその質問の意味がまったく理解できなかった。何ともないというのはどういうことなのか、と僕は質問してみた。
「もちろん音楽のことよ。あのロック音楽。あなたあれ苦痛じゃない?」
「別に苦痛でもないですけれど」と僕は言った。
「あれを聞かされてると、私、頭が痛くなってくるのよ。三十秒も我慢できない。どうしても。ユキといるのはいいんだけれど、あの音楽だけは駄目」と彼女は言って、ひとさし指の先でこめかみをぐいぐいと押した。「私が聞ける音楽というのはすごく限られてるの。バロック音楽とか、ある種のジャズとか。民族音楽とか。心を落ち着けてくれる音楽。そういうのって好きよ。詩も好き。調和と静けさ」
彼女はまた煙草を取り出して火をつけ、一口吸って灰皿に置いた。たぶんそのまま煙草のことを忘れてしまうんだろうと僕は想像したが、事実そのとおりになった。よくこれまで火事を起こさなかったもんだと僕は感心した。牧村拓が彼女と暮らしたことで人生と才能を磨り減らしたと言ったことも、今では理解できるような気がした。彼女はまわりの人に何かを与えるというタイプではなかった。それとはまったく逆だ。自分自身の存在を調整するために、まわりからちょっとずつ何かを取っていくタイプだった。でも人々は彼女に何かを与えないわけにはいかないのだ。何故なら彼女は才能という強力な吸引力を有しているからだ。そして彼女はそうすることを自分の当然の権利だと思っているからだ。調和と静けさ。彼女がそれを得るために人々はみんな脚やら腕やらを彼女に差し出しているのだ。
でも僕は関係ないんだ、と僕は叫びたかった。僕がここにいるのは、今僕がたまたま休暇中だからなのだ。それだけのことなのだ。休暇が終われば僕はまた雪かき仕事に戻る。こういう奇妙な状況はもうすぐごく自然に終わってしまうのだ。だいいち、僕は彼女の輝かしい才能に対して差し出すものなど何も持ち合わせてはいないのだ。もし持ち合わせていたとしても、僕は自分の為にそれを使わなくてはならないのだ。僕はちょっとした運命の流れの乱れによってここにーーこのわけのわからない奇妙な場所にーー一時的に押しやられているだけなのだ。できることなら、僕は大声でそう言いたかった。でもたぶん誰も僕の言うことになんて耳も傾けないだろう。この拡大家族の中では僕はまだ声もなき二級市民なのだ。
雲はまだ同じ形のまま水平線のちょっと上に浮かんでいた。そこに船を浮かべて竿を伸ばしたら届きそうなくらいだった。巨大な猿人の巨大な頭骨。何処かの歴史の断層からこのホノルルの上空にこぼれ落ちてきたのだ。僕らはたぶん同類だよ、と僕は雲に向かって言ってみた。
アメはサンドイッチを食ベてしまうとまたユキのところに行って、髪の中に指をいれてゆっくりと動かしたユキは無表情にテーブルの上のコーヒー・カッブを見つめていた。「素敵な髪」とアメは言った。「こういう髪が私もほしかったな。いつもつやつやして、真っ直ぐで。私の髪はすぐくしゃくしゃになっちゃうの。手がつけられないの。ねえ、そうでしょう、お姫様?」そして彼女はまたユキのこめかみに鼻先を押しつけた。
ディック・ノースは空のビール缶と皿を下げた。そしてモーツァルトの室内音楽をかけた。「ビールはどうですか?」と彼は僕に尋ねた。もういらない、と僕は言った。
「ねえ、私ここでユキと二人で家庭的な話をしたいんだけど」とアメがぴりっとした声で言った。「家庭内の話。母親と娘の話。だからディック、彼を海岸に案内してあげたらどうかしら?そうねえ、一時間くらい」
「いいとも。もちろん」と詩人は言って席を立った。僕も立ち上がった。詩人はアメの額に軽くくちづけし、白いキャンバス地の帽子をかぶり、緑色のレイバンをかけた。「我々は一時間ほど散歩してくる。ゆっくりと君たち二人で話をしてればいいよ」そして彼は僕の肘をとって「さあ、行きましょう。素敵なビーチがあるんです」と言った。
ユキは肩を小さくすぼめるようにして、無表情な目で僕を見上げていた。アメは三本目のセイラムを箱からひっぱりだした。彼女たちを後に残して僕と片腕の詩人はドアを聞けてむせかえるような午後の光の中に出ていった。
僕がランサーを運転して海岸まで行った。義手をつければ運転は簡単なのだが、なるべくならつけたくないのだと彼は言った。
「自然じゃないんです」と彼は説明した。「あれをつけるとどうも落ち着かない。便利にはちがいないが、違和感があるんです。自分じゃないみたいだ。だからなるべく腕一本の生活に自分を馴らすようにしているんです。少し足りないにせよ、自前の体だけでやっていけるように」
「パンはどうやって切るんですか?」と僕は思いきって訊いてみた。
「パン」としばらく彼は考えていた。何のことかよくわからないといった様子だった。それからやっと質問の趣旨を理解した。「ああ、パンを切るときね。なるほど、当然な質問ですね。普通の人にはわからないでしょう。でも簡単です。片手で切るんです。普通にナイフを持つとそりゃ切れません。持ち方にコツがあるんです。指で押さえながら刃を持ってですね、こうとんとんと切るんです」
彼はそれを手真似で実演して見せてくれたが、そんなことが実際にできるとは僕にはどうも納得できなかった。それにパンは普通の人間が両手を使って切るよりずっと上品に切れていたのだ。
「でもちゃんとできるんですよ」と彼は僕の顔を見て微笑みながら言った。
「大抵のことは片手で間に合うんです。拍手するのは駄目ですが、腕立て伏せだって、鉄棒だってできるんです。訓練です。あなたどう思いました?どうやってパンを切ると思いましたか」
「足か何か使うんじゃないかと思ったけど…」
彼は楽しそうに声をあげて笑づた。「面白い」と彼は言った。「詩にしたいですね。足をつかってサンドイッチを作る片腕の詩人についての詩。面白い詩になる」
僕はそれに対してはとくに反対も賛成もしなかった。
僕らは海岸沿いのハイウェイをしばらく進んだところで車を停めて冷えたビールを六本買い(彼が無理に金を払った)、少し離れたあまり人気のないビーチまで歩き、そこに寝転んでビールを飲んだ。あまりに暑いせいで、どれだけビールを飲んでも酔わなかった。あまりハワイらしくないビーチだった。背の低い不格好な樹木が茂り、砂浜も均一ではなくて、どことなくごつごつしていた。でもまあ少なくともトゥーリスティックではなかった。付近にはピックアッブ・トラックが何台か停まって、家族づれが水遊びをしていた。沖合いではロコが十人ぽどサーフィンをやっていた。頭骨雲はまだ同じところに同じ形でぽっかりと浮かび、鴎の群れが洗濯機の渦みたいにぐるぐると空を舞っていた。僕らはぼんやりとそんな風景を眺め、ビールを飲み、ぽつぽつと話をした。ディック・ノースは自分がどれほどアメに対して敬意を抱いているかということを語った。彼女は真の意味での芸術家だと彼は言った。アメの話になると、彼は自然に日本語からゆっくりとした英語に切り換えた。日本語では上手く感情が表現できないのだ。
「彼女に会ってから僕の中での詩に対する考え方自体が変わりました。彼女の写真は何というか、詩というものを裸にしてしまうんです。僕らが言葉を選びに選んで、身を切るようにして紡いだものが、彼女の写真においては一瞬にして具現されているんです。具現(エンバディメント)。彼女は空気の中から、光の中から、時間の隙間からそれをさっとつかみとり、人間のいちばん深い部分にある心的情景をエンバディーズするんです。僕の言ってることわかります?」
だいたい、と僕は言った。
「彼女の写真を見ていると、時々怖くなることがあります。自分の存在が危うくなるような気がすることもあります。それほどに圧倒的なのです。あの、dissilientっていう言葉知ってます?」
知らない、と僕は言った。
「日本語でなんというのかな、ぽんと何かが割れて弾けるような感じ。何の予感もなく突然世界が弾けて割れるんです。時間や光やそういうものがdissilientするんです。一瞬にして。天才です。僕とも違うし、あなたとも違う。失礼、ごめんなさい、僕はあなたのことをまだよく知らない」
僕は首を振った。「大丈夫、あなたの言ってることはよくわかります」
「天才というのは非常に稀な存在です。一流の才能というのはどこにでもあるというものではありません。それに巡り合えるというのは、それを目の前に見られるというのは、幸運というべきでしょうね。しかしーー」と彼は言って少し黙りこみ、それから両手を広げるような具合に右手を外側に差し出した。「それはある意味では手痛い体験でもある。それはあるときには僕のエゴを針のように刺す」
僕は彼の話に聞くともなく耳を傾けながら水平線とその上の雲を眺めていた。このあたりのビーチの波は荒く、それは波打ち際に激しくたたきつけるように砕けた。僕は熱い砂の中に指を入れ、それを握りしめ、さらさらと下に落とした。それを何度も何度も繰り返していた。サーファーたちは波を待ってそれを捉え、波打ち際まで来るとまたパドリングして沖に戻っていった。
「でも僕はそれ以上にーー僕のエゴうんぬんという以上にーー彼女の才能に引き付けられていますし、また彼女を愛している」と彼は言った。そして指をぱちんと鳴らした。「まるで大きな渦に引き寄せられるように。ねえ、僕には妻がいるんです。日本人です。子供もいます。妻のことだって愛してる。本当に愛してるんです。今でも。でもアメに最初に会った時、彼女にどうしようもなく引き寄せられたんです。渦のようにです。抵抗のしようもなかったんです。僕にはわかったんです。これは一生に一度のことなんだって。こういう巡り合いというのは一生に一度しかないことなんだって。そういうのってね、わかるんですよ、ちゃんと。で、僕は思いました。この人と一緒になったらたぶん僕はいつか後悔することになるだろう。でも一緒にならなかったら、僕の存在そのものが意味を失うことになるって。あなたはこれまでに、そういう風に思ったことあります?」
ないと思う、と僕は言った。
「不思議なものです」とディック・ノースは続けた。「僕はとても苦労して静かな安定した生活を手に入れた。妻と子供と小さな家、それから仕事。大した収入にはなりませんが、やりがいのある仕事です。詩を書いて、翻訳もやりました。僕としては上出来な人生だと思っていました。僕は戦争で腕を一本失ったけれど、でもそれを充分補ってあまりある人生だと思っていました。それを手に入れるのにずいぶん時間がかかりました。努力もしました。心の平穏。手にいれるのが大変に難しいものです。僕はそれを手に入れた。でもーー」と彼は言って手のひらを宙に上げてすっと水平に動かした。「失うのは一瞬のことです。あっというまです。僕にはもう帰る場所もない。日本の家にも帰れない。アメリカにも帰る場所はありません。僕は余りにも長く国を離れすぎた」
僕は何か言って彼を慰めてやりたかったが、言うべきことばも思いつかなかった。僕はただ砂をつかみ、さらさらと下に落としていた。ディック・ノースは立ち上がって、五、六メートルほど離れたところにあるぼそぼそと茂った木立ちまで行って小便して、またゆっくり歩いて戻ってきた。
「打ち明け話」と彼は言って笑った。「でも誰かに喋りたかった。どう思います?」
どう思うと言われても、僕にも何とも言いようがなかった。我々はどちらももう三十を過ぎた大人なのだ。誰と寝るかくらい自分で選ぶしかないし、渦だろうが竜巻だろうが砂嵐だろうが自分が選んだからにはなんとかそれでやっていくしかないのだ。僕はこのディック・ノースという男からどことなく良い印象を受けた。彼が様々な難事を片手でやってのけていることに対して敬意さえ抱いた。しかしいったいそんな質問に何と答えればいいのだろう?
「まずだいいちに、僕は芸術的な人間じゃない」と僕は言った。「だからそういう芸術的にインスパイアされた関係というのはよくわからない。僕の想像を越えてる」
彼は少し哀しそうな顔をして海を見ていた。彼は何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
僕は目を閉じた。最初はちょっとだけ目を閉じているつもりだったのだが、ぐっすり眠りこんでしまったようだった。たぶんビールのせいだろう。目が覚めると木の影が移動して僕の顔の上にかかっていた。暑さで頭が少しふらふらした。時計の針は二時半を指していた。僕は頭を振って体を起こした。ディック・ノースは波打ち際で何処かの犬と遊んでいた。彼を傷つけていなければいいんだけれど、と僕は思った。僕は話の途中で彼を放り出したまま眠ってしまったのだ。それも彼にとっては大事な話だったのだ。
でもいったいなんて言えばよかったんだ?
僕はまた手で砂をすくいながら、大と遊んでいる彼の姿を眺めていた。詩人は犬の頭を抱え込むようにして抱いていた。波は音を立てて砕け、そして勢い良く退いていった。白い細いしぶきが眩しく光っていた。僕は冷たすぎるんだろうか、と僕は思った。僕には彼の気持ちが理解できないではなかった。腕が一本しかないにせよ二本揃っているにせよ、詩人であるにせよ非詩人であるにせよ、ここはタフでハードな世界なのだ。僕らはみんなそれぞれに問題を抱えて生きている。でも我々はもう大人なのだ。我々はもうここまで来てしまった
のだ。少なくとも初対面の相手に答えることの困難な質問をするべきじゃないのだ。それは基本的な礼儀の問題なのだ。冷たすぎる、僕は思った。そして何も解決しないのだけれど。
僕らはランサーでコテージに戻った。ディックがチャイムを押すとユキが面白くもなんともないという顔でドアを開けた。アメは煙草をくわえてソファの上であぐらをかき、禅でもやっているような目付きでじっと宙を見ていた。ディプク・ノースは彼女のところに行ってまた額にくちづけした。
「話は済んだ?」と彼は訊いた。
「んんん」と彼女は煙草をくわえたまま言った。肯定の返事だった。
「僕らはビーチでのんびりと世界の端っこを見ながら気持ち良く日光浴していた」とディック・ノースは言った。
「そろそろ帰る」とユキがすごく平面的な声で僕に言った。
僕も同感だった。そろそろうるさくて現実的でトゥーリスティックなホノルルに戻りたかった。
アメは椅子から立ちあがった。「また遊びに来て。あなたに会いたいから」と彼女は言った。そして娘のところに行ってその頬に手をあて、そっと撫でた。
僕はディック・ノースにビールやら何やらの礼を言った。彼はにっこりと微笑んで、どういたしましてと言った。
僕がランサーの助手席にユキを乗せたところで、アメが僕の肘をとって引き寄せた。「ねえ、ちょっとお話があるの」と彼女は言った。僕らはふたりで並んで少し先にある小さな公園のようなところまで歩いた。公園の中には簡単な作りのジャングル・ジムがあって、彼女はそこにもたれかかって煙草をくわえた。それから面倒臭そうにマッチを擦って煙草に火をつけた。
「あなた良い人よね、それわかるの」と彼女は言った。「だからあなたにお願いがあるの。あの子をなるべくここに連れてきて。私、あの子のこと好きなのよ。あの子に会いたいのよ。わかる?会って話をしたいの。そして友達になりたいの。私たち良い友達になれると思うのよ。親とか娘だとかいう以前にね。だからここにいる間に少しでも沢山二人で話をしたいの」
アメはそう言うとしばらくじっと僕の顔を見ていた。
僕は言うべきことを何ひとつとして思いつけなかった。でも何か言わないわけにはいかなかった。
「それはあなたと彼女のあいだの問題です」と僕は言った。
「もちろん」と彼女は言った。
「だから彼女があなたに会いたいということであれば、もちろん連れてきます」と僕は言った。「あるいはあなたが親として彼女を連れてこいというんであれば、それはやはり連れて来ます。どちらかです。それ以外には僕には何も言えない。友達というのは第三者の介在を必要としない自発的なものです。僕の記憶に間違いがなければ」
アメはそれについて少し考えていた。
「あなたは彼女と友達になりたいと言う。それは良いことです。もちろん。でもいいですか、あなたは彼女にとって友達である前にまず母親なんです」と僕は言った。「好むと好まざるとにかかわらず、そうなってるんです。そして彼女はまだ十三なんです。そしてまだ母親というものを必要としている。暗くて辛い夜に無条件で抱き締めてくれるような存在を必要としているんです。ねえいいですか、僕はまったくの他人だからこんなことを言うのは見当違かもしれない。でもね、彼女に必要なのは中途半端な友達じゃなくて、まず自分を全的に受け入れてくれる世界なんです。まずそこをはっきりさせなくちゃならない」
「あなたにはわかってないのよ」とアメは言った。
「そのとおりです。僕にはわかってない」と僕は言った。「でもいいですか、彼女はまだ子供だし、傷ついている。誰かが守ってやらなくちゃならないんです。手間のかかることだけれど、誰かがやらなくちゃならない。それは責任なんです。わかりますか?」
でももちろん彼女にはわからなかった。
「毎日連れてきてくれと言ってるわけじゃないのよ」と彼女は言った。「あの子が来てもいいという時に連れてきてくれればそれでいいの。私の方からもちょくちょく電話はしてみるから。ねえ、私ね、あの子を失いたくないのよ。このままだとだんだんあの子が大きくなって私から離れていくような気がするのよ。私が欲しいのは精神的な繋がりなのよ。絆。私は良い母親じゃなかったかもしれないわ。でも母親である前に、私にはやることがいっぱいあったのよ。それはどうしようもないことだったのよ。それはあの子にだってわかるはずよ。だからね、私が求めてるのは母親とか娘とかいう以上の関係なの。言うなれば血の繋がった友達」
僕は溜め息をついた。そして首を振った。首を振ってどうなるというものでもないのだけど。
帰りの車の中で僕らは黙ってラジオの音楽を聴いていた。時々僕は小さく口笛を吹いたけれど、それを別にすればただただ沈黙が続いた。ユキは顔を背けるようにしてじっと外を見ていたし、僕の方にもとくに言うべきことはなかった。十五分ばかり僕はそのまま運転を続けた。でもささやかな予感がした。頭の中を音のない弾丸のように素早くさっとその予感がよぎった。予感には小さな字で「車を何処かで停めたほうがいい」と書いてあったような気がした。
僕はその予感に従って目についたビーチの駐車場に車を停めて、ユキに気分が悪いんじゃないかと訊いてみた。「何ともない?大丈夫?何か飲む?」ユキはしばらく黙っていた。暗示的な沈黙だった。僕はそれ以上何も言わずにその暗示の行く先を見守っていた。歳を取ると暗示の暗示性というものが少しは理解できるようになる。そしてその暗示性が現実の形を取るまでじっと待つことを覚えるようになる。ペンキが乾くのを待つのと同じように。
同じような形の黒い小さな水着をつけた女の子が二人並んで、椰子の木の下をゆっくりと歩いて行った。塀の上を歩く猫のような足の運び方だった。彼女たちは裸足で、水着は小さなハンカチをいくつか結びあわせたみたいなワイルドな代物だった。強い風が吹いたら飛ばされてしまいそうに見える。二人は抑圧された夢みたいに妙にリアルな非現実性を漂わせながら、僕の視界を右から左へとゆっくりと横断して消えていった。
ブルース・スブリングスティーンが『ハングリー・八ート』を歌った。良い歌だ。世界もまだ捨てたものではない。ディスクジョッキーもこれは良い歌だと言った。僕は軽く爪を噛み、空を眺めていた。例の頭骨雲はまるで宿命のようにそこにあった。ハワイ、と僕は思った。世界の果てみたいだ。母親が娘と友達になりたいと思っている。娘は友達よりは母親を求めている。すれちがいだ。何処にも行けない。母親にはボーイフレンドがいる。戻る場所のない片腕の詩人だ。父親にもボーイフレンドがいる。ゲイの書生のフライデー。何処に
もいけない。
十分ほどあとで、ユキは僕の肩に顔をつけて泣き始めた。最初は静かに、それから声を出して泣き始めた。彼女は両手を自分の膝の上にきちんと揃えて置き、僕の肩に鼻先をつけて泣いた。当たり前だよ、と僕は思った。僕だって君の立場だったら泣く。当たり前のことだ。僕は彼女の肩を抱いて泣きたいだけ泣かせた。僕のシャツの袖はやがてぐっしょりと濡れた。ずいぶん長いあいだ彼女は泣き続けていた。肩を激しく揺らせて彼女は泣いた。僕は黙ってじっと彼女の肩を押さえていた。
サングラスをかけて、回転拳銃を光らせた二人組の警官が駐車場を横切っていった。ドイツシェパードが辛そうに舌を出しながらあたりを徘徊し、どこかに消えた。椰子の葉がさらさらと揺れた。フォードのピックアップ・トラックが近くに停まって、大柄のサモアンがそこから下り、綺麗な女の子を連れてビーチを歩いて行ってしまった。ラジオではJ・ガイルズ・バンドが懐かしい『ダンス天国』を歌っていた。
ひとしきり泣いてしまうと彼女は落ち着いたようだった。
「ねえ、私のこと二度とお姫様って呼ばないでね」とユキは僕の肩に顔をつけたまま言った。
「呼んだっけ?」と僕は訊いた。
「呼んだわよ」
「覚えてない」
「辻堂から帰った時よ。あの夜」と彼女は言った。「とにかく二度と呼ばないで」
「呼ばない」と僕は言った。「ちゃんと約束するよ。ボーイ・ジョージとデュラン・デュランに誓って約束する。二度と呼ばない」
「いつもママがそう呼んでいたの。私のことを。お姫様って」
「呼ばないよ」と僕は言った。
「あの人、いつもいつも私のことを傷つけるのよ。でもあの人、そのこと全然わかってないのよ。そして私のことを好きなのよ。そうでしょう?」
「そのとおりだよ」
「私どうすればいいの?」
「成長するしかない」
「したくない」
「するしかないんだ」と僕は一言った。「いやでもみんな成長するんだよ。そして問題を抱えたまま年を取ってみんないやでも死んでいくんだ。昔からずっとそうだったし、これからもずっとそうなんだ。君だけが問題を抱えているわけじゃない」
彼女は涙の筋のついた顔を上げて僕を見た。
「ねえ、あなた人を慰めることってできないの?」
「慰めてるつもりなんだけど」と僕は言った。
「絶対にずれてるわよ」と彼女は言った。そして僕の手を肩からどかせ、バ ッグからティッシュ・ベーパーを出して洟をかんだ。
「さて」と僕は現実的な声で言った。そして車を駐車場から出した。「家に帰ってひと泳ぎして、それから美味しい御飯を作って仲良く食べよう」
僕らは一時間ほど泳いだ。ユキはなかなか泳ぎが上手かった。沖の方まで泳いだり、潜って足をひっぱりあったりして遊んだ。それからシャワーを浴びてスーパーに買い物に行き、ステーキ肉と野菜を買った。そして玉葱と醤油をつかってさっぱりとしたステーキを焼き、野菜サラダを作った。豆腐と葱の味噌汁も作った。気持ちの良い夕食だった。僕はカリフォルニア・ワインを飲み、ユキもグラスに半分ほどそれを飲んだ。
「あなた料理が上手いのね」とユキが感心して言った。
「上手いんじゃない。ただ愛情をこめて丁寧に作っているだけだよ。それだけでずいぶん違うものなんだ。姿勢の問題だよ。様々な物事を愛そうと努めれば、ある程度までは愛せる。気持ち良く生きていこうと努めれば、ある程度までは気持ち良く生きていける」
「でもそれ以上は駄目なのね?」
「それ以上のことは運だ」と僕は言った。
「あなたってわりに人のこと落ち込ませるのね。ちゃんとした大人のくせに」とユキはあきれたように言った。
二人で皿を洗ってかたづけてから、僕らは外に出て灯のともり始めたにぎやかなカラカウア通りをぶらぶらと散歩した。どことなくピントがずれた様々な種類の店をのぞいて品物を批評し、道を行く人々の姿を眺め、混みあったロイヤル・ハワイアン・ホテルのビーチバーで休んだ。僕はまたピナ・コラーダを飲み、彼女はフルーツ・ジュースを飲んだ。そしてディック・ノースはこういうがやがやとした夜の街が大嫌いなんだろうなと想像した。僕はそれほど嫌いじゃない。
「ねえ、ママのことをどう思った?」とユキが僕に訊いた。
「初対面の人のことは僕には正直言ってよくわからない」と僕はしばらく考えてから言った。
「考えをまとめたり、判断したりするのに割に時間がかかるんだよ。頭がよくないから」
「でもあなたちょっと怒ってたでしょ?違う?」
「そう?」
「うん。顔を見ればわかる」とユキは言った。
「そうかもしれない」と僕は認めた。そして夜の海を眺めながらビナ・コラーダを一口すすった。「そう言われれば、ちょっと怒っていたかもしれない」
「何に対して?」
「君に対して責任を取るべき人間が誰一人として真剣に責任を取っていないことに対して。でも無駄なことだな。僕には怒る資格なんかないし、僕が怒ったって何の役にも立たないもの」
ユキは皿のプリッツェルを取ってぽりぽりと齧った。「きっとみんなどうしていいかわからないのよ。何かやらなくちゃとは思ってるんだけど、どうすればいいかがわかんないのね」
「たぶんそうなんだろうね。誰にもわかってないみたいだ」
「あなたにはわかってるの?」
「暗示性が具体的な形をとるのをじっと待って、それから対処すればいいんだと思う。要するに」
ユキはTシャッの襟もとを指でいじりながらそれについて考えていた。でもよくわからないようだった。「それ、どういうこと?」
「待てばいいということだよ」と僕は説明した。「ゆっくりとしかるべき時が来るのをまてばいいんだ。何かを無理に変えようとせずに、物事が流れていく方向を見ればいいんだ。そして公平な目で物を見ようと努めればいいんだ。そうすればどうすればいいのかが自然に理解できる。でもみんな忙しすぎる。才能がありすぎて、やるべきことが多すぎる。公平さについて真剣に考えるには自分に対する興味が大きすぎる」
ユキはテーブルの上で頬杖をついた。そしてピンク色のテーブル・クロスの上に落ちたブリッツェルのかけらを手で払った。隣のテーブルにはそろいの柄のアロハとムームーを着たアメリカ人の老夫婦が座って二人で巨大なグラスに入った派手なトロピカル・カクテルを飲んでいた。彼らはとても幸せそうに見えた。ホテルの中庭では同じような柄のムームーを着た女の子が電気ピアノを弾きながら『ソング・フォー・ユー』を歌っていた。あまり上手くはなかったが、『ソング・フォー・ユー』であることはたしかだった。庭のところどころでは松明をかたどったガスの炎がゆらめいていた。歌が終わると二、三人がぱらぱらと手を叩いた。ユキは僕のピナ・コラーダを取って一口飲んだ。
「おいしい」と彼女は言った。
「動議支持」と僕は言った。「おいしいに二票」
ユキはしばらくあきれたような顔をして僕をまじまじと見ていた。「あなたっていったいどういう人なのか、私にはよく理解できないわ。すごくまともで正常な人のようにも見えるし、とことん根本的にずれているようにも見えるし」
「すごく正常であるということは同時にずれているということでもあるんだ。だからそれはとくに気にしなくていいんだ」と僕は説明した。そしておそろしく愛想の良いウェイトレスにピナ・コラーダのおかわりを注文した。彼女は腰を振りながら迅速に飲み物を運んできて、伝票にサインし、チェシャ猫みたいな幅の広い微笑を残して去っていった。
「それで、私はいったいどうすればいいのかしら?」とユキが言った。
「お母さんは君に会いたがっている」と僕は言った。「細かいことは僕にもよくわからない。他人の家庭のことだし、いささかユニークな人物だからね。でも一言で言うなら、これまでに様々な軋礫を生み出してきた母と娘という関係を越えて、君と友達になりたがっている」
「人と人が友達になるというのはすごく難しいことだと思うわ」
「賛成」と僕は言った。「難しい二票」
ユキはテーブルに肘をついてぼんやりとした目で僕の顔を見た。
「あなたはそれについてどう思うの?そういうママの考え方について」
「僕がそれについてどう思うかというのは全然問題じゃない。君がどう思うかというのが問題なんだ。言うまでもないことだけれど。『それはいささか虫がよすぎる』という考え方もあるだろう。『考慮に値する建設的な姿勢だ』という考え方もあるだろう。そのどちらを取るかは君次第だ。何も急ぐことはないよ。ゆっくり考えて、それで結論を出せばいい」
ユキは頬杖をついたまま肯いた。カウンターで誰かが大きな声で笑っていた。ピアノ弾きの女の子が戻ってきて、『ブルー・ハワイ』の弾き語りを始めた。「夜は始まったばかり、僕らは若い。さあおいで、月が海の上に浮かんでいるうちに」
「私たち、かなりひどい状態だったのよ」とユキは言った。「札幌に行く前なんて、そりゃひどいものだったわ。学校に行く行かないのことでもめにもめて、すごく険悪だったの。殆ど口もきかなかったし、顔だってろくに合わせなかったし。そういうのがずっと続いてたの。あの人はきちんとものを考えるということができない人なの。その場の思いつきで何か言って、そのまま忘れちゃうの。言ってるときは本気なんだけど、何も覚えてないの。そのくせときどき気まぐれで母親としての役割に目覚めるの。私はそういうのがすごく頭に来るのよ」
「でも」と僕は言った。接続詞的存在。
「でもね、うん、あの人には確かに何かしら普通ではない優れたものがあるのよ。母親としては無茶苦茶で最悪だし、私はそれでずいぶん傷つきもしたんだけど、それはそれとして、どことなく、わけはわからないけどひきつけられるところはあるの。そこはパパとは全然違うのよ。よくわからないけど。でもね、今急に友達になりましょうと言われても、あの人と私とでは力が違いすぎるのよ。私はまだ子供だし、あの人は強い力を持った大人なのよ。誰が考えたってそれくらいわかるでしょう?それがママには全然わかってないの。だからママが私と友だちになろうとしても、本人は一所懸命努力しているつもりでも、ママは知らないうちに私をどんどん傷つけているのよ。たとえば札幌のことだってそうよ。ママはある時は私の方に歩み寄ろうとする。だから私もママの方に近づこうとする。私も努力するのよ、ちゃんと。でもそうするとママはもうどこか別のところを向いてしまっているの。もう別のことで頭がいっぱいになって私のことを忘れてるの。全部気まぐれな思いつきなの」ユキはそう言って、半分かじったブリッツェルを指で砂の上にはじきとばした。「私を一緒に札幌に連れていったの。でも結局はあの調子なんだもの。私を連れてきたことなんか忘れてふらっとカトマンズに行っちゃうわけ。そして自分が私を置きざりにしたことに三日も気がつかないのよ。いくらなんでも無茶古茶じゃない。そしてそのことで私がどれほど傷ついたかというのもよく理解できないの。私はママのことが好きよ。たぶん、好きだと思う。友だちになれたら良いだろうなと思う。でももう二度とあんな風に振り回されたくないの。思いつきであっちにやられたり、こっちにやられたりしたくないの。そういうのはもう嫌なの」
「君の言ってることは全部正しい」と僕は言った。「論旨も明確だ。とてもよく理解できる」
「でもママにはわかってないの。そういうことをきちんと説明しても、きっと何のことだか全然理解できないと思うわ」
「そういう気もする」
「だから苛立つの」
「それもよく理解できる」と僕は言った。「そういう時、我々大人は酒を飲むんだ」
ユキは僕のピナ・コラーダをごくごくと半分くらい飲んだ。金魚鉢みたいな巨大なグラスに入っていたから、かなりの量があった。飲み終わって少しすると、彼女はテーブルに頬杖をついたままとろんとした目で僕の顔を見た。
「ちょっと変」と彼女は言った。「体が温かくて、何だか眠い」
「それでいいんだ」と僕は言った。「気持ちは悪くない?」
「悪くない。良い気持ち」
「結構。長い一日だった。十三だろうが、三十四だろうが最後に少し気持ち良くなるくらいの権利はある」
僕は勘定を払い、ユキの腕を取って海沿いにホテルまで戻った。そして彼女の部屋の鍵を開けてやった。
「ねえ」とユキが言った。
「何?」と僕は訊いた。
「おやすみ」と彼女は言った。
翌日も見事にハワイ的な一日だった。朝食を済ませるとすぐに水着に着替えてビーチに出た。サーフィンをやってみたいとユキが言ったので、僕は貸しボードを二枚借り、彼女と一緒にシェラトンの沖に出た。
僕は昔友達に初歩的な技術を教わったことがあったので、それをそのまま彼女に教えた。波の捉え方や、足の置きかたや、その程度のことだ。でもユキは
とても覚えがよかった。体も柔らかかったし、タイミングをとらえる勘が良かった。三十分ほどで彼女は僕よりずっとうまく波に乗れるようになった。「面白い」と彼女は言った。
昼食のあとで僕は彼女をつれてアラモアナの近くにあるサーフ・ショップに行き、中古の中級品のボードを二枚買った。店員は僕とユキの体重を聞き、それぞれにあったボードを選んでくれた。「あんたたち兄妹?」と店員が僕に尋ねた。面倒臭いので「そうだ」と僕は答えた。親子には見えないようなので僕は少し安心した。
二時に僕らはまたビーチに出て、砂浜に寝転んで日光浴をした。少し泳ぎ、少し眠った。でも殆どの時間を我々はただぼんやりとして過ごした。ラジオを聴き、ぱらぱらと本を読み、人々の姿を眺め、椰子の葉の揺れる音に耳をすませた。太陽が少しずつその定められた軌道を移動していった。日が落ちてくると僕らは部屋に戻ってシャワーを浴び、スパゲッティとサラダを食べてからスピルバーグの映画を見にいった。映画館を出ると、しばらく街を散歩し、ハレクラニ・ホテルの優雅なブールサイド・バーに行った。そして僕はまたピナ・コラーダを飲み、彼女はフルーツ・ジュースを頼んだ。
「ねえ、それまた少し飲んでもいいかしら?」とユキは僕のピナ・コラーダを指さして一言った。「いいよ」と僕は一言って、グラスを取り替えた。ユキはそのストローで二センチほどピナ・コラーダを飲んだ。「美味しい」と彼女は言った。「昨日のバーとは少し味が違うような気がする」
僕はウェイターを呼んでもう一杯ビナ・コラーダを頼んだ。そしてそれをまるごとユキに与えた。「全部飲んでいい」と僕は言った。「毎晩僕につきあっていたら、一週間で君は日本でいちばんピナ・コラーダに詳しい中学生になれるよ」
ブールサイドではフル・サイズのダンスバンドが『フレネシ』を演奏していた。年を取ったクラリネット奏者が途中で長いソロを取った。アーティー・ショウを思わせるような品の良いソロだった。そしてそれにあわせて正装した十組ほどの老夫婦が踊っていた。ブールの底から浮かびあがる照明がかれらの顔を幻想的に照らしていた。踊っている老人たちはとても幸せそうに見えた。彼らは様々な歳月の末に、このハワイにたどりついたのだ。彼らは優雅に足を動かし、きちんと律儀にステップを踏んでいた。男たちは背を伸ばし、顎を引き、女たちはくるりと円を描き、ロング・スカートの裾を柔らかに揺らせていた。僕らはそんな々の姿をじっと眺めていた。彼らの姿はなぜか僕の心を落ち着かせた。たぶん老人たちがいかにも満ち足りた顔をして踊っていたからだろう。曲が『ムーン・グロウ』に変わると、彼らはそっと頬を寄せあった。
「また眠くなってきた」とユキが一言った。
でも今回は彼女はひとりでちゃんと歩いて帰ることができた。進歩している。
僕は自分の部屋に戻るとワインの瓶とグラスを居間に持ってきてTVでクリント・イーストウッドの『奴らを高く吊るせ』を見た。またまたクリント・イーストウッドだ。そしてまたまたにこりともしない。僕はワインを三杯飲むあいだ映画につきあっていたが、途中でだんだん眠くなってきたのであきらめてTVを消し、バスルームに行って歯を磨いた。これで一日が終わった、と僕は思った。有意義な一日だっただろうか?それほどでもない。まあまあというところだ。朝ユキにサーフィンを教え、それからサーフボードを買ってやった。
夕食を食べ、『E.T.』を見た。そしてハレクラニのバーで二人でビナ・コラーダを飲み、優雅に踊る老人たちを眺めた。ユキが酔っぱらい、僕は彼女をポテルに連れて帰った。まあまあだ。良くも悪くもハワイ的な一日だった。しかしとにかくこれで一日が終わった、と僕は思った。
でも物事はそう簡単には終わらなかった。
僕がTシャッとパンツだけになってベッドにもぐりこみ、電気を消して五分も経たないうちにドアベルがかんこんと鳴った。やれやれまったく、と僕は思った。時計は十二時少し前を指していた。僕は枕もとの電気をつけ、ズボンをはいて戸口に行った。僕がそこに行くまでにベルはあと二回鳴った。ユキだろう、と僕は思った。それ以外に誰かが僕を訪ねてくるなんて考えられないから。だから僕はそれが誰であるかも確かめずにドアをあけた。そこにいたのはユキではなかった。知らない若い女だった。
「ハーイ」と彼女は一言った。
「ハーイ」と僕も反射的に言った。
見たところ女は東南アジア系らしかった。タイかフィリピンかヴェトナムか。僕には微妙な人種的違いというものがよくわからない。でもとにかくそのどれかだ。綺麗な女だった。小柄で色が黒く、目が大きい。そして光沢のあるピンクの、つるりとした生地のワンピースを着ていた。バッグも靴もみんなピンク色だった。左腕の手首にブレスレットのように大きなピンク色のリボンを巻いていた。まるで何かのプレゼントみたいに。いったいどうして手首にリボンなんか巻いてるんだろう、と僕は思った。でもわからなかった。彼女はドアに手
をかけて、にっこりと笑って僕を見ていた。
「私の名前はジューンっていうの」と彼女は少し訛のある英語で言った。
「ハイ、ジューン」と僕は言った。
「中に入っていいかしら?」と彼女は指で僕の背後をさして訊いた。
「ちょっと待って」と僕はあわてて言った。「君はたぶんドアを間違えていると思う。君は誰のところに来たんだろう?」
「んーと、待ってね」と彼女は言って、バッグからメモを出して読んだ。「えーと、ミスター・……のところ」
僕だった。「僕だ、それは」と僕は言った。
「じゃあ間違ってないじゃない」
「ちょっと待ってよ」と僕は言った。「名前は確かにあってる。でも僕には何が何だか全然理解できない。君は誰なのいったい?」
「とにかくちょっと中に入れて下さらない?ここで立ち話というのも外聞が悪いじゃない。人が何かと思うでしょう?大丈夫よ、安心しなさい。中に入ってホールド・アッブなんてことはないから」
たしかに戸口であれこれと押し問答をしているうちに隣の部屋にいるユキが起きて出てきたりしたら面倒だった。僕は彼女を中にいれた。なるようになる。なるようになればいい。
ジューンは中に入ると僕が勧めるまでもなくすぐにソファに座ってくつろいだ。何か飲むかと僕は訊いた。あなたと同じ物でいい、と彼女は言った。僕は台所でジン・トニックを二つ作って持ってきた。そして彼女の向かいに腰を下ろした。彼女は脚を大胆に組んで美味しそうにジン・トニックを飲んだ。綺麗な脚だった。
「ねえ、ジューン、君はどうして僕のところに来たんだろう?」と僕は訊いてみた。
「来るように言われたからよ」と彼女は当然という顔で言った。
「誰に?」
彼女は肩をすぼめた。「あなたに好意を持っている匿名の紳士に。その人がお金を払ったの。日本から。あなたの為に。わかるでしょう、どういうことだか?」
牧村拓、と僕は思った。これが彼の言っていた「プレゼント」なのだ。だから彼女は手首にピンクのリボンを巻いているのだ。たぶん彼は僕に女をあてがっておけばユキが安全だと考えたのだろう。実際的だ。実に実際的だ。僕は腹が立つよりはむしろ素直に感心してしまった。なんていう世の中だろう、みんなが僕の為に女を買ってくれる。
「朝までのぶんもうちゃんともらってるの。だから二人でたっぷり楽しもうよ。私の体すごくいいわよ」
ジューンは脚を上げてピンクのハイヒール・サンダルを脱ぎ、床にころんとセクシーに転がした。
「ねえ、わるいけどそれは出来ない」と僕は言った。
「どうしてよ、あなたホモなの?」
「いや、そうじゃない。そうじゃなくて、その金を払った紳士と僕の間に考え方の違いがあるんだ。だから君と寝るわけにはいかない。筋の問題なんだ」
「でもお金はもう払ってあるし、払い戻しはきかないのよ。それにあなたが私とファックしようがしまいが、そんなこと相手にはわからないわよ。私が国際電話でその人に報告するわけじゃないもの。『イェッサー、ちゃんと彼と三回ファックしました』、なんてね。だからさ、やってもやんなくても同じことなのよ、それ。筋も何もないのよ」
僕は溜め息をついた。そしてジン・トニックを飲んだ。
「やろうよ」とジューンは単純に言った。「気持ちいいわよ、あれ」
僕にはよくわからなかった。そしていろんなことを考えたり、いろんなことを説明したりするのがだんだん億劫になってきた。まずまずの一日がやっと終わってベノッドに入り、電気を消して眠りの中に片足を入れかけたところだったのだ。そこに知らない女が突然やってきてアレやろうと言う。ひどい世界だ。
「ねえ、もう一杯ずつジン・トニック飲まない?」と彼女が僕に訊いた。僕が肯くと、台所に行ってふたり分のジン・トニックを作ってくれた。そしてラジオをつけた。彼女は自分の部屋にいるみたいにくつろいでいた。ハードロックがかかっていた。
「サイコー」とジューンは日本語で言った。そして僕の隣に座り、僕にもたれかかって、ジン・トニックをすすった。「むずかしく考えちゃ駄目よ」と彼女は言った。「私はプロなのよ。このことに関しては、あなたよりは私の方が詳しいの。そこには筋もなにもないの。だから私に全部まかせなさい。これはその日本人の紳士とはもう関係のない問題なの。それは彼の手をもう離れてしまっているの。もう私とあなた二人の問題なの」
そしてジューンは指で僕の胸をすっと優しく撫でた。僕は本当にいろんなことが面倒になってきた。牧村拓がもし僕が娼婦と寝ることで安心できるのなら、それはそれで構わないという気さえしてさた。こうして押し問答しているくらいならやってしまった方が早いような気がした。たかがセックスなのだ。勃起して、挿入して、射精すればそれでおしまいなのだ。
「オーケー、やろう」と僕は言った。
「そうこなくちゃ」とジューンは言った。そしてジン・トニノクを飲み干し、
テーブルの上に置いた。空のグラスを「でも僕は今日はすごく疲れてる。だから余計なことは何もできない」
「まかせなさいって。始めから終わりまで私がやってあげるから。あなたはじっとしてればいいのよ。ただし最初に二つだけやってほしいことがあるの」
「何だろう?」
「部屋の電気を消すことと、リボンを取ってくれること」
僕は電気を消し、手首のリボンを取った。そしてベッドルームに行った。電気を消すと、窓の外に放送用のアンテナ塔が見えた。塔のてっぺんでは赤いライトが点減していた。僕はベッドに横になって、そのライトをぼんやりと眺めていた。ラジオからは八ードロックが流れ続けていた。現実じゃないみたいだ、
と僕は思った。でも現実だった。奇妙な色彩を帯びてはいたが、まぎれもない現実なのだ。ジューンは手短にさっとワンピースを脱ぎ、それから僕の服を脱がせた。メイほどではないにせよ、彼女もやはり技巧的な娼婦であり、その技
巧にプライドを持っているようだった。彼女は指や舌や何やらを使って僕を有効に勃起させ、フォリナーの曲にあわせてちゃんと射精に導いた。夜は始まったばかりで、月は海の上に浮かんでいた。
「どう?良かったでしょう?」
「良かった」と僕は言った。本当に良かったのだ。
それから僕らはまたジン・トニソクを一杯ずつ飲んだ。
「ジューン」と僕はふと思いついて言った。「ねえ君、ひょっとして先月はメイって言わなかった?」
ジューンは楽しそうにはははと笑った。「面白いわねえ。私ジョークって好きよ。来月はジュリーっていうのかしら。八月はオージー」
冗談で言ってるんじゃないんだと僕は言いたかった。本当に先月メイという女の子と寝たんだと。でももちろん言っても仕方ないことだった。だから僕は黙っていた。僕が黙っていると、彼女はまたプロフェッショナルに僕を勃起させた。二回目。僕は本当に何もせずにそこにごろりと寝転んでいるだけだった。彼女が全部やってくれた。手際の良いガソリン・スタンドみたいだった。車を停めて鍵を渡せば、給油から、洗車から、空気圧のチェックから、オイルの点検から、窓拭きから、灰皿の掃除から、何から何までやってくれる。こういうものを果たしてセックスと呼べるのだろうか?しかしとにかく何もかもが終わったのは二時過ぎだった。それから僕らはうとうとした。そして六時前に目が覚めた。ラジオがつけっぱなしになっていた。外はもう明るく、早起きのサーファーが既に海岸にピックアップ・トラックを並べていた。僕の隣では裸のジューンが体を丸めてぐっすりと眠っていた。床にはピンクの服とピンクの靴とピンクのリボンが落ちていた。僕はラジオを消し、彼女を揺すって起こした。
「ねえ、起きて」と僕は言った。「人が来るんだ。若い女の子が朝飯を食べにくるんだ。わるいけど君がいるとまずい」
「オーケー、オーケー」と彼女は言って起きた。そして裸のままバッグを持ってバスルームに行って歯を磨き、髪をとかした。そして服を着て、靴をはいた。
「私良かったでしょう?」と彼女は口紅を塗りながら言った。
「良かった」と僕は言った。
ジューンはにっこり笑って口紅をバッグに入れ、ぱちんと口金をしめた。「それで、次はいつにする?」
「次?」
「三回分払ってもらってるの。だからまだあと二回残ってるわけ。いつがいい?それとも気分を変えて私じゃない別の子にする?それでもいいのよ。私ぜんぜん気にしないから。男の人っていろんな子と寝たいんでしょう?」
「いや、もちろん君でいい」と僕は言った。他に言いようもない。三回分。きっと牧村拓は僕の体から精液を一滴残らずしぼりとるつもりなのだろう。
「ありがとう。絶対後悔させないから。今度はもっとすごくやってあげるから。大丈夫よ。期待しててね。You can rely on
me.ねえ、あさっての夜でどうかしら?あさっての夜なら私も暇だし、みっちりとやってあげられるけど」
「それでいい」と僕は言った。そして車代にといって十ドル札を渡した。
「ありがとう。じゃあまたね、バイバイ」と彼女は言った。そしてドアを開けて出ていった。
僕はユキが起きて朝食を食べにやってくるまでにグラスを全部きちんと洗ってかたづけ、灰皿を洗い、シーツの皺をなおし、ピンクのリボンをごみ箱に捨てた。それで大丈夫なはずだった。でもユキは部屋に入ってきた途端にちょっと顔をしかめた。部屋の中の何かが気に入らないのだ。とても勘がいい。何かを推測している。僕は気がつかないふりをして口笛を吹きながら朝食の用意をした。コーヒーを作り、トーストを焼き、果物をむいた。そして食卓に運んだ。ユキは疑わしそうな目でちらちらとあたりを見ながら冷たいミルクを飲み、パンを齧っていた。僕が話しかけてもまったく返事をしなかった。どうもまずいな、と僕は思った。部屋の中にシリアスな空気が漂っている。
緊張した朝食が終わると、彼女はテーブルの上に両手を置き、じっと僕の目を見た。とても真剣な目だった。「ねえ、ここに昨日の夜、女の人が来たでしょう?」とユキは言った。
「よくわかるね」と僕は何でもないふりをして気軽に言った。
「誰よ、いったい。あれからそのへんで女の子をひっかけてきたの?」
「まさか。そんなことしないよ。僕はそんなにマメじゃないもの。向こうの方から勝手に来たんだ」
「嘘言わないでよ。そんなことあるわけないじゃない」
「嘘じゃないよ。僕は君に嘘はつかない。本当に向こうから勝手に来たんだ」と僕は言った。そして全部をきちんと説明した。牧村拓が僕の為に女の子を買ってくれたこと。その子が突然僕を訪ねてきたこと。僕もそれは寝耳に水だったこと。僕の性欲を満たしておけばユキの身が安全だと牧村拓は考えたのだろうということ。
「まったく、もう」と言ってユキは深い溜め息をつき、目を閉じた。「どうしてあの人って、いつもいつもそういう下らないことばかり思いつくのかしら。どうしてそういう見当違いなことばかりやってるんだろう。本当に大事なことは何もわかってないし、何も感じないくせに、そういうどうでもいい余計なところには気がまわるのよ。ママもママだけど、パパもそとは違うところで頭がどうかしてるわよ。いつも見当違いなことをやってぶち壊しにするの」
「確かに君の言うとおりだ。非常に見当ちがいだ」と僕は同意した。
「でもあなた、どうして中に入れたりしたの?部屋の中に入れたんでしょう、その女の人を?」
「入れたよ。よく事情がわからないから彼女と話し合う必要があった」
「でもまさか変なことしなかったわよね?」
「それがそう単純でもないんだ」
「まさかーー」と言いかけて彼女は口をつぐんだ。適当な表現方法を思いつかないのだ。そして頬が少し赤くなった。
「そうだよ。事情を説明すると話が長くなるけれど、とにかくうまく断れなかったんだ」と僕は言った。
彼女は目を閉じ、両方の手で頬を押さえた。「信じられない」ととても小さな乾いた声でユキは言った。「あなたがそんなことするなんて、とても信じられない」
「最初はもちろん断るつもりだったんだ」と僕は正直に言った。「でもそのうちになんだかどうでも良くなってきた。あれこれと考えるのが面倒になってきた。言い訳するんじゃないけれど、君の両親は確かにある種の強さを持っているね。お母さんはお母さんなりに、お父さんはお父さんなりに、人に何かしら影響を与える。それを認めるか認めないかは別にして、スタイルというものを持っている。敬意は払えないにせよ、無視することもできない。つまりね、それで君のお父さんの気が済むんなら別にいいやと思ったんだ。それに悪くなさそうな子だった」
「でもそんなのひどすぎるわよ」とユキは乾いた声で言った。「あなたはパパに女の人を買ってもらったのよ。それで何とも思わないの?恥ずかしいことよ。そう思わないの?」
確かにそのとおりだった。
「確かにそのとおりだ」と僕は言った。
そんなのいけないことよ。間違っているし、「本当に本当に恥ずかしいことよ」とユキは繰り返した。
「そうだ」と僕は認めた。
朝食のあとで僕らはボードを持ってビーチに出た。そしてまたシェラトンの沖に出て、まで波乗りをやった。でもその間彼女は一言も口をきいてくれなかった。何を話しかけても返事をしなかった。必要に応じて肯いたり、首を振ったりするだけだった。
そろそろ陸に戻って昼御飯を食べようと言うと彼女は肯いた。部屋で何か作って食べるかと訊くと彼女は首を振った。じゃあ外で軽く食べようと言うと彼女は肯いた。僕らはフォート・デアラシーの芝生に座ってホットドッグを食ベた。僕はビールを飲み、ユキはコーラを飲んだ。彼女はまだ一言も口をきかなかった。もう二時間も黙りこんでいた。
「次は断るよ」と僕は彼女に言った。
彼女はサングラスを取って、まるで空の裂け目でも見るみたいに僕の顔をじっと見た。三十秒くらいじっと見ていた。それから綺麗に日焼けした手で前髪を払った。
「次?」と彼女は不思議そうに言った。「次ってどういうこと?」
僕は牧村拓があと二回分を先払いしていることを説明した。そして二回目はあさっての夜なんだと。彼女は拳で芝生を何度か叩いた。「信じられない。本当に馬鹿みたい」
「別にかばうつもりはないけど、お父さんはお父さんなりに心配してるんだ。つまり僕が男、君が女だから」と僕は説明した。「わかるだろう?」
「本当に本当に馬鹿みたい」と彼女は泣きそうな声で言った。そして自分の部屋に入って夕方まで出てこなかった。
僕は少し昼寝をし、近所のスーパーマーケットで買ってきた『ブレイボーイ』を読みながらベランダで日光浴をした。四時頃から雲が姿を現し、徐々に空を覆い、五時すぎには激しい本格的なスコールになった。この調子であと一時間も降り続けば島ごと南極まで押し流されてしまうんじゃないかという気がするくらいの激しい雨だった。これほど激しい雨を見たのは生まれて初めてだった。五メートル先のものもろくに見えなかった。ビーチの椰子の木は気が触れたようにばたばたとその葉を上下に震わせ、アスファルト道路はあっという間に河のようになった。サーファーが何人かボードを傘がわりに頭の上にかざして窓の下を足早に通りすぎて行った。そのうちに雷が鳴り始めた。アロハ・タワーのあたりの海上で閃光が走るのが見えた。そしてソニック・ブームのような激しい音がびりびりと空気を震わせた。僕は窓を閉め、キッチンでコーヒーを作った。そして今夜は夕食に何をつくろうかと考えた。
もう一度雷鳴が轟いた時にユキがそっと部屋に入ってきて、キッチンの隅の壁にもたれて僕を見ていた。僕は微笑みかけたけれど、彼女はただじっと僕を睨んでいた。僕はコーヒー・カップを持ち、彼女を連れて居間に行ってソファに並んで腰掛けた。ユキは顔色があまりよくなかった。たぶん雷が嫌いなのだろう。どうして女の子はみんな雷やら蜘蛛やらが嫌いなのだろう?雷なんてただの少しやかましい空中の放電現象だ。蜘蛛だって特殊なものを別にすれば無害な小さな虫だ。もう一度青白い閃光が光った時、ユキは僕の右腕を両手でぎゅっと握った。
十分ほど僕らはそのままの格好でスコールと雷を眺めていた。彼女は僕の右腕を握り、僕はコーヒーを飲んでいた。やがて雷は遠くなり、雨は上がった。雲が切れ、タ暮れに近い太陽が姿を見せた。あとには方々に池のような水溜まりが残っているだけだった。椰子の葉は水滴をきらきらと光らせていた。海は何事もなかったように相変わらず白い波を立て、雨宿りをしていた観光客もまたぼちぼちとビーチに姿を見せ始めた。
「確かに僕はあんなことするべきじゃなかった」と僕は言った。「何があっても断って帰すべきだった。でもあの時は疲れていたし、うまく頭が働かなかった。僕はとても不完全な人間なんだ。不完全だししょっちゅう失敗する。でも学ぶ。二度と同じ間違いはしないように決心する。それでも二度同じ間違いをすることはすくなからずある。どうしてだろう?簡単だ。何故なら僕が馬鹿で不完全だからだ。そういう時にはやはり少し自己嫌悪になる。そして三度は同じ間違いを犯すまいと決心する。少しずつ向上する。少しずつだけれど、それでも向上は向上だ」
ユキは長い間なんの反応も返さなかった。彼女は僕の腕から手を離して、何も言わずにじっと外の景色を見ていた。僕の言ったことを彼女が聞いていたかどうかさえわからなかった。日が落ちて、ビーチに沿って並んだ街灯が白く灯をともし始めた。雨上がりの夕暮れは空気がくっきりとして光が鮮やかだった。ダーク・ブルーの夕空を背景に放送局の高いアンテナがそびえ、そのてっぺんの赤いライトが心臓の鼓動のように規則正しくゆっくりと点滅していた。僕はキッチンに行って冷蔵庫からビールを出して飲んだ。そしてクラッカーを何枚か食べながら、僕は本当に少しずつでも向上しているんだろうか、と思った。あまり白信はなかった。よく考えると全然自信がなかった。十六回くらい続けて同じ間違いをやったこともあるような気がした。でも基本的な姿勢としては彼女に言ったことは嘘ではなかったし、そう説明する以外に説明の方法はなかったのだ。
居間に帰ると、ユキはまだ同じ格好で外を眺めていた。脚を折り曲げて、両手で膝を抱えるようにしてソファに座り、頑固そうに顎をぎゅっと引いていた。僕はふと結婚生活を思い出した。そういえば結婚しているときにはこういうのが何度もあったっけな、と僕は思った。僕は何度も妻を傷つけて、何度も謝った。そういう時、妻もまた何時間も何時間も僕と口をきいてくれなかった。どうしてそんなに傷つくんだろう、と僕はよく思ったものだ。考えてみればそれほど大したことじゃないのに、と僕は思った。でも僕はいつもそういう時には我慢強く謝り、説明し、その傷を癒すように努めた。そしてそういう作業を積み重ねることによって我々の関係は向上していると考えていた。でも結末を見ればわかるように、多分向上なんかしなかったんだろう。
彼女が僕を傷つけたことは一度しかなかった。たった一度だ。彼女は他の男と出ていってしまった。その時だけだ。結婚生活ーーあれはすごく奇妙なものだったな、と僕は思った。渦のようなものだ。ディック・ノースが言うように。
僕が隣に座ってしばらくすると、ユキは僕に手を差し出した。僕はそれを握った。
「許したわけじゃないのよ」とユキは言った。「とりあえず仲直りするだけ。あれは本当にいけないことだったし、私はすごく傷ついたのよ。わかる?」
「わかる」と僕は言った。
それから僕らは夕食を食べた。僕は海老といんげん豆を使ってピラフを作り、茄で卵とオリーブとトマトを使ってサラダを作った。僕はワインを飲み、彼女も少しワインを飲んだ。
「君を見てるとときどき女房を思い出す」と僕は言った。
「あなたに愛想をつかせて他の男と出ていった奥さん」とユキは言った。
「そう」と僕は言った。