ダンス・ダンス・ダンス

七時になってユキがふらりと戻ってきた。海岸を散歩していたのだ、と彼女は言った。どうする、飯でも食ベていくか、と牧村拓が尋ねた。ユキは首を振た。おなかすいてないから、もう家に帰ると言った。
「じゃあ、また気が向いたら遊びに来いよ。今月はまだずっと日本にいると思うから」と父親は言った。そして僕に向かってわざわざ来てくれて有り難うと礼を言った。何もお構いできなくて申し訳なかった、と。どういたしまして、と僕は言った。
書生のフライデーが僕らを送ってくれた。庭の奥の駐車場にはジープ・チェロキーとホンダの750ccとオフロード用のバイクが見えた。
「へビー・デューティーな生活みたいですね」と僕はフライデーに言ってみた。
「やわじゃないですね」とフライデーはちょっと考えてから答えた。「いわゆる作家というタイプじゃないんです。何はともあれまず行動という人ですから」
「馬鹿みたい」と小さな声でユキが言った。
僕もフライデーも聞こえなかったふりをした。
スバルに乗り込むとすぐにユキはおなかが減ったと言った。僕は海岸沿いの『ハングリー・タイガー』で車を停めて、ステーキを食べた。そしてアルコール抜きのビールを飲んだ。
「どんな話だったの?」と彼女はデザートのプディングを食べながら言った。
隠さなくてはならない理由もなかったので、僕は大体のところを説明した。
「そんなことだろうと思った」と彼女は顔をしかめて言った。「あの人の考えそうなこと。それで、あなたどうしたの?」
「断ったよ、もちろん。そういうのは僕向きじゃない。話の筋がまともじゃない。でもそれとは別に我々は時々会った方がいいんじゃないかと思う。お互いの為に。僕らは歳がずいぶん違うし、生活環境も考え方も感じ方も生き方もずいぶん違うかもしれないけれど、それでも二人でいろんなことを話し合えそうな気がする。そう思わない?」
彼女は肩をすぼめた。
「会いたくなったら君のほうから電話してくれればいい。人と人とが義務的に会うことなんて何もないんだ。会いたくなれば会えばいいんだ。僕らはお互いに誰にも言ってないことを打ち明けあって、秘密を共有している。そうだろう?違う?」
彼女は少し迷ってから「うん」と言った。
「そういうのは放っておくと体の中でどんどん膨らんでくることがある。抑えがきかなくなる時があるんだ。時々空気抜きをしないと、爆発しちゃう。ボンッと。わかる?そうなる生きていくのが難しくなる。何かを一人で抱えこむというのは辛いことなんだ。君だって辛いし、僕だってやはり辛いと感じることがある。誰にも言えないし、誰もわかってくれない。でも僕らはお互いにそれがわかりあえる。正直に話しあえる」
彼女は肯いた。
「僕は君に対して何も強要しない。君が何か話したかったら僕のところに電話してくれればいい。これは君のお父さんの話とは何の関係もない。あるいは僕が君に対してものわかりの良いお兄さんなりおじさんなりの役を務めようと思っているわけでもない。僕らはある意味では対等なんだ。我々は助けあえると思う。その為にも僕らはたまに会った方がいい」
彼女は何も答えなかった。デザートを食べてしまうと、水をごくごくと飲んだ。そして隣のテーブルで太った一家が熱心に食事を頬張っている様子を横目でちらちらと見ていた。両親と娘が一人と小さな男の子が一人。みんな見事に太っていた。僕はテーブルに肘をついて、コーヒーを飲みながらユキの顔を眺めていた。本当に綺麗な子だ、と僕は思った。じっと見ていると心のいちばん深い部分に小さな石を投げ込まれたような気がする。そういう種類の美しさなのだ。くねくねと穴が複雑に折れ曲がっているし、そのすごく奥の方だから普通なら届きっこないのだが、彼女はそこにきちんと小石を放り込むことができるのだ。僕が十五だったら恋に落ちていたな、と僕は二十回目くらいに改めて思った。でも十五の僕は彼女の気持ちなんてまず理解できなかっただろう。今はある程度理解できる。僕なりにかばってやることもできる。でも僕はもう三十四で、十三の女の子に恋をしたりはしない。上手くいかないものだ。
同級生たちが彼女を苛める気持ちというのは僕にもわからないではなかった。彼女は多分彼らの日常性を越えて美しすぎるのだ。そして鋭すぎる。おまけに彼女の方からは決して彼らに歩み寄ろうとはしない。だから彼らは恐怖し、そしてヒステリックに彼女を苛めるのだ。彼女によって自分たちの親密な共同体が不当におとしめられているように感じるのだ。そこが五反田君と違うところだ。五反田君は自分が他人に与える印象の強さをよく認識し、それをきちんとセーブしていた。それを制御していた。彼は他人に恐怖を与えたりはしなかった。彼の存在が知らず知らず大きくなりすぎた時にはにっこりと微笑んで冗談を言った。立派な冗談である必要はなかった。ただ感じよくにっこりとして普通の冗談を口にすればいいのだ。そうするとみんなもにっこりとして楽しい気持ちになることができた。いい奴なんだ、とみんなは思った。それがーーたぶん本当に良い男なんだろうーー五反田君だった。でもユキはそうではなかった。ユキは自分一人を抱えて生きていくだけで精一杯なのだ。まわりの人間の感情の動きまで細かく考えてそれに細かく対処していくような余裕がないのだ。そしてその結果他人を傷つけ、またそれによって他人をとおして自分も傷つくことになるのだ。五反田君とは根本的に違っているのだ。ハードな人生だ。十三の女の子にとってはいささかハードすぎる。大人にとってさえそれはハードなことなのだ。
この先彼女がどうなっていくのか、僕には予想がつかなかった。うまくいけば、母親のように自分を表現するための何かの方法を発見し獲得して、芸術的な分野で生きていくことになるのかもしれない。たぶんそれがどういう分野であれ、彼女の持っている力の方向性に合ってさえいれば、彼女は他人に認められるだけの仕事をするだろう、と僕は思った。根拠はない。でもそういう気がした。牧村拓が言うように、彼女の中には力があり、オーラがあり、才能がある。人並み外れたものがある。雪かき的じゃないものが。
あるいは彼女は十八か十九になるまでにはごく普通の女の子に変わっているかもしれない。そういう例を僕は幾つか見ている。十三か十四の透き通るように美しく鋭い少女が、思春期の階段を上るにつれてすこしずつその輝きを失っていく。手を触れただけで切れてしまいそうな鋭さが鈍化していく。そして「綺麗ではあるけれど、それほど印象的ともいえない」娘になる。でも本人はそれはそれで幸せそうに見える。
ユキがそのどちらの成長過程を経ていくことになるのか、もちろん僕には見当もつかなかった。奇妙なことには人間にはそれぞれにピークというものがある。そこを登ってしまえば、あとは下りるしかない。それはどうしようもないことなのだ。そしてそのビークが何処にあるのかは誰にもわからない。まだ大丈夫だろうと思っている、そして突然その分水嶺がやってくる。誰にもわからない。あるものは十二歳でピークに達する。そしてあとはあまりぱっとしない人生を送ることになる。あるものは死ぬまで上り続ける。あるものはピークで死ぬ。多くの詩人や作曲家は疾風のように生きて、あまりにも急激に上りつめたが故に三十に達することなく死んだ。パブロ・ピカソは八十を過ぎても力強い絵を描き続け、そのまま安らかに死んだ。こればかりは終わってみなくてはわからないのだ。
俺はどうなんだろう、と僕は考えてみた。
ピーク、と僕は思った。そんなものどこにもなかった。振り返ってみると、それは人生ですらないような気がする。少し起伏はあった。ごそごそと登ったり下りたりはした。でもそれだけだった。殆ど何もしていない。何も生み出していない。誰かを愛したこともあったし、誰かに愛されたこともあった。でも何も残っていない。奇妙に平坦で、風景が平板だ。まるでビデオ・ゲームの中を歩いているみたいな気がする。パックマンみたいだ。ぱくぱくぱくと迷路の中の点線を食べていく。無目的に。そしていつか確実に死ぬ。
あんた幸せにはなれないかもしれない、と羊男が言った。だから踊るしかないんだよ、みんなが感心するくらい上手く。
僕は考えるのをやめて少し目を閉じていた。
目を開けるとユキがテ、ブルの向かいから僕をじっと見ていた。
「大丈夫?」と彼女は言った。「何だか参ってるみたい、すごく。何か私、ひどいこと言った?」
僕は微笑んで首を振った。「いや、君は何も言ってない」
「嫌なこと考えてたのね?」
「そうかもしれない」
「そういうことよく考える?」
「時々、だね」
ユキは溜め息をついてしばらく紙ナプキンをテーブルの上で折って遊んでいた。「すごく寂しくなることある?つまり、夜中なんかにそういうことをふと考えて?」
「もちろんある」と僕は言った。
「ねえ、どうして今ここで急にそんなこと考えたの?」
「たぶん君が美しすぎるからだ」と僕は答えた。
ユキは父親と同じような空虚な目つきでしばらく僕の顔を見ていた。それから静かに首を振った。何も言わなかった。
夕食の勘定はユキが払ってくれた。パパがいっぱいお金くれたからいいのよ、
と言った。そして勘定書を持ってレジに行き、ポケットから一万円札をまとめて五、六枚ひっぱりだして、そのうちの一枚で勘定を払い、釣り銭をろくに数えもせずまた革ジャンパーのポケットに突っ込んだ。
「あの人、私にお金渡せばそれでいいと思ってんのよ」と彼女は言った。「馬鹿みたい。だから今日は私が御馳走してあげるわよ。私たち対等なんでしょ、ある意味では?いつも御馳走されてばかりだから、たまにはいいじゃない」
「御馳走さま」と僕は言った。「でも後学のために一応言うなら、そういうのはクラシックなデートのマナーには反してる」
「そうかしら?」
「デートで御飯を食べたあとで、女の子は自分で勘定書をつかんでレジで金を払ったりしちゃいけない。男にまず払わせて、あとで返す。それが世間のマナーなんだ。男としてのプライドを傷つける。僕はもちろん傷つかない。僕はどのような観点から見てもマッチョな人間じゃないから。でも僕はいいけど、気にする男も世間にはけっこう沢山いる。世界はまだまマッチョなんだ。」
「馬鹿みたい」と彼女は言った。「私、そういう男とデートなんかしないもの」
「それはまあ一つの見識だな」と僕は言った。そして駐車場からスバルを出した。「でも人は理不尽に恋に落ちることがある。より好みできないこともある。それが恋というものだ。君もブラジャーを買ってもらえるくらいの歳になったらたぶんそれがわかる」
「持っているって言ったでしょう」と彼女は拳で思いきり僕の肩を叩いた。それで僕はもう少しで赤く塗られた大きなごみ箱に車をぶっつけそうになった。
「冗談だよ」と僕は車を停めて言った。「大人の世界では我々はみんな冗談を言って笑いあうんだよ。あるいはそれは下らない冗談かもしれない。でも君 もそれに馴れなくちゃいけない」
「ふん」と彼女は言った。
「ふん」と僕も言った。
「馬鹿みたい」と彼女は言った。
「馬鹿みたい」と僕も言った。
「真似しないでよ」と彼女は言った。
僕は真似をやめた。そして車を駐車場から出した。
「でも今みたいに運転してる人間をぶったりしちゃ駄目だよ、冗談抜きで」と僕は言った。「そんなことしたらどっかにぶつかって、二人とも死んでしまうことになる。これがデート・マナーの第二だ。死なないで生き延びること」
「ふん」とユキは言った。
帰りの車の中ではユキは殆ど口をきかなかった。彼女は体の力を抜いてぐったりとした姿勢でシートにもたれ、何かを考えていた。ときどき眠っているようだったが、起きている時と眠っている時の違いはあまりなかった。もうテープも聴かなかった。僕はためしにジョン・コルトレーンの『バラード』のテープをかけてみたが、彼女はとくに文句は言わなかった。何が鳴っているのか気づきもしないようだった。僕はトレーンのソロにあわせて小さな声でハミングしながら車を走らせた。
湘南から夜に東京に帰ってくる道は退屈な道だ。僕は前の車のテールライトにずっと神経を集中させていた。別に話すこともない。首都高速に入ると、彼女は身を起こしてずっとガムを噛んでいた。そして一本だけ煙草を吸った。三、四回吹かして窓の外に捨てた。二本吸ったら文句を言おうと思ったが、一本しか吸わなかった。勘がいいのだ。僕の考えていることがわかる。引き際というものを心得ている。
赤坂の彼女のアパートの前で僕は車を停めた。そして「着いたよ、お姫様」と言った。
彼女はガムを包装紙にくるんでダッシュボードの上に置いた。そしてけだるそうにドアを開けて車から降り、そのまま行ってしまった。さよならも言わず、ドアも閉めず、後ろも振り返らず。複雑な年頃なのだ。あるいはただ単に生理なのかもしれない。でもこういうのってまるで五反田君の出ていた映画の筋みたいだな、と僕は思った。傷つきやすく複雑な年頃の少女。いや、五反田君なら僕よりもっとずっと上手く手際よくやるだろう。彼が相手ならユキだってボオッとして恋をしてしまうかもしれない。そうしないと映画にならないから。
そして……やれやれまた五反田君のことを考えている。僕は頭を振ってから、助手席に移って体を伸ばしてドアを閉めた。ばたん。そしてフレディー・ハバードの『レッド・クレイ』を八ミングしながら家に帰った。
朝起きて、僕は駅まで新聞を買いに行った。九時前だったので、通勤する人々が渋谷の駅前を渦巻いていた。春だというのに、微笑んでいる人は数えるほどしかみあたらなかった。そしてそれだってあるいは微笑ではなくて、ただ顔がひきつっていただけなのかもしれなかった。僕は売店で新聞をふたつ買い、ダンキン・ドーナッツでドーナッツを食べ、コーヒーを飲みながらそれを読んだ。どちらの新聞にもメイの記事はもう載っていなかった。ディズニーランドが開園することやら、ヴェトナムとカンボジアが戦争していることやら、都知事選挙のことやら、中学生の非行のことやらが載っていた。でも赤坂のホテルで美しい若い女が絞殺されたことについてはもうただの一行も触れられてはいなかった。牧村拓の言ったように、ありふれた事件なのだ。ディズニーランドの開園なんかとは比べ物にならない。そんな事件があったことなんて、みんなすぐに忘れてしまう。そしてもちろん忘れない者も何人かいる。僕もその一人だ。殺人者もその一人だ。あの二人の刑事も忘れないだろう。
僕は何か映画でも見ようと思って新聞の映画欄を開いてみた。『片想い』はもう終わっていた。それで僕は五反田君のことを思いだした。少なくとも彼にはメイのことを知らせておくべきだろう。もし何かの拍子で彼が取り調べられでもして、そこで僕の名前がでてきたら、僕は非常にまずい立場に立たされることになる。警察でまた絞りあげられることを想像しただけで頭が痛んだ。
僕はダンキン・ドーナッツのピンク電話で五反田君のマンションに電話をかけてみた。もちろん彼は出なかった。留守番電話だった。僕はちょっと大事な話があるので連絡をほしいと言った。そして新聞をごみ箱に捨てて家に帰った。歩きながらどうしてヴェトナムとカンボジアが戦争なんかしてるんだろうと思った。よくわからない。複雑な世界だ。
調整の為の一日だった。
やらなくてはならないことが沢山あった。そういう一日がある。現実的になって、現実的な現実と正面から取り組まねばならない一日。
まず僕は何枚かのシャツをクリーニング屋に持っていき、何枚かのシャツを持って帰ってきた。そして銀行に寄って現金を出し、電話料金とガス料金を払った。家賃もふりこんでおいた。靴屋に寄って、踵を新しい物にかえてもらった。目覚まし時計の電池と生のカセット・テープを六本買った。そして部屋に戻ってFENを聴きながら部屋の片づけをした。浴槽を綺麗に洗った。冷蔵庫の中の物を全部ひっぱりだして内側を綺麗に拭き、食品を点検し、整理した。ガス・レンジを磨き、換気扇の汚れをおとし、床を拭き、窓を磨き、ごみをまとめた。シーツと枕カバーを換えた。掃除機をかけた。それだけやるのに二時までかかった。
スティックスの『ミスター・ロボット』にあわせて歌いながら雑巾でブラインドを拭いていると、電話のベルが鳴った。五反田君からだった。
「一度直接会ってゆっくり話せないかな?電話じゃちょっとまずい話なんだ」と僕は言った。
「いいよ。でもそれ、急ぐのかな?今いささか仕事がたてこんでるんだよ。映画とTVのビデオ撮りが重なってるんだ。二、三日経つと楽になってけっこうゆっくりできるんだけどね」
「忙しいところを申し訳ないとは思う。でも人が一人死んでいるんだ」と僕は言った。「僕らの共通の知人で、警察が動いてる」
彼は電話口で黙りこんだ。物静かで能弁な沈黙だった。僕はそれまで、沈黙というのはただじっと黙っているだけのことだと思っていた。でも五反田君の沈黙はそうではなかった。それは五反田君が身につけている他の全ての資質と同じようにスマートでクールでインテリジェントだった。変な言い方だとは思うけれど、耳を澄ませれば彼の頭が最高速度で回転している音が聞こえそうだった。「わかった。今夜会えると思う。けっこう遅くなるかもしれないけど、それはかまわないかな?」
「かまわない」
「たぶん一時か二時に電話をかけることになると思うよ。悪いけど今のところその前にはどうしても時間があけられないんだ」
「いいよ、構わない。起きて待ってる」
電話を切ってから、その会話をひとつひとつ全部思い出してみた。
人が一人死んでるんだ。僕らの共通の知人で、警察が動いてる。
これじゃまるで犯罪映画じゃないか、と僕は思った。五反田君が関わると、何も彼もが映画のシーンみたいになる。どうしてだろう?現実が少しずつ後退していくような気がする。自分が与えられた役をこなしているような気分になってくる。たぶん彼はそういうオーラのようなものを持っているのだろう。僕はサングラスをかけてトレンチ・コートの襟を立て、マセラティから下りてくる五反田君の姿を想像した。チャーミングだ。ラジアル・タイャの宣伝みたいだ。僕は頭を振ってブラインドの残りを拭いた。もうよせ、今日は現実的になる日なのだ。
五時に僕は原宿まで散歩して、竹下通りでエルヴィスのバッジを捜した。でもエルヴィスのバッジは簡単にはみつからなかった。キッスやジャーニーやらアイアン・メイデンやらAC/DCやらモーターベッドやらマイケルジャクソンやらプリンスやら、そういうのはいっぱいあったが、エルヴィスのはなかった。でも三軒目の店でやっと「ELVIS・THE KING」というのをみつけて、それを買った。僕は冗談で店員にスライ&ザ・ファミリー・ストーンのバッジはないかと尋ねてみた。小型の風呂敷くらいあるリボンをつけた十七か十八の女の店員が唖然とした顔で僕を見た。
「それ何?聞いたことない。ニュー・ウェーブとかパンクとかそういうの?」
「まあ、だいたいその中間くらいだけど」
「最近新しいのいっぱい出てくんのよね。ホント。ウソみたい」と彼女は言って舌打ちした。
「とてもついてけない」
「まったく」と僕は同意した。
僕はそれから『つる岡』でビールを飲み、天麸羅を食べた。そのようにして漫然と時が流れ、日が沈んだ。サンライズ・サンセット。僕は一人の平面的パックマンとしてあてもなくただぱくぱくと点線を食べ続ける。事態は全然進展していないように感じられる。僕は何処にも近づいていないように思える。途中からどんどん伏線が増えてきてしまった。そして肝心のキキとつながる線はぷっつりと跡絶えてしまった。僕は脇道をどんどん進んでいるような気がする。メイン・イベントにたどりつく前に付属演芸に関わって時間と労力を無駄に費やしているような気がする。でもいったいメイン・イベントは何処でやっているんだろう?そして本当にやっているんだろうか?
夜中までやることがなかったので、七時から渋谷の映画館でポール・ニューマンの『評決』を見た。悪くない映画だったが途中で何度も考え事をしたので映画の筋がずたずたに分断されてしまった。スクリーンを見ていると、そこにキキの裸の背中がふっと現れるような気がしてきて、それでつい彼女のことをいろいろと考えてしまうのだ。キキーー君は僕に何を求めているのだ?
映画のエンドマークが出ると、僕は殆ど筋のわからないままに席を立って外に出た。街を少し歩き、時々行くバーに入ってナッツを齧りながらウォッカ・ギムレットを二杯飲んだ。そして十時過ぎに家に戻って、本を読みながら五反田君からの電話を待った。僕は時々電話機の方にちらっと目をやった。電話機がじっと僕を見ているような気がしたからだ。神経症的だ。
僕は本を放り出してベッドに仰向けに寝転び、土に埋めた猫のいわしのことを考えてみた。あれはもう骨だけになってしまっているんだろうな、と僕は思った。土のなかは静かだろう。そして骨もまた静かだ。骨は真っ白で綺麗だ、と刑事は言った。そして何も語らない。僕は林の中の土の下にそれを埋めたのだ。西友ストアの紙袋につめて。
何も語らない。
気がつくと無力感が静かに音もなく、水のように部屋に満ちていた。僕はその無力感をかきわけるようにして浴室に行き、『レッド・クレイ』を口笛で吹きながらシャワーを浴び、台所に立って缶ビールを飲んだ。そして目を閉じてスベイン語で一から十まで数え、声を出して「おしまい」と言って、手をぱんと叩いた。それで無力感は風に吹き飛ばされるようにさっと消えた。これが僕のおまじないなのだ。一人で暮らす人間は知らず知らずいろんな能力を身につけるようになる。そうしないことには生き残っていけないのだ。

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