ダンス・ダンス・ダンス

五反田君と僕は、彼のメルセデスに乗って、麻布の裏通りにあるバーに酒を飲みに行った。そこのカウンターの端っこの方で僕らはカクテルを何杯かずつ飲んだ。五反田君は酒に強いらしく、どれだけ飲んでもまったく酔っぱらわなかった。口調にも表情にも変化らしい変化は見えなかった。彼は酒を飲みながらいろんな話をした。TV局の下らなさについて。デイレクターの頭の悪さについて。吐き気のするような下品なタレントたちについて。ニュースショーに出てくるインチキな評論家について。彼の話はなかなか面白かった。表現がい
きいきしていて、観察は辛辣だった。
それから彼は僕の話を聞きたいと言った。君はどういう人生を辿ってきたのだろう、と。それで僕は自分の人生をかいつまんで話した。大学を出てから、友達と事務所を開いて広告とか編集のような仕事をしたこと。結婚し、離婚したこと。仕事は上手く行っていたのだが、ちょっとした事情があってそこを辞め、今はフリーのライターをしていること。たいした金にはならないが、どうせ金を使う暇もないこと…。かいつまんで話すと、それは物静かな人生のように感じられた。なんだか僕の人生ではないみたいだった。
そのうちにバーが少しずつ混んできて、話がしづらくなってきた。彼の顔をじろじろ見る人間も出てきた。「僕の家に行こう」と五反田君は言って立ちあがった。「すぐ近くだし、誰もいない。酒もある」
彼のマンションはそのバーから一「三回角を曲がったところにあった。彼はメルセデスの運転手にもう帰っていいと言った。立派なマンションだった。エレベーターが二つあり、一つには専用の鍵が必要だった。
「このマンションは離婚して家を追い出された時に事務所が買ってくれたんだ」と彼は言った。「有名な映画俳優が女房に家を追い出されて一文なしで安アパートに住んでいちゃまずいからね。イメージが壊れる。もちろん僕が家賃を払ってる。形式としては僕が事務所からここを借りてるわけだね。家賃は経費で落ちる。ちょうどいい」
彼の部屋は最上階にあった。広々とした居間と部屋が二つ、それに台所がついていた。べランダがあり、そこから東京タワーがひどくくっきりと見えた。家具の趣味は悪くなかった。シンプルで清潔で見るからに金がかかっていた。居間の床は板張りで、その上に大きさの違うベルシャ絨毯が何枚か敷かれていた。どれも上品な柄だった。ソファは大きく、固すぎもせず、柔らかすぎもしなかった。大きな観葉植物の鉢が幾つか効果的に配されていた。天井から下がったペンダント照明とテーブルの上のスタンドはイタリア・モダン風のものだった。装飾品は少なかった。サイドボードの上に明朝のものらしい皿が何枚か並んでいるだけだった。部屋はちりひとつなく片付いていた。たぶん通いのメイドが毎日掃除をしていくのだろう。テーブルの上には『GQ』と建築雑誌が載っていた。
「良い部屋だ」と僕は言った。
「撮影に使えそうだろう?」と彼は言った。
「そういう気もする」と僕はもう一度部屋の中を見回してから言った。
「インテリアデザイナーに頼むとみんなこうなるんだ。撮影現場みたいになる。写真うつりが良い。時々壁を叩いてみるんだ。はりぼてじゃないかなっていう気がしてさ。何かこうね、生活の匂いってものがない。見ばえだけだ」
「じゃあ、君が生活の匂いを出せばいい」
「問題は生活がないことなんだ」と彼は無表情な声で言った。
彼はB&Oのブレイヤーにレコードを乗せて、針を降ろした。スピーカーは懐かしいJBLのP88だった。JBLが神経症的なスタディオ・モニターを世界にばらまく前の時代、まだスピーカーがまともな音で鳴っていた時代の素敵な製品だった。彼のかけたのはボブ・クーパーの古いLPだった。「何がいい?何が飲みたい?」と彼が訊いた。
「何でもいい。君の飲むものを飲む」と僕は言った。
彼はキッチンに行って、ウォッカとトニック・ウォーターの瓶を何本かとアイスペールにいっぱいの氷と半分に切ったレモンを三つ、盆に載せて持ってきた。そして僕らはクールで清潔なウェスト・コーストジャズを聴きながらレモンをきかせたウォッカ・トニックを飲んだ。確かに生活の匂いというのが希薄だな、と僕は思った。何がどうというのではないのだが、何となく希薄なのだ。でもそういうものが希薄だからといって、とくに不自由はないような気がした。要は考え方の問題なのだ。僕にとってはそれはとても落ち着ける部屋だった。僕は気持ちの良いソファの上でリラックスして酒を飲んだ。
「いろんな可能性があった」と五反田君はグラスを顔の上にあげて天井のライトにすかせて見ながら言った。「なろうと思えば医者にだってなれた。大学の時は教職課程だって取った。一流の会社につとめることもできた。でも結局こうなった。こういう生活。変なものだ。目の前にカードがずらっと並んでた。どれを取ることもできた。どれを取っても上手く行くだろうと思っていた。自信はあった。だからかえって選べなかった」
「カードなんて見たこともなかった」と僕は正直に言った。彼は目を細めて僕の顔を見て、それからにっこり笑った。たぶん冗談だと思ったのだろう。
彼はおかわりをグラスに注ぎレモンをぎゅっと絞って、皮をごみ箱に放って捨てた。「結婚でさえ成り行きだった。僕と女房は映画で共演して、なんとなく親しくなったんだ。ロケ先で一緒に酒をのんだり、車を借りてドライブしたりしてね。映画が終わってからも、何度かデートした。まわりも僕らは似合いのカップルで、結婚するだろうと思っていた。結局流されるみたいに結婚した。君にはわからないと思うけど、ここは本当に狭い世界なんだ。路地の奥の長屋で暮らしているのと同じだよ。一度流れが作りだされると、それは全くのリアルな力を帯びてくるんだ。でも僕は彼女のことは本当に好きだった。あの子は僕がこの人生で手にしたものの中ではいちばんまともなもののひとつだ。結婚してから僕はそのことを認識した。そして僕はきちんと彼女を僕のものにしようとした。でも駄目だ。僕が真剣にそれを選びとろうとすると、それは逃げていくんだ。女にしても、役にしても。向こうから来るものなら僕は最高に上手くこなせる。でも自分から求めると、みんな僕の手の指の間からするっと逃げていくんだ」
僕は黙っていた。何も言えなかった。
「暗く考えているわけじゃない」と彼は言った。「僕は彼女のことがまだ好きなんだよ。それだけのことだ。ときどきこう考える。僕が俳優をやめて、彼女も女優をやめて、二人でのんびりと暮らせたらどんなに素敵だろうって。ファプショナブルなマンションもいらない。マセラテイもいらない。何もいらない。まっとうな仕事と、小さなまっとうな家庭があればそれでいい。子供も欲しい。仕事の帰りに友達とどこかの飲み屋に寄って酒を飲んで愚痴を言う。そして家に帰ると彼女がいる。月賦でシビックかスバルを買う。そういう生活。よく考えてみれば僕が望んでいるのはそういう生活だったんだよ。彼女がいてくれさえしたら、それでいい。でも駄目なんだ。彼女はそれとは違うことを望んでいる。家族がみんな彼女に期待している。母親は典型的なステージ・ママで、父親は金の亡者だ。兄貴がマネージメントをやっている。弟はしょっちゅう問題を起こしていて、その始末に金がかかる。妹は歌手として売りだし中だ。とても抜けられない。そして彼女自身も三つか四つの歳からそういう価値観をしっかりと植えつけられているんだ。ずっと子役でこの世界で生きてきた。作られたイメージの中で生きている。僕や君とは全然違う。現実の世界というものが理解できてないんだ。でもとても心の綺麗な女だ。素晴らしく清らかなものを持っている。僕にはそれがわかる。でも駄目だ。どうしようもない。ねえ、知ってるかい、僕は先月彼女と寝たんだ」
「別れた奥さんと?」
「そう。異常だと思う?」
「別に異常だとは思わない」と僕は言った。
「この部屋に来たんだ。どうして来たのかはわからない。電話がかかってきて、遊びに行っていいかって言うんだ。もちろんいいって言った。そして二人で昔みたいに酒を飲んで、話をして、そして寝た。すごく素敵だったよ。彼女は僕のことがまだ好きだと言った。僕は君とやりなおせたらどんなに素敵だろうって言った。彼女は何も言わなかった。にこにこして話を聞いているだけだった。僕は平凡な家庭の話をした。さっき君に言ったようなやつさ。彼女はやはりにこにこして話を聞いていた。でも本当はそんなのぜんぜん聞いてないんだ。最初から聞いてないんだ。話していても手応えというものがないんだ。まるっきり無駄なんだよ。彼女はただ寂しくて誰かに抱かれたかっただけなんだよ。たまたまその相手が僕だったというだけのことなんだ。ひどい言い方かもしれないけど、本当にそうなんだよ。彼女は僕や君とは全然違うんだ。寂しいというのは彼女にとっては誰かに解消してもらう感情なんだ。誰かが解消してやればそれでいいんだ。それでおしまい。そこからどこにもいかない。でも僕はそうじゃない」
レコードが終わり、沈黙が訪れた。彼は針を上げ、しばらく何かを考えていた。
「ねえ、女を呼ばないか?」と五反田君は言った。
「僕は何でも構わないよ。君の好きにすればいい」と僕は言った。
「金を払って女と寝たことはある?」と彼が訊いた。
ない、と僕は言った。
「どうして?」
「思いつきもしなかった」と僕は正直に答えた。
五反田君は肩をすぼめて、それについてしばらく考えていた。「でも今夜は僕につきあった方がいい」と彼は言った。「キキと一緒に来てた女の子を呼ぶよ。何か彼女についてわかるかもしれない」
「君にまかせる」と僕は言った。「でもまさかこれは経費じゃ落ちないだろう?」
彼は笑いながらグラスに氷を入れた。「信じないかもしれないけど、落ちるんだよ、それ。そういうシステムになってるんだ。パーティー・サービス会社という建前になっていて、ちゃんとクリーンなぴかぴかの領収書を切ってくれるんだ。調べが入っても簡単にはわからないような複雑な仕組みになっている。そして女と寝るのが見事に接待費になる。凄い世の中だ」
「高度資本主義社会」と僕は言った。
女の子が来るのを待っている時に、僕はふとキキの素敵な耳のことを思い出して、五反田君にキキの耳を見たことがあるかと聞いてみた。
「耳?」とよくわからない顔をして彼は僕を見た。「いや、見てないな。見たかもしれない、覚えていない。耳がどうかしたの?」
なんでもない、と僕は言った。
女の子がふたりやってきたのは十二時少し過ぎだった。一人は五反田君が「ゴージャスと表現したキキとコンビを組んでいた女の子だった。彼女は確かにすごく「ゴージャス」だった。どこかでふと巡り合ってその時は口もきかなかったけれど、それでもずっと会ったことを覚えているというタイプの女の子だった。男の永遠の夢をかきたてるような、そんな女の子。けばけばしくない。品が良い。彼女はトレンチ・コートの下に緑のカシミアのセーターを着ていた。そしてごく普通のウールのスカート。装身具は小さくてシンプルなピアスだけだった。品の良い女子大の四年生という感じだった。
もうひとりの女の子はクールな色合いのワンピースを着て眼鏡をかけていた。眼鏡をかけた娼婦がいるなんて僕は知らなかった。でもちゃんといるのだ。彼女はゴージャスというのではないけれど、やはりとても魅力的な子だった。手足がすらりとして、よく日焼けしていた。先週ずっとグアムに泳ぎに行ってたのと言った。髪は短く、きちんと髪どめでまとめられていた。彼女は銀のブレスレットをつけていた。動作がきびきびとして、肌が滑らかな肉食獣のように優雅にきゅっと締まっていた。
彼女たちを見ていると僕はふと高校のクラスを思い出した。程度の差こそあれ、どちらのタイプの女の子もひとりずつくらいちゃんとクラスにいるのだ。綺麗で品の良い女の子と、活動的でピリっとした感じの魅力的な女の子。まるで同窓会みたいだ、と僕は思った。同窓会が終ったあと、緊張がほぐれたところで気のあった同士で二次会で酒を飲んでいるといった雰囲気だった。馬鹿気た連想だが、本当にそういう気がしたのだ。五反田君がリラックスするという意味がなんとなくわかるような気がした。彼は以前にどちらとも寝たことがあるらしく、女の子たちも彼も気楽に挨拶した。「やあ」とか「元気?」とか、そういう感じだ。五反田君は僕を中学校の同級生で、今は物を書く仕事をしている男だと言って紹介した。よろしく、と女の子たちがにっこりして言った。大丈夫、みんな友達よ、という感じの微笑みだった。現実の世界ではあまりお目にかかれない種類の微笑みだ。よろしく、と僕も言った。僕らは床に座ったり、ソファに寝転んだりして、ブランディー・ソーダを飲み、ジョー・ジャクソンやシックやアラン・パーソンズ・プロジェクトのLPを聴きながらいろんな話をした。とてもリラックスした雰囲気だった。僕らもその雰囲気を楽しんでいたし、女の子たちも楽しんでいた。五反田君は眼鏡をかけた方の女の子を相手に歯医者の演技を見せてくれた。確かに上手かった。本物の歯医者より歯医者らしく見えた。才能だ。
五反田君は眼鏡をかけた女の子の隣に座っていた。彼はひそひそ声で何か話し、女の子がときどきくすくすと笑った。そのうちにゴージャスな方の女の子が僕の肩にそっともたれかかって僕の手を握った。とても素敵な匂いがした。胸が詰まって息苦しくなるような匂いだった。本当に同窓会みたいだ、と僕は思った。あの頃上手く言えなかったけど、本当はあなたのことが好きだったの。どうして私を誘ってくれなかったの?男の、少年の、夢。イメージ。僕は彼女の肩を抱いた。彼女はそっと目を閉じて、鼻先で僕の耳の下を探った。それから僕の首に唇をつけ、柔らかく吸った。ふと気がつくと、五反田君ともう一人の女の子の姿はなかった。たぶんベッドルームに行ったのだろう。もうすこし明かりを暗くしない?と彼女が言った。僕は壁の照明スイッチを探して切り、小さなテーブル・スタンドの光だけにした。気がつくとレコードのかわりにボブ・ディランのテープがかかっていた。曲は『イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー』だった。
「ゆっくり脱がせて」と彼女が耳元で囁いた。僕は言われるままに彼女のセーターやらスカトやらブラウスやらストッキングやらをゆっくりと脱がせた。僕は脱がせたものを反射的に畳みそうになったが、そういう必要はないのだと思いなおしてやめた。彼女も僕の服を脱がせた。アルマーニのネクタイやら、リヴァイスのブルージーンズやら、Tシャッやらを。そしてつるりとした小さなブラとパンティーだけになって、僕の前に立った。
「どう?」と彼女は微笑みながら僕に訊いた。
「素敵だよ」と僕は言った。彼女はとても綺麗な体をしていた。美しく、生命感に溢れ、清潔で、セクシーだった。
「どういう風に素敵?」と彼女は訊いた。「もっとくわしく表現して。うまく表現できたらすごく親切にしてあげる」
「昔を思い出す。高校生の頃」と僕は正直に言った。
彼女はしばらく不思議そうに目を細めて微笑みながら僕を見ていた。「あなたってちょっとユニークね」
「まずい答えだったかな?」
「全然」と彼女は言った。そして僕の隣に来て、僕が三十四年の人生で誰にもしてもらったことのないようなことをしてくれた。デリケートで大胆でちょっと簡単には思いつけないようなことを。でも誰かが思いついたのだ。僕は体の力を抜いて目を閉じ、流れに身を委ねた。それは僕がこれまでに経験したどんなセックスとも異なっていた。
「悪くないでしょう?」と彼女が僕の耳もとで囁いた。「悪くない」と僕は答えた。
それは素晴らしい音楽と同じように心を慰撫し、肉を優しくほぐし、時の感覚を麻痺させた。そこにあるものは洗練された親密さであり、空間と時間との穏やかな調和であり、限定された形での完璧なコミュニケーションだった。おまけにそれは経費で落ちるのだ。「悪くない」と僕は言った。ボブ・ディランは何かを歌っている。なんだっけ、これは?『ハード・レイン』だ。僕は彼女をそっと抱いた。彼女は力を抜いて僕の腕の中に入ってきた。ボブ・ディランを聴きながら経費でゴージャスな女の子を抱くというのは何だか変なものだった。なつかしの一九六○年代にはこんなこと考えられなかった。
これはただのイメージなんだ、と僕は思った。スイッチを押せば全ては消える。3Dの性的イメージ。セクシーなオーデコロンの匂いと、柔らかい肌の感触と、熱い吐息。僕が定められたコースをきちんと辿って射精してしまうと、僕らは二人でバスルームに行って、体を洗った。そして大きなバスタオルだけという格好で居間に戻ってブランディーをちびちびと飲んでダイア・ストレイツやらなにやらのLPを聴いた。
物を書く仕事ってどんな物を書いているの、と彼女は訊いた。僕は仕事の内容をおおまかに説明した。面白そうな仕事じゃないと彼女は言った。書くものによる、と僕は言った。僕がやっているのはいわば文化的雪かきなんだ、と僕は言った。私のやってるのは官能的雪かき、と彼女は言った。そして笑った。ねえ、もう一度二人で雪かきしない、と彼女は言った。それから僕らは絨毯の上で交わった。今度はすごくシンプルに、そしてゆっくりと。でもどのようにシンプルな形態をとっていようとも、彼女はどうしたら僕を喜ばせられるかということをちゃんと承知していた。どうしてそんなことがわかるんだろう、と僕は不思議に思った。
大きな長い浴槽の中にふたりで並んで寝そべりながら、僕は彼女にキキのことを尋ねてみた。
「キキ」と彼女は言った。「懐かしい名前ね。あなたキキのことを知ってるの?」
僕は肯いた。
彼女は子供みたいに唇を小さくすぼめ、ふうっと息をついた。「彼女はもういないわよ。あの人突然消えちゃったの。私たち、けっこう仲が良かったのよ。時々二人で一緒に買い物に行ったり、お酒飲んだりしたの。でも何も言わずに突然いなくなっちゃった。一カ月だか、二カ月だか前に。でも、そういうのって別に珍しいことじゃないのよ。こういう仕事って退職願い出す必要もないし、やめたければ黙ってすっとやめちゃうもの。彼女がいなくなったのは残念だわ。私と彼女とはわりに気があったから。でも、まあ仕方ないわよね。ガール・スカウトやってるわけじゃないんだから」彼女は長く綺麗な指で僕の下腹を撫で、そっとペニスに触れた。「キキと寝たことあるの?」
「昔しばらく一緒に暮らしてたんだ。四年くらい前に」
「四年前か」と言って彼女は微笑んだ。「ずいぶん昔の話みたい。四年前には私はまだおとなしい女子高校生だったわ」
「なんとかしてキキと会えないものかな?」と僕は彼女に聞いてみた。
「むずかしいわね。本当に何処に行ったかわかんないのよ。今も言ったようにただいなくなっちゃったの。まるで壁に吸い込まれたように。手掛かりひとつないし、探そうたって探しようもないんじゃないかしら。ねえ、あなたキキのことが今でも好きなの?」
湯の中でゆっくりと体をのばし、天井を見上げた。僕は今でもキキのことが好きなのか?
「わからない。でもそういうこととは関係なく、僕はどうしても彼女に会わなくちゃいけないんだよ。キキが僕に会いたがっているような気がして仕方ないんだ。ずっと彼女の夢を見続けている」
「変ね」と彼女は僕の目を見て言った。「私も時々キキの夢を見るの」
「どんな夢?」
彼女は答えなかった。ちょっと考えるように微笑んだだけだった。お酒が飲みたいな、と彼女は言った。僕らは居間に戻って床に座って音楽を聴き、酒を飲んだ。彼女は僕の胸にもたれて、僕は彼女の裸の肩を抱いていた。五反田君と彼の相手の女の子は眠ってしまったのか、全然部屋から出てこなかった。
「ねえ、信じないかもしれないけど、あなたとこうしてるの楽しいわ。本当よ。仕事とか演技とかそういうのと関係なく楽しいの。嘘じゃないわよ、これ。信じてくれる?」と彼女は言った。
「信じるよ」と僕は言った。「僕もこうしているととても楽しい。リラックスする。なんだか同窓会みたいだ」
「あなたユニークよね」と彼女はくすくす笑いながら言った。
「キキのことなんだけど」と僕は言った。「誰も知らないのかな。彼女の住所とか、本名とか、そういうの?」
彼女はゆっくりと首を振った。「私たち、そういうこと殆ど話さないのよ。みんな勝手な名前つけて生きてるの。キキとかね。私はメイ。もうひとりの子はマミ。みんな片仮名の二文字なの。私生活のことって、みんな知らないし、そういう事は尋ねないの。相手が自分から言わない限り尋ねないの。礼儀として。仲は良いわよ、けっこう。一緒に遊びにいったりする。でも現実じゃないのよ、それ。相手がどういう人かなんてわかってないの。私はメイで、彼女はキキなの。私たちには現実の生活はないの。私たちはなんていうか、ただのイメージなの。空中に浮かんでいるの。ぽっ、と。名前なんて幻想につけられたただの記号なの。だから私たちもできるだけお互いのイメージを尊重するの。そういうのってわかるかしら?」
「わかるよ」と僕は言った。
「お客の中には私たちに同情する人もいるけど、そういうんじゃないのよ。お金のためにだけこういう事してるんじゃないのよ。私たちだって、こうしてる時、けっこう楽しんでるの。うちのクラブって厳密な会員制だからお客の質だっていいし、みんな私たちのことを楽しませてくれるし。私たちだって、そのイメージの世界を楽しんでいるのよ」
「楽しい雪かき」と僕は言った。
「そう、楽しい雪かき」と彼女は言った。そして僕の胸に唇をつけた。「時々雪のなげっこしたり」
「メイ」と僕は言った。「昔本当にメイという名前の女の子がいた。僕の事務所の隣の歯医者で受付をやってた。北海道の農家で生まれた女の子だった。山羊のメイってみんな呼んでた。色が黒くてやせてた。いい子だった」
「山羊のメイ」と彼女は繰り返した。「あなたの名前は?」
「熊のプー」と僕は言った。
「童話みたい」と彼女は言った。「最高。山羊のメイと熊のプー」
「童話みたいだ」と僕も言った。
「キスして」とメイが言った。僕は彼女を抱いてキスした。素敵なキスだった。懐かしいキス。それから僕らは何杯めかわからなくなったブランディー・ソーダを飲み、ボリスのレコードを聴いた。ボリス、また下らないバンド名。どうしてボリスなんて名前をつけるんだろう?でも僕がそれについて考えているうちに、彼女は僕の腕の中ですやすやと眠ってしまった。僕の腕の中で眠っているときのメイはもうゴージャスな女の子には見えなかった。彼女はどこにでもいるごく普通の傷つきやすい少女のように見えた。同窓会みたい、と僕は
た思った。時計はもう四時を回っていた。あたりはしんと静まりかえっていた。山羊のメイと熊のプー。ただのイメージ。経費で落とせる童話。ボリス。またまた奇妙な一日。繋がりそうで繋がらない。糸を辿っていくと、やがてぷつんと切れる。五反田君と話し合った。彼にある種の好意さえ抱くようになった。山羊のメイと知り合った。彼女と寝た。素敵だった。僕は熊のプーになった。官能的雪かき。でも何処にもたどりつかない。
僕が台所でコーヒーを作っていると、あとの三人が目を覚まして起きてきた。朝の六時半だった。メイはバスローブを着た。マミは五反田君のベイズリーのパジャマの上だけを着て、五反田君はその下をはいていた。僕はブルージーンズにTシャッという格好だった。僕らは四人で食卓についてコーヒーを飲んだ。パンも焼いて食べた。バターやらマーマレードやらを回したoFMの『バロック音楽をあなたに』がかかっていた。へンリー・パーセル。キャンプの朝みたいだった。
「キャンプの朝みたいだ」と僕は言った。
「かっこう」とメイが言った。
七時半に五反田君は電話でタクシーを呼んで女の子たちを帰した。帰る時、メイは僕にキスした。「もしうまくキキに会えたら私がよろしく言ってたって伝えてね」と彼女は言った。僕はそっと彼女に名刺を渡して、もし何かわかったら電話をかけてくれと言った。彼女は肯いて、そうすると言った。
「また機会があったら一緒に雪かきやろうね」とメイは片目をつぶって言った。
「雪かき?」と五反田君が言った。
二人きりになると、僕らはもう一杯コーヒーを飲んだ。僕がコーヒーを作った。僕はコーヒーを作るのが上手いのだ。
静かに音もなく太陽が上り、東京タワーが眩しく輝いていた。
それを見ていると、僕は昔のネスカフェの広告を思い出した。たしかあそこにも朝の東京タワーが出てきたはずだ。東京の朝はコーヒーで始まる……違うかもしれない。何でも良い。でもとにかく東京タワーが朝日に光って、僕らはコーヒーを飲んでいた。それで僕はふとネスカフェの広告を思い出したのだ。
まともな人々が会社や学校に向かって急いでいる時刻だった。でも僕らはそうではなかった。ゴージャスなプロの女の子と一晩楽しんで、ぼんやりとコーヒーを飲んでいた。そしてたぶんこれからぐっすりと眠る。好むと好まざるとにかかわらず、そして程度の差こそあれ、我々はーー僕と五反田君とはーーごく普通の世間の生活様式からははみだしてしまっていた。
「今日はこれからどうするんだい?」と五反田君が首を僕の方に向けて言った。
「家に帰って寝るよ」と僕は言った。「とくに予定は何もない」
「僕はこれから一眠りして、昼に人に会う。打ち合わせがあるんだ」と彼は言った。
それからしばらく、僕らは黙ってまた東京タワーを眺めていた。
「どう、楽しかった?」と五反田君が訊いた。
「楽しかったよ」と僕は言った。
「それで、どうだった?キキのことはなにかわかった?」
 

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