ダンス・ダンス・ダンス
「やあ、久し振り」と五反田君が言った。よくとおる明快な声だった。早すぎもせず、遅すぎもせず、大きすぎもせず、小さすぎもせず、緊張もないが、かといってリラックスしすぎてもいない声だった。完璧な声。それが五反田君の声だということは一瞬にしてわかった。それは一度聞くとなかなか簡単には忘れられない種類の声だった。彼の笑顔や、清潔な歯ならびや、すらりとした鼻筋と同じように、それは簡単には忘れられないのだ。僕は五反田君の声のことなんてそれまで気にしたこともなかったし、思い出したこともなかったけれど、それでもその声はしんとした夜更けによく響く鐘をうち鳴らしたみたいに僕の頭の片隅にこびりついていた潜在的記憶を一瞬にしてありありと蘇らせた。たいしたものだな、たしかに、と僕は思った。
「僕は今日の夜は家にいるからこちらに電話をかけて下さい。どうせ朝まで寝ないから」と彼は言って、電話番号を二度繰り返した。「じゃあまたその時に」と言って彼は電話を切った。局番からすると僕のアパートからそう遠くないはずだった。僕は彼の言った番号をメモしてから、それをゆっくりと回してみた。六回目のコールで留守番電話のテープが出てきた。ただいま留守にしておりますので、メッセージがありましたら吹き込んでくださいと女の声が言った。僕は自分の名前と電話番号と時刻を吹き込んだ。そしてずっとここにいると言った。ややこしい世の中だ。電話を切って台所に行き、セロリを洗い細く切ってマョネーズをつけ、ビールを飲みながらそれを齧っていると電話がかかってきた。ユキからだった。今何してるの、と彼女は言った。台所でセロリを齧ってビールを飲んでると僕は言った。そういうのって惨めね、とユキは言った。それほどでもない、と僕は言った。もっと惨めなことは幾らでもある。彼女がまだよく知らないだけのことなのだ。
「君は今どこにいるの?」と僕は訊いてみた。
「まだ赤坂のアパート」と彼女は言った。「今からどこかにドライブに行かない?」
「悪いけど今日は駄目だ」と僕は言った。「今は仕事の大事な電話を待ってるんだ。また今度にしよう。ねえ、そうだ、昨日の話だけど、羊の皮をかぶった人を君は見たの?その話が聞きたいんだ。それ、すごく大事なことなんだ」
「また今度」と彼女は言って思いきりがちゃんと電話を切った。
やれやれ、と僕は思った。そしてしばらく手に持った受話器を眺めていた。
僕はセロリを齧ってしまってから、夕食に何を食べようかと考えた。スパゲッティにしよう、と僕は思った。にんにくを二粒太めに切ってオリーブ・オイルで妙める。フライパンを傾けて油を溜め、長い時間をかけてとろ火で妙める。それから赤唐辛子をまるごとそこにいれる。そしてそれもにんにくと一緒に妙める。苦みの出ないうちににんにくと唐辛子を取り出す。この取り出すタイミングがけっこう難しい。そしてハムを切ってそこに入れ、かりっとしかけるところまで妙める。そこに茹であがったスパゲγティを入れ、さっとからめてみじん切りにしたパセリを振る。それからさっぱりとしたモツァラ・チーズとトマトのサラダ。悪くない。
でもスパゲッティの湯をわかしかけたところでまた電話のベルが鳴った。僕はガスを消し電話のところに行き、受話器を取った。
「やあ、久し振り」と五反田君が言った。「懐かしいな。元気かい?」
「なんとか元気だよ」と僕ば言った。
「マネージャーが言ってたけど、何か用事があるんだって?まさか一緒にまた蛙の解剖がやりたいっていうんじゃないだろうね?」そして彼は楽しそうにくすくす笑った。
いや、ちょっと聞きたいことがあってね。それで忙しいだろうとは思ったんだけど、電話してみたんだ。ちょっと変な話なんだ。実はね……」
「あのさ、今忙しいの?」と五反田君が訊いた。
「いや、別に忙しくはない。暇だから夕食を作ろうかと思っていたところだよ」
「それはちょうどいい。よかったら外で一緒に晩飯でも食べようよ。僕もちょうど誰か飯を食べる相手がいないかと探してたところなんだ。一人で黙って飯を食ってもあまり美味くなからね」
「でもいいのかな、急にこんな風に電話して。つまりさ、その……」
「遠慮することないだろう。どうせ毎日しかるべき時間がくれば腹が減るし、好むと好まざるとにかかわらず、飯は食べなきゃいけないんだ。君のために無理して飯を食べるわけじゃない。ゆっくり食事して酒でも飲んで二人で昔話をしようよ。もう随分昔の知り合いにも会ってないんだ。君さえ迷惑じゃなきゃ是非会いたいね。それとも迷惑かな?」
「まさか。話があるのは僕の方だよ」
「じゃあ今から君のところに迎えにいこう。何処だい、そこ?」
僕は住所とアパートの名前を言った。
「うん、それなら家の近くだ。二十分くらいで行けるだろう。すぐに出られるように準備しといてくれよ。今けっこう腹が減ってるんだ。長くは待てない」
そうすると言って僕は電話を切った。それから首をひねった。昔話?
僕と五反田君の間にどんな昔話があるのか、僕には全然理解できなかった。僕と彼とは当時とくに仲良かったわけではなかったし、話だってそんなに多くはしなかった。彼は輝かしいクラスのエリートで、僕はどちらかといえば目立たない存在だった。彼が僕の名前を未だに覚えていたことすら僕には奇跡のように思えるのだ。昔話っていったい何だ?話すべき何がある?でもまあいずれにせよ、冷たく鼻であしらわれるよりは、当然のことながらこの方がずっと良かった。
僕は手速く髭を剃り、オレンジのストライプのシャツの上にカルヴァン・クラインのツイードのジャケプトを着て、以前のガールフレンドが誕生日にプレゼントしてくれたアルマーニのニット・タイを結んだ。そして洗ったばかりのブルージーンズをはき、買って間もない真っ白なヤマハのテニスシューズを用意した。それは僕のワードローブの中ではいちばんシックな格好だった。そして相手がこういうシックさを理解してくれればいいのだがと思った。僕はこれまでの人生で映画俳優と一緒に食事をしたことなんて一度もないのだ。そういう時にどんな服を着ていげばいいのかなんて見当もつかない。
ぴったり二十分で彼はやってきた。五十前後の礼儀正しい口のききかたをする運転手が僕の部屋のドア・ベルを押し、五反田君が下で待っていると言った。運転手とくればメルセデスだろうと思ったが、案の定メルセデスだった。それもすごく大きなメタリック・シルバーのメルセデスだった。モーターボートみたいに見える。ガラスは中が見えないようになっている。運転手がかしゃっという気持ちの良い音を立ててドアを開けてくれて、中には五反田君がいた。
「よう、懐かしいねえ」と彼はにっこりと微笑んでいった。握手したりしなかったので、僕はすごくほっとした。
「久し振りだね」と僕は言った。
彼はごく普通のVネックのセーターの上に紺のウィンドブレーカーを羽織り、くたびれたクリーム色のコーデュロイのパンツ一をはいていた。靴は色の褪せたアシックスのジヨギングシューズだった。でも彼の着こなしは見事だった。何でもない服なのに、彼が着るととても上品で気持ち良く見えるのだ。彼は僕の服装をにこにこしながら見ていた。
「シックだね」と彼は言った。「趣味がいい」
「有り難う」と僕は言った。
「映画スターみたいだ」と彼は言った。皮肉ではなく、ただの冗談だった。僕が笑い、彼も笑った。それで少しふたりともリラックスした。それから五反田君は車の中を見回した。「どう、凄い車だろう?これ、必要な時にプロダクションが貸してくれるんだ。運転手つきで。これなら事故も起こさないし、酔っぱらい運転もしないしね。安全なんだ。彼らにとっても、僕にとっても。どっちも幸せになれる」
「なるほど」と僕は言った。
「自分じゃこんなもの運転しない。僕自身はもっと小さい車が好きだな」
「ボルシェ?」と僕は訊いた。
「マセラテイ」と彼は言った。
「僕はそれよりもう少し小さい車が好きだけど」と僕は言った。
「シビック?」と彼が訊いた。
「スバル」と僕は言った。
「スバル」と五反田君は言って、肯いた。「そういえば昔乗ってた。僕が最初に買った車だよ。もちろん経費なんかじゃなくて、自分の金で買った。最初の映画に出たギャラで中古を買ったんだ。僕はすごくそれが気に入ってた。それに乗って撮影所に行ったんだ。二本目で準主役がついた頃だよ。すぐに注意された。お前、スターになりたきゃスバルなんか乗るなって。それで買いかえた。そういう世界なんだ。でもいい車だった。実用的。安い。僕は好きだよ」
「僕も好きだ」と僕は言った。
「どうしてマセラテイなんかに乗ってると思う?」
「わからないな」
「経費を使う必要があるからだよ」と彼はよくない秘密を打ち明けるように眉をひそめて言った。「マネージャーがもっともっと経費を使えっていうんだ。使いかたが足りないって。だから高い車を買うんだ。高い車を買うと経費がいっぱい落ちる。みんな幸せになる」
やれやれ、と僕は思った。みんな経費以外のことが考えられないのか?
「腹が減った」と彼は言って首を振った。「分厚いステーキが食べたい。つきあってくれるかな?」
まかせると僕が言うと、彼は運転手に行き先を告げた。運転手は黙って肯いた。それから五反田君は僕の顔を見て微笑み、「さて」と言った。「個人的な話になるけど、一人で夕食の支度をしているとなると、君はおそらく独身なんだろうな?」
「そうだよ」と僕は言った。「結婚して、離婚した」
「じゃあ、僕と一緒だ」と彼は言った。「結婚して、離婚した。それで慰謝料は払ってる?」
「払ってない」と僕は言った。
「一銭も?」
僕は首を振った。「受け取らないんだ」
「幸運な男だ」と彼は言った。そしてにっこりと笑った。「僕も慰謝料は払ってないけど、結婚のせいで一文なしになっちゃった。僕の離婚の話は少しは知ってる?」
「漠然と」と僕は言った。彼はそれ以上は何も言わなかった。
彼は四年か五年前に人気女優と結婚して、二年ちょっとで離婚していた。週刊誌がそれについてはいろいろと書きまくった。例によって真相はよくわからない。でも結局は相手の女優の家族と彼との折り合いが悪かったということらしかった。よくあるケースだ。相手の女優には公私両面にわたってタフな親族がぎっしりとしがみついている。彼の方はどちらかといえば坊ちゃん育ちで、のんびりとひとりで生きてきたというタイプだ。上手くいくわけがない。
「不思議な話だ。この間まで一緒に理科の実験をしてたと思ったら、次に会ったときはどちらも離婚経験者ときてる。不思議だと思わない?」とかれはにこやかに言った。そしてひとさし指の先で瞼を軽く撫でた。「ところで、君の方はどうして離婚することになったの?」
「すごく簡単だよ。ある日女房が出ていったんだ」
「突然?」
「そう。何も言わずに。突然出ていった。予感すらなかった。家に帰ったらいなかった。何処かに買い物にでも行ったんだろうと僕は思っていた。それで晩飯を作って待っていた。でも朝になっても帰ってこなかった。一週間経っても、一カ月経っても帰ってこなかった。それから離婚請求の用紙が送られてきた」
彼はそのことについてしばらく考えていた。そして溜め息をついた。「こういう言い方は君を傷つけるかもしれないけど、でも君は僕より幸せだと思う」と彼は言った。
「どうして?」と僕は訊いた。
「僕の場合、女房は出ていかなかった。僕が叩き出されたんだ。文字通り。ある日叩きだされた」そして彼はガラス越しにじっと遠くの方を見た。「ひどい話だよ。何から何まで計画的だったんだ。きちんと全部計画されてたんだ。詐欺と同じさ。知らないうちにいろんなものの名義がどんどん書き換えられていた。あれは実に見事なものだった。僕はそんなこと何ひとつ気がつかなかった。僕は彼女と同じ税理士に頼んでいて任せきりにしてたんだ。信用していた。実印だって、証書だって、株券だって、通帳だって、税金の申告に必要だから預けろと言われれば何の疑問も抱かずに預けた。僕はそういう細かいことは苦手だし、任せられるものなら任せたいものね。ところがそいつが向こうの親戚とつるんでいたんだな。気がついたら僕はきれいに一文なしになっていた。骨までしゃぶられたようなもんだ。そして僕は用の無くなった犬みたいに叩きだされた。いい勉強になった」そして彼はまたにっこりと笑った。「それで僕も少し大人になった」
「もう三十四だよ。みんな嫌でも大人になる」と僕は言った。
「たしかにそうだ。そのとおりだ。君の言うとおりだよ。でも、人間って不思議だよ。一瞬で年を取るんだね。まったくの話。僕は昔は人間というものは一年一年順番に年をとっていくんだと思ってた」と五反田君は僕の顔をじっとのぞきこむようにして言った。「でもそうじゃない。人間は一瞬にして年を取るんだ」
五反田君が連れていってくれたのは六本木のはずれの静かな一角にある見るからに高級そうなステーキハウスだった。
玄関にメルセデスを停めると、店の中からマネージャーとボイが出てきて我々を迎えた。五反田君は一時間ほどしてから来てくれと運転手に言った。メルセデスはききわけの良い巨大な魚のように、音もなく夜の闇の中に消えていった。僕らは少し奥まった壁際の席に通された。店の中はファッショナブルな服装の客ばかりだったが、コーデュロイ・パンッとジョギング・シューズという格好の五反田君がいちばんシックに見えた。どうしてかはわからない。でもとにかく彼はどうしようもなく目立つのだ。我々が中に入っていくと客はみんな目を上げて彼の方をちらりと見た。そして二秒だけ見てから視線をもとに戻した。たぶんそれ以上長く見るのは失礼にあたることなのだろう。複雑な世界だ。
僕らは席につくとまずスコッチの水割りを注文した。「別れた女房たちのために」と彼は言った。そして僕らはウィスキーを飲んだ。
「馬鹿気た話だけど」と彼は言った。「僕は彼女のことがまだ好きなんだ。あんなにひどい目にあったっていうのに、それでもまだ僕は彼女のことが好きだ。忘れられない。他の女が好きになれない」
僕はクリスタルのタンブラーの中のものすごく上品な形に割られた氷を眺めながら肯いた。
「君はどう?」
「僕が別れた女房のことをどう思うかってこと?」と僕は訊いた。
「そう」
「わからない」と僕は正直に言った。「僕は彼女に行って欲しくなかった。でも彼女は行ってしまった。誰が悪いのかはわからない。でもそれは起こってしまったことだし、もう既成事実なんだ。そして僕は時間をかけてその事実に馴れようとしてきたんだ。それに馴れるという以外のことは何も考えないようにしてきた。だからわからない。
「うん」と彼は言った。「ねえ、こういう話は君にとって苦痛かな?」
「そんなことはない」と僕は言った。「これは事実なんだよ。事実を避けるわけにはいかない。だから苦痛というんじゃないね。よくわからない感覚だ」
彼はぱちんと軽く指を鳴らした。「そう、それだよ。よくわからない感覚。まさにそのとおりだ。引力が変化しちゃったょうな感覚。苦痛ですらない」
ウェイターがやってきて、僕らはステーキとサラダを注文した。ふたりとも焼き具合はミディアム・レアだった。それから僕らは二杯目の水割りを注文した。
「そうだ」と彼は言った。「君は僕に何か用事があるんだったね。先にそれを聞いておこう。酔っぱらわないうちにね」
「ちょっと変な話なんだ」と僕は言った。
彼は気持ちの良い笑顔を僕に向けた。よく訓練されてはいるけれど、嫌味のない笑顔だった。
「変な話って好きだよ」と彼は言った。
「このあいだ君の出た映画を見た」と僕は言った。
「『片想い』」と彼は眉をしかめて、小さな声で言った。「ひどい映画。ひどい監督。ひどい脚本。いつもと同じだ。あの映画に関わった人間はみんなあのことは忘れたがっている」
「四回見た」と僕は言った。
彼は虚無をのぞきこむょうな目つきで僕を見た。「賭けてもいいけど、あの映画を四回見た人間なんてどこにもいないぜ。この銀河系宇宙のどこにも。何を賭けてもいい」
「知っている人間があの映画に出てたんだ」と僕は言った。それから「君以外に」とつけくわえた。
五反田君はひとさし指の先でこめかみを軽く押さえた。そして目を細めて僕を見た。
「誰?」
「名前は知らないんだ。日曜日の朝に君と寝ている役の女の子」
彼はウィスキーを一口飲み、それから何度か肯いた。「キキ」
「キキ」と僕は繰り返した。奇妙な名前だ。別の人物のように感じられる。
「それが彼女の名前だよ。少なくともだれもその名前しか知らない。我々の小さな奇妙な世界では彼女はキキという名前で通っていたし、それで十分だっ
た。」
「彼女に連絡がつけられるだろうか?」
「駄目だね」と彼は言った。
「どうして?」
「最初から話そう。まずだいいちにキキは職業的な女優じゃない。だから話がややこしいんだ。俳優というものは有名であれ無名であれ、みんなきちんとどこかのプロダクションに属している。だからすぐに連絡がつけられる。大抵の連中はみんな電話の前に座って連絡を待ってる。でもキキはそうじゃない。どこにも属していない。彼女はたまたまあの映画に出ただけなんだ。完全なパートタイムなんだ」
「どうしてあの映画に出ることになったんだろう?」
「僕が推薦した」と彼はあっさりと言った。「僕がキキに映画に出ないかと言って、それで監督にキキを推薦したんだ」
「どうして?」
彼はウィスキーを一口飲んで、ちょっと唇を歪めた。「あの子には才能のようなものがあったからだよ。何というかな、存在感。そういうのがあるんだ。感じるんだよ。凄い美人というのでもない。演技力がどうこうというんでもない。ただあの子がいるだけで画面がしまるんだよ。きちっと。そういうのってね、才能の一種なんだ。だから映画に出してみた。結果は良かったよ。みんなキキのことは気に入ってたね。自慢するわけじゃないけどね、あのシーンはよくできてたよ。リアルだった。そう思わない?」
「そうだな」と僕は言った。「リアルだ。たしかに」
「で、僕はあの子をそのまま映画の世界に入れようと思ったんだ。あの子ならかなりやれたと思うからさ。でも駄目だった。消えちゃった。これが第二の問題点だ。彼女は消えてしまった。煙の如く。朝露のごとく」
「消えた?」
「うん、文字通り消えちゃったんだ。一カ月くらい前のことなんだけど、オーディションに来なかったんだ。オーディションにさえ出れば、その新しい映画でかなりきちんとした役がつくように根回ししてセットしておいたんだ。そして前の日に電話をかけて、ちゃんと時間の打ち合わせまでしたんだ。時間に遅れないように来るんだよって。でも結局キキは姿を見せなかった。それでおしまい。それっきりさ。どこにも見当たらない」
彼は指を一本上げてウェイターを呼び、水割りのお代わりを二杯注文した。
「ひとつ質問があるんだけど」と五反田君は言った。「君はキキと寝たことあるのかな?」
「ある」と僕は言った。
「それで、うん、つまりさ、もし僕が彼女と寝たことあるって言ったら君は傷つくだろうか?」
「傷つかない」と僕は言った。
「良かった」と五反田君は安心したように言った。「僕は嘘をつくのが苦手なんだ。だからちゃんと言っておくよ。僕は何度か彼女と寝た。良い子だよ。ちょっと変わったところがあるけど、でも何かしら人に訴えかけるところがある。女優になればよかったんだ。いいところまで行ったかもしれない。残念だね」
「連絡先はわからないの?本名とかそういうの?」
「駄目だね。調べようがない。誰も知らない。キキとしかわからない」
「映画会社の経理部に支払い伝票があるだろう?」と僕は言った。「ギャラの支払い伝票。そういうのって本名と住所が必要なはずだよ。源泉徴収があるから」
「もちろんそれも調べてみたさ。でも駄目なんだ。彼女はギャラを受け取ってないんだ。金を受け取ってないから、受取もない。ゼロだ」
「どうして金を受け取らなかったんだろう?」
「僕に聞かれても困る」と五反田君は三杯目の水割りを飲みながら言った。
「名前とか住所を知られたくないからだろうか?わからない。彼女は謎の女なんだ。でもとにかく僕と君のあいだには三つの共通点ができた。第一に中学校の理科の実験班が同じ。第二にどちらも離婚している。第三にどちらもキキと寝ている」
やがてサラダとステーキがやってきた。立派なステーキだった。絵に描いたような正確なミディアム・レアだった。五反田君はとても気持ちよさそうに食事をした。彼のテーブル・マナーはかなりカジュアルで、マナー教室ではとても良い点は貰えなかっただろうが、でも一緒に食事をするぶんには気楽だったし、それに見ていてとても美味しそうだった。女の子が見たらチャーミングと言うことだろう。そういう身のこなしというのは急に身につけようと思ってもつくものではない。生来のものなのだ。
「ところで、君はどこでキキと知り合ったの?」と僕は肉を切りながら聞いてみた。
「どこだったかな?」と彼は少し考えた。「そう、女の子を呼んだときに、彼女がついてきたんだ。女の子って、ほら、電話で呼ぶやつ。わかるだろう?」
僕は肯いた。
「離婚してからね、ずっとだいたいそういう女の子と寝てたんだ。面倒がないから。素人はまずいし、同業者相手だと週刊誌に書きたてられるし。電話一本で来てくれる。料金は高いよ。でも泌密は守る。絶対に守る。プロダクションの人間が紹介してくれたんだ。女の子もみんな良い子だよ。気楽だ。プロだからね。でもすれてない。お互い楽しむ」
彼は肉を切ってゆっくりと味わって食べ、水割りを一口飲んだ。
「ここのステーキ悪くないだろう」と彼は言った。
「悪くない」と僕は言った。「文句のつけようがない。良い店だ」
彼は肯いた。「でも月に六回も来れば飽きる」
「どうして六回も来るんだ?」
「馴染みだからだよ。僕が入ってきても誰も騒がない。授業員がひそひそ囁いたりもしない。客も有名人に馴れてるから、じろじろ見たりもしない。肉を切ってるときにサインを求められたりもしない。そういう店じゃないと落ち着いて食事もできないんだ。真剣な話」
「苦労の多い人生みたいだ」と僕は言った。「経費もつかわなくちゃならないしね」
「まったく」と彼は言った。「それでどこまで話したっけ?」
「コールガールを呼んだところまでだよ」
「そう」と言って五反田君はナプキンの端で口許を拭った。「で、ある日いつもの馴染みの女の子を呼んだんだ。ところが、その子はいなかった。それで別の女の子が二人来たんだ。どっちか選べってこと,なんだろうね。僕は上客だからね、サービスがいいんだ。そのうちの一人がキキだった。どうしようかと思ったけれど、選ぶのが面倒だったから、二人と寝た」
「ふん」と僕は言った。
「傷つかない?」
「大丈夫。高校時代なら傷ついたかもしれないけど」
「高校時代には僕だってそんなことしなかった」と五反田君は笑って言った。「まあとにかく、その二人と寝た。不思議な組み合わせだった。つまりね、
もう一人の女の子の方はすごくゴージャスなんだ。びりっとくるくらいゴージャスなんだ。すごい美人で、体の隅々まで金がかかっている。これ嘘じゃないよ。僕だってこの世界でいろいろ綺麗な女は見てるけど、あれはその中でもけっこういい方だね。性格だっていいんだ。頭も悪くない。ちゃんとした話もできる。ところがキキの方はそうじゃないんだ。それほど美人っていうんでもない。うん、綺麗だよ。でもね、そこのクラブの子ってさ、みんなぱりっとした美人なんだよ。彼女はなんというか……」
「カジュアル」と僕は言った。
「そう、それだよ。カジュアルなんだ。実に。洋服だって普段着だし、話だってロクにしないし、化粧気もあまりないし。どうでもいいやって感じだし。でもさ、不思議なんだけどね、だんだん彼女の方に心が引かれてくるんだ。キキの方に。三人でやったあとで、みんなで床に座って酒を飲みながら、音楽を聞いたり、話をしたりした。久し振りに楽しかった。学生時代みたいで。そんな風にリラックスできるのって、ずっとなかったんだ。それから何度かその三人で寝た」
「いつごろのこと?」
「離婚して半年くらいあとのことだから、そうだな、一年半くらい前のことかなあ」と彼は言った。「その三人で寝たのはたぶん五回か六回くらいのことだったと思うよ。キキとふたりだけで寝たことはないね。どうしてだろう?寝てもよかったのにな」
「どうしてだろう?」と僕も聞いてみた。
彼はナイフとフォークを皿の上に置いて、またひとさし指をこめかみに軽くつけた。それが彼が物を考えるときの癖らしかった。チャーミング、と女の子なら言うだろう。
「あるいは怖かったからかもしれない」と五反田君は言った。
「怖い?」
「あの子と二人きりになるのがさ」と彼は言った。そしてナイフとフォーク を取り上げた。
「キキの中にはさ、何か人を刺激し、挑発するものがあるんだ。少なくとも僕はそういう感じを持ってたんだ。ごく漠然とだけどね。いや、挑発っていうんじゃないね。うまく言えない」
「示唆し、導く」と僕は言ってみた。
「うん、そうかも知れない。よくわからない。僕が感じたのは、すごく漠然としたものだからね。正確なことは何とも言えない。でも、とにかく彼女とふたりきりになるのは、何かしら気が進まなかった。本当は彼女の方にずっと心が引かれていたんだけれどね。僕の言ってることは何となくわかってもらえるかな?」
「わかるような気はする」
「要するにね、キキと二人で寝ても、僕はリラックスできなかったんじゃないかと思うんだ。彼女と関わると僕はもっと深いところに行ってしまいそうな気がしたんだ。なんとなく。でも僕はそういうのを求めていたわけじゃなかった。僕はただリラックスするために女の子と寝たかっただけなんだ。だからキキと二人では寝なかった。彼女のことはとても好きだったんだけどね」
それから我々ばしばらく黙って食事をした。
「オーディションにキキが来なかった日に、僕はそのクラブに電話をかけてみた」としばらくあとで五反田君は思い出したように言った。「そしてキキを指名した。でも彼女はいなかった。彼女はいなくなったって言われた。消えたんだよ。ふっと。あるいは僕が電話してもキキはいないってことにしてあるのかもしれない。それはわからないね。確かめようのないことだから。でもいずれにせよ、彼女は僕の前から消えてしまった」
ウェイターがやってきて皿を下げ、食後にコーヒーをお持ちしましょうか、と訊いた。
「コーヒーより酒がもっと飲みたいな」と五反田君は言った。「君はどう?」
「つきあうよ」と僕は言った。
四杯目の水割りが運ばれてきた。
「今日の昼間僕が何してたと思う?」と五反田君が言った。
わからない、と僕は言った。
「ずっと歯医者の助手をやってた。役作りのためさ。今TVの連続ドラマで歯医者の役やってるんだ。僕が歯医者で中野良子が眼科医なんだ。どっちの病院も同じ町内にあってね、幼な馴染みなんだけど、なかなか上手くむすびつかなくて…、そういう話。よくある話だけど、どうせTVドラマなんてみんなよくある話だ。見たことある?」
「見たことない」と僕は言った。「TVって見ないんだ。ニュースしか。ニュースだって週に二回くらいしか見ない」
「賢明だ」と五反田君はうなすきながら言った。「下らない番組だよ。自分が出てなきゃ僕だって絶対に見ない。でも人気はある。本当にすごく人気があるんだ。よくある話というのは大衆に支持されるんだ。毎週投書がいっぱいくる。全国の歯医者が手紙出してくるんだ。手付きが違うとか治療法が間違ってるとか、なんやらかんやらそういう細かい抗議してくるんだ。こういういい加減な番組を見ているとイライラするとかね。嫌なら見なければいいんだ。そう思わない?」
「そうかもしれない」と僕は言った。
「でもね、医者とか学校の先生の役となるといつも僕にお呼びがかかるんだ。医者の役なんて数限りなくやった。やってないのは肛門科医くらいだ。あれはTVうつりが悪いから。獣医だってやった。産婦人科医もやった。学校の先生も全教科やったよ。信じないかもしれないけど、家庭科の先生までやった。どうしてだろう?」
「信頼感が持てるんじゃないかな?」
五反田君は肯いた。「多分ね。多分そうだと思う。昔、屈折した中古車のセールスマンの役をやったことがある。片目が義眼で、やたら口が上手い役。僕はすごくその役が好きだった。やりがいもあった。うまくやれたと思う。でも駄目だった。投書がいっぱい来るんだ。僕にあんな役をやらせるのはひどい、可哀そうだってね。僕にこんな役をつけるんならもうその番組のスポンサーの商品は買わないっていうんだ。なんだっけな、あの時のスポンサーは?ライオン歯磨とかそういうんだっけな、いやサンスターだっけな、忘れた。でもとに
かく途中で僕の役は消えちゃったんだ。消滅した。けっこう重要な役だったんだけど、自然消滅した。面白い役だったのにね……それ以来また医者・医者・先生・先生の連続だよ」。
「複雑そうな人生だね」
「あるいは単純な人生」と彼は笑って言った。「で、まあ、今日はその歯医者のところで助手をしながら、医療技術の勉強をしていた。もう何度もそこには行ってるんだ。随分技術も向上した。本当だよ。先生も褒めてくれる。実を言うと単純な治療ぐらい出来るようになった。誰も僕だってわからない。マスクしてるしさ。でもね、僕と話すと患者はみんなすごくリラックスするんだ」
「信頼感」と僕は言った。
「うん」と五反田君は言った。「僕も自分でそう思う。そして、そういうことをしている時って、自分でもすごくリラックスしているんだ。僕は本当に医者とか先生とかに向いてたんじゃないだろうかと自分でもよく思う。現実にそういう職に就いてたら僕は幸せな人生を送っていられたんじゃないだろうかってね。それは別に不可能なことじゃなかったんだ。なろうと思えばなれたんだ」
「今は幸せじゃないの?」
「難しい問題だ」と五反田君は言った。そしてひとさし指の先を今度は額の真ん中につけた。
「要するに信頼感の問題なんだ。君の言うように。自分で自分が信頼できるかどうかっていうこと。視聴者は僕を信頼してくれる。でもそれは虚像だ。ただのイメージだ。スイッチを切って映像が消えちゃえば、僕はゼロだ。ね?」
「うん」
「でももし僕が本当の医者なり先生なりをやっていたら、スイッチなんてない。僕はいつも僕だ」
「でも今だって演じている君というのはいつも存在している」
「ときどきひどく疲れるんだ、そういうのに」と五反田君は言った。「すごく疲れる。頭痛がする。本当の自分というものがわからなくなる。どれが自分自身でどれがペルソナかがね。自分を見失うことがある。自分と自分の影の境界が見えなくなってくる」
「誰だって多かれ少なかれそうだよ。君だけじゃない」と僕は言った。
「もちろんそれはわかってるさ。誰だって時々自分を見失うことがある。ただ僕の場合そういう傾向が強すぎるんだ。なんていうのかな、致命的なんだ。昔からそうだよ。昔からずっと。正直言って君のことがうらやましかった」
「僕のことが?」と僕はびっくりして聞き返した。「よくわからないな。僕のいったいどこがうらやましいんだろう?見当もつかないね」
「何と言うかな、君はいつも一人で好きにやっているみたいに見えた。他人がどう評価するかとか、どう考えるかとか、そういうことはあまり気にしないで、自分のやりたいことをやりやすいようにやっているように見えた。きちんとした自分というものを確保しているように見えた」彼は水割りの入ったグラスを少し上にあげて、それを透かして見た。「ねえ、僕はいつも優等生だった。物心ついた時からずっとそうだったんだ。成績もよかった。人気もあった。みかけも良かった。教師にも親にも信頼された。いつもクラスのリーダーだった。運動もできた。僕がバットを振ると、いつもロング・ヒットになった。どうしてかはわからない。でもちゃんとヒットになるんだ。そういう気持ちってわからないだろう?」
わからない、と僕は言った。
「だから野球の試合があると、みんな僕を呼びにきた。断るわけにはいかなかった。弁論大会があると、必ず僕が代表になった。先生が僕にやれと言った。断れない。やると優勝した。生徒会長の選挙があると出ないわけにはいかなかった。みんな僕が出ると思ってるんだ。テストでも僕が良い成績をとることをみんなが予想していた。授業中に難しい問題がでてくると先生は大抵僕をあてて質問した。遅刻ひとつしなかった。まるで僕自身なんてないようなものだった。ただ単にそうするのが僕にとって相応しいと思えることをやっていただけだ。高校時代もそうだった。同じようなものだった。そう、君とは高校が違ったんだな。君は公立の高校に行って、僕は私立の受験校に行ったんだ。僕は高校時代はサッカー部に入ってたんだ。受験校だったけど、サッカーはかなり強かった。もう少しで全国大会に出られるところだった。中学校の時と大体同じだよ。理想的な高校生だった。成績もいい、スポーツも万能、リーダーシッブもある。近隣の女子校の女の子の憧れの的だった。恋人はいたよ。綺麗な子だったな。いつもサッカーの試合を応援しにきてくれて、それで知り合ったんだ。でもやらなかった。ベンティングだけ。彼女の家に遊びに行って、親がいなくなった間に手でやるんだ。急いで。でもそれで楽しかった。図書館でデートした。絵に描いたような高校生だよ。NHKの青春物みたい」
五反田君はウィスキーを一口飲み、頭を振った。
「大学に入ってちょっと様子が変わった。紛争があった。全共闘。当然僕がまたリーダー格になった。動きのあるところ必ず僕がリーダーになる。決まってるんだ。バリ封鎖やって、女と同棲して、マリファナ吸って、ディープ・パープルを聴いた。あの頃、みんなそういうことやってた。機動隊が入って、少し留置所に入れられた。それからやることがなくなって、一緒に暮らしてた女に誘われて芝居をやってみた。最初は冗談だったんだけど、だんだんやってるうちに面白くなってきた。新入りだったけど、良い役も回してくれた。自分にそういう才能があることもわかってきた。何かを演じるというのが上手いんだね。自然なんだ。二年ほどやってると、けっこう人気が出てきた。その頃はけっこう無茶やったな。随分酒を飲んだし、いっぱい女と寝た。でもみんなその頃はそういうことしてたんだ。映画会社の人が来て、映画に出てみないかと言った。興味があったから出てみた。悪い役じゃなかった。傷つきやすい高校生の役だった。すぐに次の役が来た。TVの話も来た。あとはお決まりだよ。忙しくなって劇団を辞めた。辞めるときに当然一悶着あった。でも仕方なかったんだ。いつまでもアングラ芝居やってるわけにもいかないものな。僕はもっと大きな広い世界に興味があったんだ。そしてかくのごとしさ。医者と教師のスベシャリスト。広告には二本でている。胃の薬と、インスタント・コーヒー。これがその大きな広い世界というわけだ」
五反田君は溜め息をついた。とてもチャーミングな溜め息のつきかただったが、それでも溜め息は溜め息だった。
「絵に描いたみたいな人生だと思わない?」
「それほど上手く絵に描けない人もいっぱいいる」と僕は言った。
「まあね」と彼は言った。「幸運だったことは認めるよ。でも考えてみたら、僕は何も選んでいないような気がする。そして夜中にふと目覚めてそう思うと、僕はたまらなく怖くなるんだ。僕という存在はいったい何処にあるんだろうって。僕という実体はどこにあるんだろう?僕は次々に回ってくる役回りをただただ不足なく演じていただけじゃないかっていう気がする。僕は主体的になにひとつ選択していない」
僕には何とも言えなかった。何を言っても無駄だろうという気がした。
「僕は自分のことを喋りすぎるかな?」
それほどでもない、と僕は言った。「喋りたい時には喋ればいいんだ。言いふらしたりはしない」
「そんなことし配してない」と五反田君は僕の目を見て言った。「そんなこと始めから心配してないよ。僕は最初から君のことは信用している。どうしてかはわからん。でもそうなんだ。君になら話せるんだ。安心して。誰にでもこんな風に話しているわけじゃない。というか、殆ど誰にも話してない。別れた女房とは話したよ。すごく正直に。僕らはよく話をした。僕らは上手く行ってたんだ。理解しあっていたし、愛しあってもいた。回りの奴等によってたかってぐしゃぐしゃにされちゃうまではね。僕と彼女と二人きりなら、今でもずっと上手く行ってたよ。でも彼女には精神的にすごく不安定なところがあったんだ。彼女はハードな家庭で育ったんだ。家族に頼り過ぎていた。自立してなかった。それで僕は…いや、話が飛びすぎるな。それはまた別の話になる。僕が言いたいのは君が相手だと安心して話せるってことなんだ。ただ、僕の話を聞いているのが迷惑じゃないかと思っただけなんだ」
迷惑じゃない、と僕は言った。
それから彼は理科の実験班の話をした。いつも緊張していたこと。きちんきちんと実験を上手く終わらせようとしていたこと。わかりの悪い女の子にもちゃんと説明をしてやらなくてはならなかったこと。その間僕がのんびりとマイ・ぺースで作業をこなしているのがうらやましかったこと。でも中学校の理科の実験の時間に自分が何をやっていたかなんて、僕には全然思い出せなかった。だから何がうらやましいのか、全く理解できなかった。僕が覚えているのは彼がすごく手際良く作業をこなしていたことだけだった。そしてバーナーに火をつけたり、顕微鏡のセットをする動作がとても優雅だったこと。女の子たちはまるで奇跡を目前にしているみたいにじっと彼の一挙一動に視線を注いでいたこと。僕がのんびりやっていたのは、彼が難しいことは全部やってくれたからという、ただそれだけの理由からである。でも僕はそれについては何も言わなかった。ただ黙って彼の話を聞いていた。
少しすると彼の知り合いらしい四十前後の身なりの良い男がやってきて、彼の肩をぼんと叩き、よう、久し振りと言った。きらきらと眩しくて思わず目をそらせたくなるような見事なロレックスを腕にはめていた。彼は最初に五分の一秒くらいちらっと僕を見たが、僕の存在はそれっきり忘れられた。まるで玄関マットを見るときのような目付きだった。たとえアルマーニのネクタイをしめていても、僕が有名人じゃないということは彼には五分の一秒でわかるのだ。彼と五反田君とはしばらく雑談していた。「最近どう」とか、「いや、忙しくてね」とか、「またそのうちゴルフに行きたいね」とか、その手の話だった。それからロレックス男はぼんとまた五反田君の肩を叩いて「じゃあまたそのうち」と言って行ってしまった。
男が行ってしまうと五反田君は五ミリほど眉をしかめてから、指を二本上げてウェイターを呼び、勘定をしてくれと言った。そして勘定書きが運ぱれて来ると何も見ずにそこにボールベンでサインした。
「遠慮しなくていいよ。どうせ経費なんだ」と彼は言った。「これは金でさえないんだ。経費なんだ」
有り難く御馳走になる、と僕は言った。
「御馳走じゃない。経費だ」と彼は表情のない声で言った。