ダンス・ダンス・ダンス

妙なことにーー別にそれほど妙じゃないのかもしれないけれどーーその夜僕は十二時にべッドに入ってそのままぐっすり眠った。そして目が覚めたら朝の八時だった。出鱈目な睡眠パターンだったが、とにかくきちんと朝の八時に目覚めたのだ。一周してもとに戻ったという風に。気分は良かった。腹も減っていた。だからまたダンキン・ドーナッツに行ってコーヒーを二杯飲みドーナッツを二個食べ、それから何処に行くというあてもなく街をぶらぶらと歩いてみた。道は固く凍りついて、柔らかな雪が無数の羽毛のように静かに降り続いていた。空は相変わらず端から端までどんよりとした雲に覆われていた。散歩日和とはとても言えない。でも街を歩いていると精神が解き放たれるような気がした。ここのところずっとつづいていた重苦しい圧迫感が消えて、厳しい冷気さえもが肌に心地良かった。いったいどうしたというんだろう?と僕は歩きながら不思議に思った。物事はまだ何ひとつとして解決していないというのに、どうしてこんなに気分がいいのだろう?
一時間ほど歩いてからホテルに戻るとフロントにあの眼鏡をかけた女の子がいた。カウンターには彼女の他にももう一人フロント係がいたが、そちらの方の女の子が客の応対をしていた。彼女は電話の応対をしていた。彼女は受話器を耳にあて、営業用の微笑みを浮かべ、指にはさんだボールペンを無意識にくるくると回していた。そんな姿を見ていると、僕は何でもいいから彼女と話してみたかった。それもなるべく無意味なことがいい。意味をなさないような馬鹿気た話題が求められている。僕は彼女のところに行って、電話が終わるのをじっと待った。彼女は僕の顔を疑わしそうな目でちらっと見たが、営業マニュアルどおりの感じの良い微笑みは絶やさなかった。
「何か御用でございましょうか?」彼女は電話を終えると僕に向かって丁重に尋ねた。
僕は咳払いした。「実は昨日の夜、この近所のスイミング・スクールで女の子がふたり鰐に食べられて死んだっていう話を聞いたんだけれど、本当でしょうか?」と僕はなるべく真剣な顔をして口からでまかせを言った。
「さあ、いかがでしょう?」と精巧な造花のような営業用の微笑みを浮かべたまま彼女は答えた。でも目を見ると彼女が怒ってるのがわかった。頬が少し赤らみ、鼻腔が固くなったように見えた。「そういう話はわたくしどもはちょっと耳にしておりませんが、失礼ですが何かお客様のお間違えではございませんでしょうか?」
「すごく大きい鰐で、見た人の話だと大きさがボルボのステーション・ワゴンくらいあって、それが突然天窓のガラスを割って中に飛び込んできて、一口で女の子二人をかぷっと飲み込んで食べちゃって、デザートに椰子の木を半分食べて逃げたってことだけど、それはもう捕まったのかな?もしまだ捕まっていなかったら外に出るのは……」
「申し訳ございませんが」と彼女は表情を変えずに僕の話を遮った。「よろしければ、お客様の方から直接警察に電話でお問い合わせになりましたらいかがでしょうか?その方がむしろ確実ではないかと存じますが。あるいは玄関を出て右の方にまっすぐにいかれますと交番がございますので、そちらでお尋ねになってもよろしいかと思います」
「そうだね。そうしてみよう」と僕は言った。「ありがとう。理力があなたとともにありますように」
「おそれいります」と彼女は眼鏡の縁に手をやって、クールに言った。
部屋に帰ってしばらくすると、彼女から電話がかかってきた。「何よ、あれ?」と彼女は怒りを押し殺したような静かな声で言った。「仕事中は変なことしないでってこの前言ったでしょう。仕事中にああいうことされるの嫌いなの」
「悪かった」と僕は素直に謝った。「何でもいいから君と話したかったんだ。君の声を聞きたかった。つまらない冗談だったかもしれない。でも冗談の内容が問題じゃない。ただ君と話したかっただけだよ。特に迷惑はかけてないと思うけど」
「緊張するのよ。前にも言ったでしょう?仕事してる時って、私すごく緊張してやってるの。だから邪魔してほしくないの。約束したじゃない?じろじろ見たりしないって」
「じろじろ見てない。話しかけただけだ」
「じゃあこれからもうあんな風に話しかけないで。お願い」
「約束する。話しかけない。見ないし、話しかけない。花崗岩みたいにじっとおとなしくしてる。ねえ、ところで君は今夜は暇なのかな?それとも今日は登山教室のある日だっけね?」
「登山教室?」と彼女は言ってから溜め息をついた。「冗談ね、それ」
「そう、冗談だよ」
「時々私ね、そういう冗談についていけなくなるの。登山教室だって。ははは」
彼女は壁に書かれた字を読みあげるみたいに乾いた平板な声ではははと言った。そして電話を切った。
僕はそのまま三十分待ってみたが、もう電話はかかってこなかった。怒っているのだ。僕のユーモアの感覚は時々まったく相手に理解されないことがある。僕の真剣さが時々まったく相手に理解されないのと同じように。他にやることも思いつかないのでまたしばらく外を歩いてみることにした。うまくいけば何かにぶつかるかもしれない。何か新しいものをみつけることができるかもしれない。何もやらないよりは動いた方がいい。何か試してみた方がいい。理力が僕とともにありますように。
一時間歩いたが何もみつからなかった。体が冷えただけだった。雪はまだ降りつづいていた。十二時半にマクドナルドに入ってチーズバーガーとフライド・ポテトを食べ、コカコーラを飲んだ。そんなもの全然食べたくもなかった。でもどうしてかはわからないけれど時々つい食べてしまうのだ。たぶん体が定期的にジャンク・フードを求めるような構造になっているのだろう。
マクドナルドを出てまた三十分歩いた。何もなかった。ただ雪が激しさを増しただけだった。僕はコートのジッパーをいちばん上までひっぱりあげて、マフラーを鼻の上でぐるぐると巻いた。それでも寒かった。ひどく小便がしたくなった。こんな寒い日にコカコーラなんて飲むからだ。どこか便所がありそうなところはないかなと僕はあたりをみまわしてみた。通りの向かいに映画館が見えた。ひどくうらぶれた映画館だったが、まあ便所くらいはあるだろう。それに小便をしたあとで、映画を見ながら体を温めるというのも悪くない。どうせ暇をもてあましているのだ。何をやっているんだろうと思って看板を見た。日本映画の二本立てで、そのうちの一本が『片想い』だった。僕の同級生の出ている映画だ。やれやれ、と僕は思った。
長い小便をすませると僕は売店で熱いコーヒーを買い、それを持って中に入って映画を見た。思ったとおりがらがらだったが、場内は暖かかった。僕は席に座ってコーヒーを飲みながら映画を見た。『片想い』は始まってからもう三十分たっていたが、最初の三十分を見なくても筋は充分すぎるくらい充分に理解出来た。想像したとおりの筋だったからだ。僕の同級生は脚が長くてハンサムな生物の先生だった。主人公の女の子は彼に恋していた。例によって失神するくらい憧れているのだ。そして彼女に恋している剣道部の男の子がいた。まるでもうデジャヴュと言ってもいいくらいの代物だった。こんな映画なら僕にだって作れる。
ただし僕の同級生(五反田亮一というのが彼の本名だったが、もちろん立派な芸名をつけてもらっていた。五反田亮一というのは残念ながら女の子が共感を抱ける名前ではないのだ)はいつもよりはほんの少しは複雑な役をもらっていた。彼はハンサムで感じがいいだけではなく、過去の傷を背負っていた。学生運動にかかわってどうこうとか、恋人を妊娠させて捨ててどうこうというようなかなり月並みな傷だったが、まあ何もないよりはましだった。ときどきそういう回想が猿が粘土を壁にぶっつけるみたいに不器用に挿入された。安田講堂の攻防戦の実写フィルムが入ったりしたりもした。僕はよほど「異議なし!」と小さな声で叫んでみようかとも思ったが馬鹿馬鹿しくなってやめた。
とにかく、何はともあれ五反田君はそういう傷を負った役を演じていた。それもかなり一所懸命演じていた。でも映画自体がひどかったし、監督には才能のかけらもなかった。台詞の半分は恥ずかしくなるくらい稚拙なしろもので、唖然とするような無意味なシーンが延々と続いたりした。女の子の顔がしょっちゅう意味もなくアップになった。だから彼が幾らがんばって演技しても回りから浮きあがって見えるだけだった。僕は彼のことがだんだん可哀そうになってきた。見ていて痛々しいのだ。でも考えてみたら彼はある意味では昔からずっとこういう種類の痛々しい人生を送ってきたのかもしれないなという気がした。
一箇所ベッドシーンがあった。五反田君が日曜日の朝に自分のアパートの部屋で女と寝ているところに主人公の女の子が手作りのクッキーか何か持ってやってくるのだ。やれやれ僕が想像したのとまったく同じじゃないか。五反田君は僕が予想したとおりベッドの中でも優しく親切だった。とても感じのいいセックス。すごくいい匂いがしそうなわきの下。セクシーに乱れる髪。彼は女の裸の背中を撫でている。カメラがくるりと回りこむように移動してその女の顔を写し出す。
デジャヴュ。僕は息を呑んだ。
それはキキだった。座席の上で僕の体は凍りついた。後ろの方でからからからという瓶の転がる音が聞こえた。キキだ。あの廊下の暗闇の中で見たイメージのとおりだ。本当にキキが五反田君と寝ているのだ。
繋がっている、と僕は思った。

キキの出てくるシーンはそこだけだった。彼女はその日曜日の朝に五反田君と寝る。五反田君は土曜日の夜にどこかで酔っぱらって彼女を拾い、自分のアパートに連れてきたのだ。そして朝にもう一度彼女を抱く。そこに教え子である主人公の女の子がやってくる。まずいことにドアに鍵をかけわすれている。そういうシーン。キキの台詞はたったひとことだけ。「どうしたっていうのよ?」と言うだけ。主人公の女の子がショックを受けて走って行ってしまったあとで五反田君が茫然としていると、キキがそう言うのだ。ひどい台詞だった。でもそれが彼女の語る唯一の言葉だった。
「どうしたっていうのよ?」
その声が本当にキキの声なのかどうか、僕には確信が持てなかった。僕はそれほど正確にキキの声を記憶しているわけではなかったし、それに映画館のスピーカーの音もひどかった。でも彼女の体には覚えがあった。背中の形や首筋やつるりとした乳房は僕の覚えているとおりのキキだった。僕は体を固くこわばらせたままスクリーンの上のキキをじっと見ていた。そのシーンは時間にして五分か六分か、たぶんそんなものだったと思う。彼女は五反田君に抱かれ、愛撫され、気持ち良さそうに目を閉じて唇を微かに震わせていた。小さく溜め息もついた。それが演技なのかどうか、僕には判断がつかなかった。まあ、演技なのだろう。これは映画なんだから。でも僕にはキキが演技をするということ自体が全然呑み込めなかった。僕はそれでずいぶん混乱してしまった。というのは、もしそれが演技でなかったとしたら、彼女は本当に五反田君に抱かれて陶酔しているということになるし、もし演技だったとしたら、僕の中での彼女の存在意義が狂ってくる。そう、彼女は演技したりするべきではないのだ。いずれにせよ僕はその映画に対して激しく嫉妬した。
スイミング・スクール、それから映画。僕はいろんなものに嫉妬しはじめている。これは良い徴候なのだろうか?
それから主人公の女の子がドアを開ける。そして彼女は二人が裸で抱き合っているところを目撃する。息を呑む。目を閉じる。そして走って行ってしまう。五反田君が茫然とする。キキが言う。「どうしたっていうのよ?」。茫然としている五反田君のアッブ。フェイドアウト。
それっきりキキは画面には登場しなかった。僕は筋なんかとばして、ただじっと注意深く画面を睨んでいたのだが、彼女の姿はそれっきりちらりとも出てこなかった。彼女は五反田君と何処かで知り合って、彼と寝て、そして彼の人生のワンシーンに立ち会い、そして消えていく。そういう役まわりなのだ。僕の場合と同じように。ふと現れて、立ち会って、消えていく。
映画が終わって、場内の照明がついた。音楽が流れた。でも僕はまだ体をこわばらせたままじっと白いスクリーンを睨んでいた。これは現実なんだろうか、と僕は思った。映画が終わってしまうと、それは全然現実じゃないみたいに思えた。どうしてキキが映画に出てるんだ?それも五反田君と一緒に。馬鹿気てる。僕はきっと何処かで間違いを犯しているにちがいない。回路が入れ違っているのだ。何処かで想像力と現実が交錯し混乱しているのだ。そうとしか考えられないじゃないか?
僕は映画館を出てしばらくあたりを歩きまわった。そしてずっとキキのことを考えていた。「どうしたっていうのよ?」と彼女は僕の耳元で囁きつづけていた。
どうしたっていうんだろう?
でもあれはキキだった。間違いなくそうだったんだ。僕に抱かれているときにも、彼女はああいう顔をして、ああいう風に唇をふるわせ、ああいう風に溜め息をついたのだ。あれは演技なんかじゃない。本当にそうなんだ。でも映画だぜ、あれは。
僕にはわからなかった。
時間がたてばたつほど、僕は自分の記憶が信用できなくなってきた。あれはただの幻想だったのだろうか?
一時間半後に僕はもう一度その映画館に入った。そしてもう一度最初から『片想い』を見た。日曜日の朝、五反田君は女を抱いていた。女の背中が見えた。カメラが回る。女の顔が見える。キキだった。間違いない。主人公の女の子が入ってくる。息を呑む。目を閉じる。走り去る。五反田君は茫然とする。キキが言う。「どうしたっていうのよ?」。フェイドアウト。
まったく同じことの繰り返しだった。
それでも映画が終わると、僕にはそれがやはり全然信じられなかった。何かの間違いだろうと思った。どうしてキキが五反田君と寝るんだ?
翌日、僕はもう一度映画館にいってみた。そして座席の上で体をこわばらせ、『片想い』をもう一度見てみた。僕はじっとそのシーンが来るのを待っていた。すごくいらいらしながら。やっとそのシーンになった。日曜日の朝、五反田君は女を抱いていた。女の背中が見えた。カメラが回る。女の顔が見える。キキだ。間違いない。主人公の女の子が入ってくる。息を呑む。目を閉じる。走り去る。五反田君は茫然とする。キキが言う。「どうしたっていうのよ?」
僕は暗闇のなかで溜め息をついた。
オーケー、これは現実だ。間違いない。繋がっている。

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