ダンス・ダンス・ダンス

小さな古いテーブルをはさんで、僕らは話をした。小さな丸いテーブルで、その上には蝋燭がひとつ置いてあるだけだった。蝦燭は粗末な素焼きの皿の上に立ててあった。その部屋にある家具といえばせいぜいそれくらいのものだった。椅子もなかったので、僕らは床に積みあげてある本を椅子がわりにした。
それが羊男の部屋だった。細長く狭い部屋だ。壁や天井の雰囲気が昔のいるかホテルの部屋に少し感じが似ているが、でもよく見ると全然違うような気もする。つきあたりに窓がある。でも窓には内側から板が打ち付けられている。打ち付けられてからずいぶん年月がたっているのだろう、板の隙間に灰色のほこりが積もり、釘の頭が錆びている。それ以外には何もない。ただの四角い箱のような部屋だ。電灯もない。クローゼットもない。浴室もない。ベッドもない。彼はおそらく床で眠るのだろう。羊の衣装に身をくるんだまま。床には人ひとりがやっと歩いて通れるくらいの空間だけをあけて、あとは古い書籍や新聞や資料を集めたスクラップ・ブックが所狭しと積みあげてあった。どれも茶色に変色し、あるものは絶望的に虫に食われ、あるものはばらばらにほどけていた。僕がちらりと見たかぎりではどれも北海道における緬羊の歴史に関するものだった。たぶん昔のいるかホテルにあったものをここにあつめたのだろう。昔のいるかホテルには羊についての資料室のようなものがあって、主人の父親がその管理をしていたのだ。彼らはみんなどこに行ってしまったんだろう?
羊男はちらちらと揺れる蝋燭の炎越しにしばらく僕の顔を見ていた。羊男の大きな影がしみのある壁の上で揺れていた。拡大され誇張された影だった。
「ずいぶん久し振りだね」と彼はマスクの奥から僕を見ながら言った。「でもかわらないね。少しやせたかな?」
「そうだね。少しやせたかもしれない」と僕は言った。
「それで、外の世界の様子はどうだね?何か変わったことは起こっていないかな?ここにいると何が起こっているのかわからないもんでね」と彼は言った。
僕は脚を組んで首を振った。「相変わらずだよ。たいしたことは起こってないよ。世の中が少しずつ複雑になっていくだけだ。そして物事の進むスピードもだんだん速くなっている。でもあとはだいたい同じだよ。特に変わったことはない」
羊男は肯いた。「じゃあ、まだ次の戦争は始まっていないんだね?」
羊男の考える「この前の戦争」がいったいどの戦争を意味するのかはわからなかったけれど、僕は首を振っておいた。「まだだよ」と僕は言った。「まだ始まっていない」
「でも、そのうちにまた始まるよ」と彼は手袋をはめた両手をこすりあわせながら抑揚のない単調な声で言った。「気をつけるんだよ。殺されたくなければ、気をつけた方がいい。戦争というのは必ずあるんだ。いつでも必ずある。ないということはないんだ。ないように見えても必ずある。人間というのはね、心底では殺しあうのが好きなんだ。そしてみんなで殺し疲れるまで殺しあうんだ。殺し疲れるとしばらく休む。それからまた殺しあいを始める。決まってるんだ。誰も信用できないし、何も変わらない。だからどうしようもないんだ。そういうのが嫌だったら別の世界に逃げるしかないんだよ」
彼の着た羊の毛皮は昔より幾分薄よごれているように見えた。毛は固く全体的に脂じみていた。彼の顔を覆った黒いマスクも、僕が記憶していたものよりはずっと貧相に見えた。まにあわせで作った粗末な仮装のように見えた。でもそれはこの穴ぐらのような湿っぽい部屋と、貧弱な灰暗い光のせいかもしれない。そして記憶というものがいつも不確かで都合の良いものだからかもしれない。しかしその衣装だけではなく、羊男自身も昔よりはいくらか疲労しているように見えた。この四年ほどの間に彼は年老いて体がひとまわり縮んでしまったように僕には感じられた。彼は時々深い息をついたが、その息は奇妙に耳障りな音を立てた。まるでパイプの中に何かが詰まっているようなごろごろとした居心地の悪い音だった。
「もっと前に来ると思ってたよ」と羊男は僕の顔を見て言った。「だからずっと待ってたんだ。この前誰かが来た。あんただと思った。でもあんたじゃなかった。きっと誰かが迷いこんできたんだね。不思議だね。他の人間がそんなに簡単にここに迷いこむことはできないはずなんだけど。でもそれはともかく、あんたはもっと前に来ると思ってた」
僕は肩をすぼめた。「ここに来ることになるだろうとは思っていたんだ。来なくちゃいけないとも思ってた。でも来る決心がなかなかつかなかったんだ。ずいぶん沢山夢を見た。いるかホテルの夢だよ。しょっちゅうその夢を見てた。でもここに来ようと決心するまでに時間がかかったんだ」
「ここのことを忘れようとしていたのかい?」
「途中まではね」と僕は正直に言った。そしてゆらゆらと揺れる蝋燭の灯に照らされた自分の手を見た。何処から風が入ってくるんだろう、と僕は不思議に思った。「途中までは忘れられるものなら忘れたいと思ってた。こことはもう無縁に生きていきたいと思った」
「あんたの死んだ友達のせいでそう思ったのかい?」
「そう。僕の死んだ友達のせいでだよ」
「でもあんたは結局ここに来た」と羊男は言った。
「そうだね、僕は結局ここに帰ってきた」と僕は言った。「この場所のことを忘れることは出来なかったんだ。忘れかけると、何かが必ず僕にここのことを思い出させた。たぶんここは僕にとって特別な場所なんだろう。好むと好まざるとにかかわらず、僕は自分がここに含まれているように感じるんだよ。それが具体的にどんなことを意味しているのかは僕にもわからない。でも僕ははっきりとそう感じるんだよ。夢の中でそう感じたんだ。ここで誰かが僕のために涙を流して、そして僕を求めているんだって。だから僕はここに来る決心がついたんだ。ねえ、ここはいったい何処なんだい?」
羊男はしばらく僕の顔をじっと見ていた。それから首を振った。「細かいことはおいらにもわからない。ここはとても広いし、とても暗い。どれくらい広くて、どれくらい暗いかはおいらにもわからない。おいらが知っているのはこの部屋のことだけだ。他の場所のことはわからないよ。だから詳しいことは何も教えてあげられない。でもとにかく、あんたがここに来たのは、あんたがここに来るべき時がきたからだよ。おいらはそう思う。だからそのことについてあんたはあれこれ考えることはない。たぶん誰かがこの場所を通してあんたのために涙を流しているんだろう。たぶん誰かがあんたを求めているんだろう。あんたがそう感じるなら、きっとそのとおりなんだよ。でもそれはそれとして、今あんたがここに戻ってきたのは本当に当然のことなんだ。鳥が巣に帰るみたいにさ。自然なことなんだよ。逆に言うなら、あんたが帰ろうと思わなければ、ここは全く存在しないのと同じことなんだよ」羊男はまた両手をごしごしとこすりあわせた。体の動きにあわせて壁の上の影が大きく揺れた。まるで黒い幽霊が頭上から僕に襲いかかろうとしているみたいに。まるで昔の漫画映画みたいに。
鳥が巣に帰るように、と僕は思った。言われてみれば確かにそんな気がした。僕はただその流れを追ってここに来たにすぎないのだ。
「さあ、話してごらん」と羊男は静かな声で言った。「あんたのことを話してごらんよ。ここはあんたの世界なんだ。遠慮することは何もないんだ。話したいことをそのままゆっくり話せばいいんだよ。あんたにはきっと話したいことがあるはずだよ」
僕は壁の上の影を眺めながら、仄暗い光の中で僕の置かれている状況について彼に話した。僕は本当に久し振りに心を開いて正直に自分自身について語った。長い時間をかけて、氷を溶かすようにゆっくりと、ひとつひとつ。僕が何とか自分の生活を維持していること。でも何処にも行けないこと。何処にも行けないままに年をとりつつあること。誰をも真剣に愛せなくなってしまっていること。そういった心の震えを失ってしまったこと。何を求めればいいのかがわからなくなってしまっていること。僕は自分が今関わっている物事に対して自分なりにベストをつくしていることを話した。でもそれは何の役にも立たないんだ、と僕は言った。自分の体がどんどん固まっていくような気がする。体の中心から少しずつ肉体組織がこわばって固まっていくような気がするんだ。僕はそれが怖い。僕が辛ろうじて繋がっていると感じるのはこの場所だけなんだ、と僕は言った。僕は自分がここに含まれているように感じてきた。ここがどういう場所なのか僕にはわからない。でも僕は本能的にそう感じるんだ。僕はここに含まれているんだ、と。
羊男は何も言わずに僕の話をじっと聞いていた。彼は殆ど眠っているように見えた。でも僕が話し終えると彼は目を開いた。
「大丈夫、心配することはないよ。あんたはいるかホテルに本当に含まれているんだよ」と羊男は静かに言った。「これまでもずっと含まれていたし、これからもずっと含まれている。ここからすべてが始まるし、ここですべてが終わるんだ。ここがあんたの場所なんだよ。それは変わらない。あんたはここに繋がっている。ここがみんなに繋がっている。ここがあんたの結び目なんだよ」
「みんな?」
「失われてしまったもの。まだ失われていないもの。そういうものみんなだよ。それがここを中心にしてみんな繋がっているんだ」
僕は羊男の言ったことについて少し考えてみた。でも彼の言わんとすることはよく理解できなかった。あまりにも漠然としていて、僕にはついていけなかった。もうすこし具体的に説明してもらえないかな、と僕は言った。でも羊男はそれには答えてくれなかった。彼はじっと黙っていた。それは具体的に説明することのできないものなのだ。彼は静かに首を振った。首を振ると、つくりものの耳がひらひらと揺れた。壁の上の影も大きく揺れた。壁そのものが崩れ落ちるんじゃないかという気がするくらい大きく、ぐらぐらと。
「それは今にわかることだよ。それは理解されるべきときが来たら理解されることなんだよ」と彼は言った。
「ねえ、それとは別にひとつどうしてもわからないことがあるんだ」と僕は言った。「いるかホテルの主人はどうしてこの新しいホテルに同じ名前をつけさせたんだろう?」
「あんたの為だよ」と羊男は言った。「あんたがいつでも帰ってこられるように同じ名前にしておいたんだよ。だって名前が変わってたら、あんただって何処に行けばいいかわからなくなっちまうだろう?いるかホテルはちゃんとここにあるんだよ。建物が変わっても、何が変わっても。そんなこと関係ないんだ。ここにある。ここであんたを待っているんだ。だから名前もそのままにしておいた」
僕は笑った。「僕の為に?僕一人の為にこのでかいホテルの名前が『ドルフィン・ホテル』になっているわけ?」
「そうだよ。それがおかしいことかな?」
僕は首を振った。「いや、おかしいんじゃない。ただちょっと驚いたんだ。あまりにも途方もない話だからさ。なんだか現実の話じゃないみたいだ」
「現実の話だよ」と羊男は静かに言った。「ホテルはこうして現実に存在しているよ。『ドルフイン・ホテル』という看板もちゃんと現実に存在している。そうだろう?これは現実だろう?」彼は指でとんとんと机を叩いた。蝋燭の炎がそれにあわせて揺れた。
「おいらもちゃんとここにいる。ここにいてあんたを待っている。みんなきちんとしたことなんだ。ちゃんと考えてあるんだ。あんたが帰ってこられるように。みんながちゃんとうまく繋がれるように」
僕は揺れる蝋燭の炎をしばらく見ていた。僕にはまだ上手く信じられなかった。「ねえ、何故僕のためにわざわざそんなことをするんだ?わざわざ僕一人のために?」
「ここがあんたのための世界だからだよ」と羊男は当然のことのように言った。「何も難しく考えることなんてないのさ。あんたが求めていれば、それはあるんだよ。問題はね、ここがあんたの為の場所だってことなんだよ。わかるかい?それを理解しなくちゃ駄目だよ。それは本当に特別なことなんだよ。だから我々はあんたが上手く戻って来られるように努力した。それが壊れないように。それが見失われないように。それだけのことだよ」
「僕は本当にここに含まれているんだね?」
「もちろんだよ。あんたもここに含まれている。おいらもここに含まれている。みんなここに含まれている。そしてここはあんたの世界なんだ」と羊男は言った。そして指を一本上にあげた。巨大な指が壁の上に浮かびあがった。 「君はここで何をしているの?そして君は何なんだろう?」
「おいらは羊男だよ」と彼は言ってしゃがれた声で笑った。「ご覧のとおりさ。羊の毛皮をかぶって、人には見えない世界で生きている。追われて森に入った。ずっと昔のことだけどね。思い出せないくらい昔のことだよ。その前おいらが何だったかももう思い出せない。とにかくそれ以来人の目につかなくなった。目につくまい目につくまいとしていると、自然に目につかなくなっちまうものなんだよ。そしていつからだったか、森を離れてここに住み着くようになったんだ。ここに置いてもらって、ここの番をしている。おいらだって、雨風をしのぐ場所は必要だものね。森の獣にだってねぐらくらいはある。そうだろう?」
「もちろん」と僕は相槌を打った。
「ここでのおいらの役目は繋げることだよ。ほら、配電盤みたいにね、いろんなものを繋げるんだよ。ここは結び目なんだーーだからおいらが繋げていくんだ。ばらばらになっちまわないようにね、ちゃんと、しっかりと繋げておくんだ。それがおいらの役目だよ。配電盤。繋げるんだ。あんたが求め、手に入れたものを、おいらが繋げるんだ。わかるかい?」
「なんとか」と僕は言った。
「さて」と羊男は言った。「そして今、あんたはおいらを必要としている。あんたは混乱しているからだ。あんたは自分が何を求めているのかがわからない。あんたは見失い、見失われている。何処かに行こうとしても、何処に行くべきかがわからない。あんたはいろんなものを失った。いろんな繋ぎ目を解いてしまった。でもそれに代わるものがみつけられずにいる。それであんたは混乱しているんだ。自分が何にも結びついてないように感じられる。そして実際に何にも結びついていないんだ。あんたが結びついている場所はここだけだ」
僕はそれについてしばらく考えてみた。「たぶんそのとおりだろう。君の言う通りだ。僕は見失っているし、見失われている。混乱している。どこにも結びついていない。ここにしか結びついていない」僕は言葉を切って、蝋燭の光に照らされた自分の手を見た。
「でも僕は何かを感じるんだよ。何かが僕と繋がろうとしている。だから夢の中で誰かが僕を求め、僕のために涙を流しているんだ。僕はきっと何かと結びつこうとしているんだろう。そういう気がするんだ。ねえ、僕はもう一度やりなおしてみたい。そしてそのためには君の力が必要なんだ」
羊男は黙っていた。僕にもそれ以上言うべきことはなかった。沈黙はひどく重く、まるで深い深い穴の底にいるような気がした。沈黙の重力が僕の肩にずっしりとのしかかっていた。僕の思考さえもがその重力の支配下にあった。僕の思考はその湿っぽい重力の下で深海魚のような不気味な固い衣をまとっていた。時々蝋燭の炎がちりちりという音を立てて揺れた。羊男は目をその炎の方に向けていた。ずいぶん長い間その沈黙は続いた。それからゆっくりと羊男は顔を上げて僕を見た。
「あんたをその何かにうまく結びつけるためにできるだけのことはやってみよう」と羊男は言った。「うまく行くかどうかはわからない。おいらも少し歳を取った。もう以前ほどの力はないかもしれない。どれだけあんたを助けてあげられるものか、おいらにもよくわからない。まあできる限りのことはやってみるよ。でもね、もしそれが上手く行ったとしても、あんたは幸せにはなれないかもしれないよ。それだけはおいらにも保証できないんだ。あちらの世界ではもう何処にもあんたの行くべき場所はないかもしれない。確かなことは言えない。でもあんたはさっきあんたが自分で言ったように、もう随分しっかりと固まってしまっているように見える。一度固まったものはもとには戻らないんだよ。あんたももうそれほど若くはない」
「どうすればいいんだろう、僕は?」
「あんたはこれまでにいろんな物を失ってきた。いろんな大事なものを失ってきた。それが誰のせいかというのは問題じゃない。問題はあんたがそれにくっつけたものにある。あんたは何かを失うたびに、そこに別の何かをくっつけて置いてきてしまったんだ。まるでしるしみたいにね。あんたはそんなことするべきじゃなかったんだ。あんたは自分のためにとっておくべき物までそこに置いてきてしまったんだな。そうすることによって、あんた自身も少しずつ磨り減ってきたんだ。どうしてかな?どうしてそんなことをしたんだろう?」
「わからないね」
「でも、たぶんそれはどうしようもないことだったんだろうね。何か宿命のようなさ。なんというか、うまい言葉が思いつかないけど…」
「傾向」と僕は言ってみた。「そう、それだよ。傾向。おいらは思うんだよ。もう一度人生をやりなおしても、あんたはきっとまた同じことをするだろうってね。それが傾向っていうもんだよ。そしてその傾向というものは、ある地点を越えると、もうもとに戻れなくなっちまうんだ。手遅れなんだ。そういうのはおいらにも何ともしてあげられない。おいらにできることはここの番をすることと、いろんなものを繋げることだけだよ。それ以上のことは何もできない」
「どうすればいいんだろう、僕は?」と僕は前と同じ質問をもう一度してみた。
「さっきも言ったように、おいらも出来るだけのことはするよ。あんたが上手く繋がれるように、やってみる」と羊男は言った。
「でもそれだけじゃ足りない。あんたも出来るだけのことをやらなくちゃいけない。じっと座ってものを考えているだけじゃ駄目なんだ。そんなことしてたって何処にもいけないんだ。わかるかい?」
 「わかるよ」と僕は言った。「それで僕はいったいどうすればいいんだろう?」
「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」
僕は目を上げて、また壁の上の影をしばらく見つめた。
「でも踊るしかないんだよ」と羊男は続けた。「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」
オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。
思考がまたこだまする。
「ねえ、君の言うこっちの世界というのはいったい何なんだい?君は僕が固まると、あっちの世界からこっちの世界に引きずりこまれると言う。でもここは僕のための世界なんだろう?この世界は僕のために存在しているんだろう?もしそうだとしたら、僕が僕の世界に入っていくことにどんな問題があるんだろう?ここは現実に存在すると君は言ったじゃないか」
羊男は首を振った。影がまた大きく揺れた。「ここにあるのは、あっちとはまた違う現実なんだ。あんたは今はまだここでは生きていけない。ここは暗すぎるし、広すぎる。あんたにおいらの言葉でそれを説明することはむずかしい。それにさっきも言ったけれど、おいらにだって詳しいことはわかっていないんだ。ここはもちろん現実だよ。こうしてあんたが現実においらと会って話をしている。それは間違いない。でもね、現実はたったひとつだけしかないってわけじゃないんだ。現実はいくつもある。現実の可能性はいくつもある。おいらはこの現実を選んだ。何故なら、ここには戦争がないからだよ。そしておいらには捨てるべきものは何もなかったからだよ。でもあんたは違う。あんたには生命の温もりがまだはっきりと残っているんだ。だからこの場所は今のあんたには寒すぎる。ここには食べ物だってない。あんたはここに来るべきじゃないんだ」
羊男にそう言われて、僕は部屋の温度が低下していることに気づいた。僕はポケットに両手をつっこんで、軽く身震いした。
「寒いかい?」と羊男が訊いた。
僕は肯いた。
「あまり時間がない」と羊男は言った。「時間がたてばもっと寒くなってくる。もうそろそろ行った方がいいな。ここはあんたには寒すぎるから」
「あとひとつだけ聞いておきたいことがあるんだ。さっきふと思ったんだ。ふと気がついた。僕はこれまでの人生の中でずっと君のことを求めてきたような気がするんだ。そしてこれまでいろんな場所で君の影を見てきたような気がする。君がいろんな形をとってそこにいたように思えるんだ。その姿はすごくぼんやりとしていた。あるいは君のほんの一部に過ぎなかった。でも今になって思い返してみると、それは全部君だったように思えるんだ。僕はそう感じるんだ」
羊男は両手の指で曖昧な形を作った。「そうだよ、あんたの言うとおりだよ。あんたの思っている通りだよ。おいらはいつもそこにいた。おいらは影として、断片として、そこにいた」
「でも、わからないな」と僕は言った。「今僕はこうしてはっきりと君の顔や形を見ることができるようになった。昔見えなかったものが、こうして今見えるようになった。どうしてだろう?」
「それはあんたが既に多くの物を失ったからだよ」と彼は静かに言った。「そして行くべき場所が少なくなってきたからだよ。だから今あんたにはおいらの姿が見えるんだよ」
僕には彼の言葉の意味がよくわからなかった。
「ここは死の世界なのかい?」と僕は思い切って訊いてみた。
「違う」と羊男は言った。そして肩を大きく揺らせて息をした。「そうじゃない。ここは死の世界なんかじゃない。あんたも、おいらも、ちゃんと生きている。我々は二人とも、おなじくらいはっきりと生きている。二人でこうして息をして、話をしている。これは現実なんだ」
「僕には理解できない」
「踊るんだよ」と彼は言った。「それ以外に方法はないんだ。いろんなことをもっと上手く説明してあげられたらとは思う。でもそれはできないんだ。おいらに教えてあげられるのはそれだけだよ。踊るんだ。何も考えずに、できるだけ上手く踊るんだよ。あんたはそうしなくちゃいけないんだ」
温度は急激に低下していた。この寒さには覚えがある、と僕は身震いしながらふと思った。骨にしみこむような湿気を含んだその冷気を、僕は前にも何処かで一度経験していた。遠い昔、遠い場所で。でもそれがどこだったか思い出せなかった。もう少しで思い出せそうなのに、どうしても駄目だった。頭の何処かが麻痺しているのだ。麻痺して固くこわばっている。
カタクコワバッテイル。
「もう行った方がいいね」と羊男は言った。「ここにいると、体が凍りついてしまう。またそのうちに会えるよ。あんたが求めさえすれば。おいらはいつもここにいる。おいらはここであんたを待っている」
彼は足をひきずりながら廊下の曲がり口まで僕を送ってくれた。彼が歩くとあのさら・さら・さら……、という音がした。それから僕は彼にさよならを言った。別に握手もしなかったし、特別な別れの挨拶もしなかった。たださよならと言っただけだった。そして暗闇の中で僕らは別れた。彼は狭くて細長い彼の部屋に戻り、僕はエレベーターの方に向かった。僕がボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと上にあがってきた。そして音もなくドアが開き、明るい柔らかな光が廊下にこぼれて僕の体を包んだ。僕はエレベーターの中に入り、しばらく壁にもたれてじっとしていた。ドアが自動的にしまったが、それでも僕はじっと壁にもたれていた。
さて、と僕は思った。でも「さて」のあとが続かなかった。僕は思考の巨大な空白の真ん中にいた。どちらに行っても、何処まで行っても空白だった。何にもいきあたらなかった。羊男が言うように、僕は疲れて脅えていた。そして一人ぼっちだった。森の中に迷いこんだ子供みたいに。
踊るんだよ、と羊男が言った。
オドルンダヨ、と思考がこだました。
踊るんだよ、と僕は口に出して復唱してみた。
そして十五階のボタンを押した。
十五階でエレベーターを下りると、天井に埋めこまれたスピーカーから流れるへンリー・マンシーニの『ムーン・リプァー』が僕を出迎えてくれた。現実の世界ーー僕がおそらく幸せになることもできず、おそらく何処にも行くことのできない現実の世界。
僕は反射的に腕時計に目をやった。帰還時刻は午前三時二十分だった。
さて、と僕は思った。さてさてさてさてさてさてさてさて……、と思考がこだました。僕は溜め息をついた。
 

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