ノルウェイの森
第三章
次の土曜日に直子は電話をかけてきて、日曜に我々はデートをした。たぶんデートと呼んでいいのだと思う。それ以外に適当な言葉を思いつけない。
我々は前と同じように街を歩き、どこかの店に入ってコーヒーを飲み、また歩き、夕方に食事をしてさよならと言って別れた。彼女はあいかわらずぽつりぽつりとしか口をきかなかったが、べつに本人はそれでかまわないという風だったし、僕もとくに意識しては話さなかった。気が向くとお互いの生活や大学の話をしたが、どれもこれも断片的な話で、それが何かにつながっていくというようなことはなかった。そして我々は過去の話を一切しなかった。我々はだいたいひたすらに町を歩いていた。ありがたいことに東京の町は広く、どれだけ歩いても歩き尽すということはなかった。
我々は殆んど毎週会って、そんな具合に歩きまわっていた。彼女が先に立ち、僕がその少しうしろを歩いた。直子はいろんなかたちの髪どめを持っていて、いつも右側の耳を見せていた。僕はその頃彼女のうしろ姿ばかり見ていたせいで、そういうことだけを今でもよく覚えている。政子は恥かしいときにはよく髪どめを手でいじった。そしてしょっちゅうハンカチで口もとを拭いた。ハンカチで口を拭くのは何かしゃべりたいことがあるときの癖だった。そういうのを見ているうちに、僕は少しずつ直子に対して好感を抱くようになってきた。
彼女は武蔵野のはずれにある女子大に通っていた。英語の教育で有名なこぢんまりとした大学だった。彼女のアパートの近くにはきれいな用水が流れていて、時々我々はそのあたりを散歩した。直子は自分の部屋に僕を入れて食事を作ってくれたりもしたが、部屋の中で僕と二人きりになっても彼女としてはそんなことは気にもしていないみたいだった。余計なものの何もないさっぱりとした部屋で、窓際の隅の方にストッキングが干してなかったら女の子の部屋だとはとても思えないくらいだった。彼女はとても質素に簡潔に暮しており、友だちも殆んどいないようだった。そういう生活ぶりは高校時代の彼女からは想像できないことだった。僕が知っていたかつての彼女はいつも華やかな服を着て、沢山の友だちに囲まれていた。そんな部屋を眺めていると、彼女もやはり僕と同じように大学に入って町を離れ、知っている人が誰もいないところで新しい生活を始めたかったんだろうなという気がした。
「私がここの大学を選んだのは、うちの学校から誰もここに来ないからなのよ」と直子は笑って言った。「だからここに入ったの。私たちみんなもう少しシックな大学に行くのよ。わかるでしょう?」
しかし僕と直子の関係も何ひとつ進歩がないというわけではなかった。少しずつ少しずつ直子は僕に馴れ、僕は直子に馴れていった。夏休みが終って新しい学期が始まると直子はごく自然に、まるで当然のことのように、僕のとなりを歩くようになった。それはたぷん直子が僕を一人の友だちとして認めてくれたしるしだろうと僕は思ったし、彼女のような美しい娘と肩を並べて歩くというのは憩い気持のするものではなかった。我々は二人で東京の町をあてもなく歩きつづけた。坂を上り、川を渡り、線路を越え、どこまでも歩きつづけた。どこに行きたいという目的など何もなかった。ただ歩けばよかったのだ。まるで魂を癒すための宗教儀式みたいに、我々はわきめもふらず歩いた。雨が降れば傘をさして歩いた。
秋がやってきて寮の中庭がけやきの葉で覆い尽された。セーターを着ると新しい季節の匂いがした。僕は靴を一足はきつぶし、新しいスエードの靴を昇った。
その頃我々がどんな話をしていたのか、僕にはどうもうまく思いだせない。たぶんたいした話はしていなかったのだと思う。あいかわらず我々は過去の話は一切しなかった。キズキという名前は殆んど我々の話題にはのぼらなかった。我々はあいかわらずあまり多くはしゃべらなかったし、その頃には二人で黙りこんで喫茶店で顔をつきあわせていることにもすっかり馴れてしまっていた。
直子は突撃隊の話を聞きたがっていたので、僕はよくその話をした。突撃隊はクラスの女の子(もちろん地理学科の女の子)と一度デートしたが夕方になってとてもがっかりした様子で戻ってきた。それが六月の話だった。そして彼は僕に「あ、あのさ、ワタナベ君さ、お、女の子とさ、どんな話するの、いつも?」と質問した。僕がなんと答えたのかは覚えていないが、いずれにせよ彼は質問する相手を完全に間違えていた。七月に誰かが彼のいないあいだにアムステルダムの運河の写真を外し、かわりにサンフランシスコのゴールデン・ブリッジの写真をはっていった。ゴールデン・ブリッジを見ながらマスターベーションで毪韦嗓Δ辘郡い趣いΔ郡坤饯欷坤堡卫碛嗓椁坤盲俊¥工搐菠螭扦浃盲皮郡激葍Wが適当なことを言うと、誰かがそれを今度は氷山の写真にとりかえた。写真が変るたびに突撃隊はひどく混乱した。
「いったい誰が、こ、こ、こんなことするんだろうね?」と彼は言った。
「さあね、でもいいじゃないか。どれも綺麗な写真だもの。誰がやってるにせよ、ありがたいことじゃない」と僕は慰めた。
「そりゃまあそうだけどさ、気持わるいよね」と彼は言った。
そんな突撃隊の話をすると直子はいつも笑った。彼女が笑うことは少なかったので、僕もよく彼の話をしたが、正直言って彼を笑い話のたねにするのはあまり気持の良いものではなかった。彼はただあまり裕福とはいえない家庭のいささか真面目すぎる三男坊にすぎなかったのだ。そして地図を作ることだけが彼のささやかな人生のささやかな夢なのだ。誰がそれを笑いものにできるだろう?
とはいうものの<突撃隊ジョーク>は寮内ではもう既に欠くことのできない話題のひとつになっていたし、今になって僕が収めようと思ったところで収まるものではなかった。そして直子の笑顔を目にするのは僕としてもそれなりに嬉しいことではあった。だから僕はみんなに突撃隊の話を提供しつづけることになった。
直子は僕に一度だけ好きな女の子はいないのかと訊ねた。僕は別れた女の子の話をした。良い子だったし、彼女と寝るのは好きだったし、今でもときどきなつかしく思うけれど、どうしてか心が動かされるということがなかったのだと僕は言った。たぶん僕の心には固い殻のようなものがあって、そこをつき抜けて中に入ってくるものはとても限られているんだと思う、と僕は言った。だからうまく人を愛することができないんじゃないかな、と。
「これまで誰かを愛したことはないの?」と直子は訊ねた。
「ないよ」と僕は答えた。
彼女はそれ以上何も訊かなかった。
秋が終り冷たい風が町を吹き抜けるようになると、彼女はときどき僕の腕に体を寄せた。ダッフル・コートの厚い布地をとおして、僕は直子の息づかいをかすかに感じることができた。彼女は僕の腕に腕を絡めたり、僕のコートのポケットに手をつっこんだり、本当に寒いときには僕の腕にしがみついて震えたりもした。でもそれはただそれだけのことだった。彼女のそんな仕草にはそれ以上の意味は何もなかった。僕はコートのポケットに両手をつっこんだまま、いつもと同じように歩きつづけた。僕も直子もゴム底の靴をはいていたので、二人の足音は殆んど聞こえなかった。道路に落ちた大きなプラタナスの枯葉を踏むときにだけくしゃくしゃという乾いた音がした。そんな音を聴いていると僕は直子のことが可哀そうになった。彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はなんだかうしろめたいような気持になった。
冬が深まるにつれて彼女の目は前にも増して透明に感じられるようになった。それはどこにも行き場のない透明さだった。時々直子はとくにこれといった理由もなく、何かを探し求めるように僕の目の中をじっとのぞきこんだが、そのたびに僕は淋しいようなやりきれないような不思議な気持になった。
たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中で把握することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょっちゅう髪どめをいじったり、ハンカチで口もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくのぞきこんだりしているのだ。もしできることなら直子を抱きしめてやりたいと思うこともあったが、いつも迷った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子が傷つくんじゃないかという気がしたからだ。そんなわけで僕らはあいもかわらず東京の町を歩きつづけ、直子は虚空の中に言葉を探し求めつづけた。
寮の連中は直子から電話がかかってきたり、日曜の朝に出かけたりすると、いつも僕を冷やかした。まあ当然といえば当然のことだが、僕に恋人ができたものとみんな思いこんでいたのだ。説明のしようもないし、する必要もないので、僕はそのままにしておいた。夕方に戻ってくると必ず誰かがどんな体位でやったかとか彼女のあそこはどんな具合だったかとか下着は何色だったかとか、そういう下らない質問をし、僕はそのたびにいい加減に答えておいた。
そのようにして僕は十八から十九になった。日が上り日が沈み、国旗が上ったり下ったりした。そして日曜日が来ると死んだ友だちの恋人とデートした。いったい自分が今何をしているのか、これから何をしようとしているのかさっぱりわからなかった。大学の授業でクローデルを読み、ラシーヌを読み、エイゼンシュテインを読んだが、それらの本は僕に殆んど何も訴えかけてこなかった。僕は大学のクラスでは一人も友だちを作らなかったし、寮でのつきあいも通りいっぺんのものだった。寮の連中はいつも一人で本を読んでいるので僕が作家になりたがっているんだと思いこんでいるようだったが、僕はべつに作家になんてなりたいとは思わなかった。何にもなりたいとは思わなかった。
僕はそんな気持を直子に何度か話そうとした。彼女なら僕の考えていることをある程度正確にわかってくれるんじゃないかという気がしたからだ。しかしそれを表現するための言葉がみつからなかった。変なもんだな、と僕は思った。これじゃまるで彼女の言葉探し病が僕の方に移ってしまったみたいじゃないか、と。
土曜の夜になると僕は電話のある玄関ロビーの椅子に座って、直子からの電話を待った。土曜の夜にはみんなだいたい外に遊びに出ていたから、ロビーはいつもより人も少くしんとしていた。僕はいつもそんな沈黙の空間にちらちらと浮かんでいる光の粒子を見つめながら、自分の心を見定めようと努力してみた。いったい俺は何を求めてるんだろう?そしていったい人は俺に何を求めているんだろう?しかし答らしい答は見つからなかった。僕はときどき空中に漂う光の粒子に向けて手を伸ばしてみたが、その指先は何にも触れなかった。
僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家ではなく、気に入った本を何度も読みかえすことを好んだ。僕が当時好きだったのはトルーマン・カポーティ、ジョン・アップダイク、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・チャンドラーといった作家たちだったが、クラスでも寮でもそういうタイプの小説を好んで読む人間は一人も見あたらなかった。彼らが読むのは高橋和巳や大江健三郎や三島由紀夫、あるいは現代のフランスの作家の小説が多かった。だから当然話もかみあわなかったし、僕は一人で黙々と本を読みつづけることになった。そして本を何度も読みかえし、ときどき目を閉じて本の香りを胸に吸いこんだ。その木の香りをかぎ、ページに手を触れているだけで、僕は幸せな気持になることができた。
十八歳の年の僕にとつて最高の書物はジョン・アップダイクの『ケンタウロス』だったが何度か読みかえすうちにそれは少しずつ最初の輝きを失って、フィッツジスラルドの『グレート・ギャツビイ』にベスト・ワンの地位をゆずりわたすことになった。そして『グレート・ギャツビイ』はその後ずっと僕にとっては最高の小説でありつづけた。僕は気が向くと書棚から『グレート・ギヤッピイ』をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。一ページとしてつまらないページはなかった。なんて素晴しいんだろうと僕は思った。そして人々にその素晴しさを伝えたいと思った。しかし僕のまわりには『グレート・ギャツビイ』を読んだことのある人間なんていなかったし、読んでもいいと思いそうな人間すらいなかった。一九六八年にスコット・フィッツジェラルドを読むというのは反動とまではいかなくとも、決して推奨される行為ではなかった。
その当時僕のまわりで『グレート・ギャツビイ』を読んだことのある人間はたった一人しかいなかったし、僕と彼が親しくなったのもそのせいだった。彼は永沢という名の東大の法学部の学生で、僕より学年がふたつ上だった。我々は同じ寮に住んでいて、一応お互い顔だけは知っているという間柄だったのだが、ある日僕が食堂の日だまりで日なたぼっこをしながら『グレート・ギャツビイ』を読んでいると、となりに座って何を読んでいるのかと訊いた。『グレート・ギャツビイ』だと僕は言った。面白いかと彼は訊いた。通して読むのは三度めだが読みかえせば読みかえすほど面白いと感じる部分がふえてくると僕は答えた。
「『グレート・ギャツビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな」と彼は自分に言いきかせるように言った。そして我々は友だちになった。十月のことだった。
永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕なんかははるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。
「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短かい」
「永沢さんはどんな作家が好きなんですか?」と僕は訊ねてみた。
「バルザック、ダンテ、ジョセフ・コンラッド、ディッケンズ」と彼は即座に.答えた。
「あまり今日性のある作家とは言えないですね」
「だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥かしいことはしない。なあ知ってるか、ワタナベ?この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみんな紙屑みたいなもんだ」
「とうしてそんなことがわかるんですか?」と僕はあきれて質問した。
「俺にはわかるんだよ。おでこにしるしがついてるみたいにちゃんとわかるんだよ、見ただけで。それに俺たち二人とも『グレート・ギャツビイ』を読んでる」
僕は頭の中で計算してみた。「でもスコット・フィッツジェラルドが死んでからまだ二十八年しか経っていませんよ」
「構うもんか、二年くらい」と彼は言った。「スコット・フィッツジスラルドくらいの立派な作家はアンダー・パーでいいんだよ」
もっとも彼が隠れた古典小説の読書家であることは寮内ではまったく知られていなかったし、もし知られたとしても殆んど注目を引くことはなかっただろう。彼はなんといってもまず第一に頭の良さで知られていた。何の苦もなく東大に入り、文句のない成績をとり、公務員試験を受けて外務省に入り、外交官になろうとしていた。父親は名古屋で大きな病院を経営し、兄はやはり東大の医学部を出て、そのあとを継ぐことになっていた。まったく申しぶんのない一家みたいだった。小づかいもたっぷり持っていたし、おまけに風釆も良かった。だから誰もが彼に一目置いたし、寮長でさえ永沢さんに対してだけは強いことは言えなかった。彼が誰かに何かを要求すると、言われた人間は文句ひとつ言わずにそのとおりにした。そうしないわけにはいかなかったのだ。
永沢という人間の中にはごく自然に人をひきつけ従わせる何かが生まれつき備わっているようだった。人々の上に立って素速く状況を判断し、人々に手際よく的確な指示を与え、人々を素直に従わせるという能力である。彼の頭上にはそういう力が備わっていることを示すオーラが天使の輪のようにぽっかりと浮かんでいて、誰もが一目見ただけで「この男は特別な存在なんだ」と思っておそれいってしまうわけである。だから僕のようなこれといって特徴もない男が永沢さんの個人的な友人に選ばれたことに対してみんなはひどく驚いたし、そのせいで僕はよく知りもしない人間からちょっとした敬意を払われまでした。でもみんなにはわかっていなかったようだけれど、その理由はとても簡単なことなのだ。永沢さんが僕を好んだのは、僕が彼に対してちっとも敬服も感心もしなかったせいなのだ。僕は彼の人間性の非常に奇妙な部分、入りくんだ部分に興味を持ちはしたが、成績の良さだとかオーラだとか男っぷりだとかには一片の関心も持たなかった。彼としてはそういうのがけっこう珍しかったのだろうと思う。
永沢さんはいくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちであわせ持った男だった。彼は時として僕でさえ感動してしまいそうなくらい優しく、それと同時におそろしく底意地がわるかった。びっくりするほど高貴な精神を持ちあわせていると同時に、どうしょうもない俗物だった。人々を率いて楽天的にどんどん前に進んで行きながら、その心は孤独に陰鬱な泥沼の底でのたうっていた。僕はそういう彼の中の背反性を最初からはっきりと感じとっていだし、他の人々にどうしてそういう彼の面が見えないのかさっぱり理解できなかった。この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ。
しかし原則的には僕は彼に対して好意を抱いていたと思う。彼の最大の美徳は正直さだった。彼は決して嘘をつかなかったし、自分のあやまちや欠点はいつもきちんと認めた。自分にとって都合のわるいことを隠したりもしなかった。そして僕に対しては彼はいつも変ることなく親切だったし、あれこれと面倒をみてくれた。彼がそうしてくれなかったら、僕の寮での生活はもっとずっとややっこしく不快なものになっていただろうと思う。それでも僕は彼には一度も心を許したことはなかったし、そういう面では僕と彼との関係は僕とキズキとの関係とはまったく違った種類のものだった。僕は永沢さんが酔払ってある女の子に対しておそろしく意地わるくあたるのを目にして以来、この男にだけは何があっても心を許すまいと決心したのだ。
永沢さんは寮内でいくつかの伝説を持っていた。まずひとつは彼がナメクジを三匹食べたことがあるというものであり、もうひとつは彼が非常に大きいペニスを持っていて、これまでに百人は女と寝たというものだった。
ナメクジの話は本当だった。僕が質問すると、彼はああ本当だよ、それ、と言った。「でかいの三匹飲んだよ」
「どうしてそんなことしたんですか?」
「まあいろいろとあってな」と彼は言った。「俺がこの寮に入った年、新入生と上級生のあいだでちょっとしたごたごたがあったんだ。九月だったな、たしか。それで俺が新入生の代表格として上級生のところに話をつけに行ったのさ。相手は右翼で、木刀なんか持っててな、とても話がまとまる雰囲気じゃない。それで俺はわかりました、俺ですむことならなんでもしましょう、だからそれで話をまとめて下さいっていったよ。そしたらお前ナメクジ飲めって言うんだ。いいですよ、飲みましょうって言ったよ。それで飲んだんだ。あいつらでかいの三匹もあつめてきやがったんだ」
「どんな気分でした?」
「どんな気分も何も、ナメクジを飲むときの気分って、ナメクジを飲んだことのある人間にしかわからないよな。こうナメクジがヌラッと喉もとをとおって、ツウッと腹の中に落ちていくのって本当にたまらないぜ、そりゃ。冷たくって、口の中にあと味がのこってさ。思い出してもゾッとするね。ゲエゲエ吐きたいのを死にものぐるいでおさえたよ、だって吐いたりしたらまた飲みなおしだもんな。そして俺はとうとう三匹全部飲んだよ」
「飲んじゃってからどうしました」
「もちろん部屋に帰って塩水がぶがぶ飲んださ」と永沢さんは言った。「だって他にどうしようがある」
「まあそうですね」と僕も認めた。
「でもそれ以来、誰も俺に対して何も言えなくなったよ。上級生も含めて誰もだよ。あんなナメクジ三匹も飲める人間なんて俺の他には誰もいないんだ」
「いないでしょうね」と僕は言った。
ペニスの大きさを調べるのは簡単だった。一緒に風呂に入ればいいのだ。たしかにそれはなかなか立派なものだった。百人もの女と寝たというのは誇張だった。七十五人くらいじゃないかな、と彼はちょっと考えてから言った。よく覚えてないけど七十はいってるよ、と。僕が一人としか寝てないと言うと、そんなの簡単だよ、お前、と彼は言った。
「今度俺とやりに行こうよ。大丈夫、すぐやれるから」
僕はそのとき彼の言葉をまったく信じなかったけれど、実際にやってみると本当に簡単だった。
あまりに簡単すぎて気が抜けるくらいだった。彼と一緒に渋谷か新宿のバーだかスナックだかに入って(店はだいたいいつもきまっていた)、適当な女の子の二人連れをみつけて話をし(世界は二人づれの女の子で充ちていた)、酒を飲み、それからホテルに入ってセックスした。とにかく彼は話がうまかった。べつに何かたいしたことを話すわけでもないのだが、彼が話していると女の子たちはみんな大抵ぼおっと感心して、その話にひきずりこまれ、ついついお酒を飲みすぎて酔払って、それで彼と寝てしまうことになるのだ。おまけに彼はハンサムで、親切で、よく気が利いたから、女の子たちは一緒にいるだけでなんだかいい気持になってしまうのだ。そして、これは僕としてはすごく不思議なのだけれど、彼と一緒にいることで僕までがどうも魅力的な男のように見えてしまうらしかった。僕が永沢さんにせかされて何かをしゃべると女の子たちは彼に対するのと同じように僕の話にたいしてひどく感心したり笑ったりしてくれるのである。全部永沢さんの魔力のせいなのである。まったくたいした才能だなあと僕はそのたびに感心した。こんなのに比べれば、キズキの座談の才なんて子供だましのようなものだった。まるでスケールがちがうのだ。それでも永沢さんのそんな能力にまきこまれながらも、僕はキズキのことをとても優しく思った。キズキは本当に誠実な男だったんだなと僕はあらためて思った。彼は自分のそんなささやかな才能を僕と直子だけのためにとっておいてくれたのだ。それに比べると永沢さんはその圧倒的な才能をゲームでもやるみたいにあたりにばらまいていた。だいたい彼は前にいる女の子たちと本気で寝たがっているというわけではないのだ。彼にとつてはそれはただのゲームにすぎないのだ。
僕自身は知らない女の子と寝るのはそれほど好きではなかった。性欲を処理する方法としては気楽だったし、女の子と抱きあったり体をさわりあったりしていること自体は楽しかった。僕が嫌なのは朝の別れ際だった。目がさめるととなりに知らない女の子がぐうぐう寝ていて、部屋中に酒の匂いがして、ベッドも照明もカーテンも何もかもがラブ・ホテル特有のけばけばしいもので、僕の頭は二日酔いでぼんやりしている。やがて女の子が日を覚まして、もそもそと下着を探しまわる。そしてストッキングをはきながら「ねえ、昨夜ちゃんとアレつけてくれた?私ばっちり危い日だったんだから」と言う。そして鏡に向って頭が痛いだの化粧がうまくのらないだのとぶつぶつ文句を言いながら、口紅を塗ったりまつ毛をつけたりする。そういうのが僕は嫌だった。だから本当は朝までいなければいいのだけれど、十二時の門限を気にしながら女の子を口説くわけにもいかないし(そんなことは物理的に不可能である)、どうしても外泊許可をとってくりだすことになる。そうすると朝までそこにいなければならないということになり、自己嫌悪と幻滅を感じながら寮に戻ってくるというわけだ。日の光がひどく眩しく、口の中がざらざらして、頭はなんだか他の誰かの頭みたいに感じられる。
僕は三回か四回そんな風に女の子と寝たあとで、永沢さんに質問してみた。こんなことを七十回もつづけていて空しくならないのか、と。
「お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまともな人間である証拠だし、それは喜ばしいことだ」と彼は言った。「知らない女と寝てまわって得るものなんて何もない。疲れて、自分が嫌になるだけだ。そりゃ俺だって同じだよ」
「じゃあどうしてあんなに一所懸命やるんですか?」
「それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあったろう?あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通りすぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。それ、わかるか?」
「なんとなく」と僕は言った。
「日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲んだりしている。彼女たちは何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることができるんだ。それは本当に簡単なことなんだよ。水道の蛇口をひねって水を飲むのと同じくらい簡単なことなんだ。そんなのアッという間に落とせるし、向うだってそれを待ってるのさ。それが可能性というものだよ。そういう可能性が目の前に転がっていて、それをみすみすやりすごせるか? 自分に能力があって、その能力を発揮できる場があって、お前は黙って通りすぎるかい?」
「そういう立場に立ったことないから僕にはよくわかりませんね。どういうものだか見当もつかないな」と僕は笑いながら言った。
「ある意味では幸せなんだよ、それ」と永沢さんは言った。
家が裕福でありながら永沢さんが寮に入っているのは、その女遊びが原因だった。東京に出て一人暮しなんかしたらどうしょうもなく女と遊びまわるんじゃないかと心配した父親が四年間寮暮しをすることを強制したのだ。もっとも永沢さんにとってはそんなものどちらでもいいことで、彼は寮の規則なんかたいして気にしないで好きに暮していた。気が向くと外泊許可をとってガール・ハントにいったり、恋人のアパートに泊りに行ったりしていた。外泊許可をとるのはけっこう面倒なのだが、彼の場合は殆んどフリー・パスだったし、彼が口をきいてくれる限り僕のも同様だった。
永沢さんには大学に入ったときからつきあっているちゃんとした恋人がいた。ハツミさんという彼と同じ歳の人で、僕も何度か顔をあわせたことがあるが、とても感じの良い女性だった。はっと人目を引くような美人ではないし、どちらかというと平凡といってもいい外見だったからどうして永沢さんのような男がこの程度の女と、と最初は思うのだけれど、少し話をすると誰もが彼女に好感を持たないわけにはいかなかった。彼女はそういうタイプの女性だった。穏かで、理知的で、ユーモアがあって、思いやりがあって、いつも素晴しく上品な服を着ていた。僕は彼女が大好きだったし、自分にもしこんな恋人がいたら他のつまらない女となんか寝たりしないだろうと思った。彼女も僕のことを気に入ってくれて、僕に彼女のクラブの下級生の女の子を紹介するから四人でデートしましょうよと熱心に誘つてくれたが、僕は過去の失敗をくりかえしたくなかったので、適当なことを言っていつも逃げていた。ハツミさんの通っている大学はとびっきりのお金持の娘があつまることで有名な女子大だったし、そんな女の子たちと僕が話があうわけがなかった。
彼女は永沢さんがしょっちゅう他の女の子と寝てまわっていることをだいたいは知っていたが、そのことで彼に文句を言ったことは一度もなかった。彼女は永沢さんのことを真剣に愛していたが、それでいて彼に何ひとつ押しつけなかった。
「俺にはもったいない女だよ」と永沢さんは言った。そのとおりだと僕も思った。
*
冬に僕は新宿の小さなレコード店でアルバイトの口をみつけた。給料はそれほど良くはなかったけれど、仕事は楽だったし、過に三回の夜番だけでいいというのも都合がよかった。レコードも安く買えた。クリスマスに僕は直子の大好きな『ディア・ハート』の入ったヘンリー・マンシーニのレコードを買ってプレゼントした。僕が自分で包装して赤いリボンをかけた。直子は僕に自分で編んだ毛糸の手袋をプレゼントしてくれた。親指の部分がいささか短かすぎたが、暖かいことは暖かかった。
「ごめんなさい。私すごく不器用なの」と直子は赤くなって恥かしそうに言つた。
「大丈夫。ほら、ちゃんと入るよ」と僕は手袋をはめてみせた。
「でもこれでコートのポケットに手をつっこまなくて済むでしょ?」と直子は言った。
直子はその冬神戸には帰らなかった。僕も年末までアルバイトをしていて、結局なんとなくそのまま東京にいつづけてしまった。神戸に帰ったところで何か面白いことがあるわけでもないし、会いたい相手がいるわけでもないのだ。正月のあいだ寮の食堂は閉ったので僕は彼女のアパートで食事をさせてもらった。二人で餅を焼いて、簡単な雑煮を作って食べた。
一九六九年の一月から二月にかけてはけっこういろんなことが起った。
一月の末に突撃隊が四十度近い熱を出して寝こんだ。おかげで僕は直子とのデートをすっぼかしてしまうことになった。僕はあるコンサートの招待券を二枚苦労して手に入れて、直子をそれに誘ったのだ。オーケストラは直子の大好きなブラームスの四番のシンフォニーを演奏することになっていて、彼女はそれを楽しみにしていた。しかし突撃隊はベッドの上をごろごろ転げまわって今にも死ぬんじゃないかという苦しみようだったし、それを放ったらかして出かけるというわけにもいかなかった。僕にかわって彼の看病をやってくれそうな物好きな人間もみつからなかつた。僕は氷を買ってきて、ビニール袋を何枚かかさねて氷のうを作り、タオルを冷して汗を拭き、一時間ごとに熱を測り、シャツまでとりかえてやった。熱はまる一日引かなかった。しかし二日めの朝になると彼はむっくりと起きあがり、何事もなかったように体操を始めた。体温を測ってみると三十六度二分だった。人間とは思えなかった。
「おかしいなあ、これまで熱なんか出したこと一度もなかったんだけどな」と突撃隊はそれがまるで僕の過失であるような言い方をした。
「でも出たんだよ」と僕は頭に来て言った。そして彼の発熱のおかげでふいにした二枚の切符を見せた。
「でもまあ招待券で良かったよ」と突撃隊は言った。僕は彼のラジオをひっつかんで窓から放り投げてやろうと思ったが、頭が痛んできたのでまたベッドにもぐりこんで眠った。
二月には何度か雪が降った。
二月の終り頃に僕はつまらないことで喧嘩をして寮の同じ階に住む上級生を殴った。相手はコンクリートの壁に頭をぶっつけた。幸いたいした怪我はなかったし、永沢さんがうまく事を収めてくれたのだが、僕は寮長室に呼ばれて注意を受けたし、それ以来寮の住み心地もなんとなく悪くなった。
そのようにして学年が終り、春がやってきた。僕はいくつか単位を落とした。成続は平凡なものだった。大半がCかDで、Bが少しあるだけだった。直子の方は単位をひとつも落とすことなく二年生になった。季節がひとまわりしたのだ。
四月半ばに直子は二十歳になった。僕は十一月生まれだから、彼女の方が約七ヵ月年上ということになる。直子が二十歳になるというのはなんとなく不思議な気がした。僕にしても直子にしても本当は十八と十九のあいだを行ったり来たりしている方が正しいんじゃないかという気がした。十八の次が十九で、十九の次が十八、―それならわかる。でも彼女は二十歳になった。そして秋には僕も二十歳になるのだ。死者だけがいつまでも十七歳だった。
直子の誕生日は雨だった。僕は学校が終ってから近くでケーキを買って電車に乗り、彼女のアパートまで行った。一応二十歳になったんだから何かしら祝いのようなことをやろうと僕が言いだしたのだ。もし逆の立場だったら僕だって同じことを望むだろうという気がしたからだ。一人ぼっちで二十歳の誕生日を過すというのはきっと辛いものだろう。電車は混んでいて、おまけによく揺れた。おかげで直子の部屋にたどりついたときにはケーキはローマのコロセウムの遺跡みたいな形に崩れていた。それでも用意した小さなロウソクを二十本立て、マッチで火をつけ、カーテンを閉めて電気を消すと、なんとか誕生日らしくなった。直子がワインを開けた。僕らはワインを飲み、少しケーキを食べ、簡単な食事をした。
「二十歳になるなんてなんだか馬鹿みたいだわ」と直子が言った。「私、二十歳になる準備なんて全然できてないのよ。変な気分。なんだかうしろから無理に押し出されちゃったみたいね」
「僕の方はまだ七ヵ月あるからゆっくり準備するよ」と僕は言って笑った。
「良いわね、まだ十九なんて」と直子はうらやましそうに言った。
食事のあいだ僕は突撃隊が新しいセーターを買った話をした。彼はそれまで一枚しかセーターを持っていなかったのだが(紺の高校のスクール・セーター)、やっとそれが二枚になったのだ。新しいのは鹿の編みこみが入った赤と黒の可愛いセーターで、セーター自体は素敵なのだが、彼がそれを着て歩くとみんなが思わず吹きだした。しかし彼にはどうしてみんなが笑うのか全く理解できなかった。
「ワタナベ君、な、何かおかしいところあるのかな?」と彼は食堂で僕のとなりに座ってそう質問した。「顔に何かついてるとか」
「何もついてないし、おかしくないよ」と僕は表情を抑えて言った。「でも良いセーターだね、それ」
「ありがとう」と突撃隊はとても嬉しそうににっこりと笑った。
直子はその話をすると喜んだ。「その人に会ってみたいわ、私。一度でいいから」
「駄目だよ。君、きっと吹きだすもの」と僕は言った。
「本当に吹きだすと思う?」
「賭けてもいいね。僕なんか毎日一緒にいたって、ときどきおかしくて我慢できなくなるんだもの」
食事が終ると二人で食器を片づけ、床に座って音楽を聴きながらワインの残りを飲んだ。
僕が一杯飲むあいだに彼女は二杯飲んだ。
直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことや、学校のことや、家庭のことを彼女は話した。どれも長い話で、まるで細密画みたいに克明だった。たいした記憶力だなと僕はそんな話を聞きながら感心していた。しかしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に含まれている何かがだんだん気になりだした。何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んでいるのだ。ひとつひとつの話はまともでちゃんと筋もとおっているのだが、そのつながり方がどうも奇妙なのだ。Aの話がいつのまにかそれに含まれるBの話になり、やがてBに含まれるCの話になり、それがどこまでもどこまでもつづいた。終りというものがなかった。僕ははじめのうちは適当に合槌を打っていたのだが、そのうちにそれもやめた。僕はレコードをかけ、それが終ると針を上げて次のレコードをかけた。ひととおり全部かけてしまうと、また最初のレコードをかけた。レコードは全部で六枚くらいしかなく、サイクルの最初は『サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で、最後はビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』だった。窓の外では雨が降りつづけていた。時間はゆっくりと流れ、直子は一人でしゃべりつづけていた。
直子の話し方の不自然さは彼女がいくつかのポイントに触れないように気をつけながら話していることにあるようだった。もちろんキズキのこともそのポイントのひとつだつたが、彼女が避けているのはそれだけではないように僕には感じられた。彼女は話したくないことをいくつも抱えこみながら、どうでもいいような事柄の細かい部分についていつまでもいつまでもしゃべりつづけた。でも直子がそんなに夢中になって話すのははじめてだったし、僕は彼女にずっとしゃべらせておいた。
しかし時計が十一時を指すと僕はさすがに不安になった。直子はもう四時間以上ノンストップでしゃべりつづけていた。帰りの最終電車のこともあるし、門限のこともあった。僕は頃合を見はからって、彼女の話に割って入った。
「そろそろ引きあげるよ。電車の時間もあるし」と僕は時計を見ながら言った。
でも僕の言葉は直子の耳には届かなかったようだった。あるいは耳には届いても、その意味が理解できないようだった。彼女は一瞬口をつぐんだが、すぐにまた話のつづきを始めた。僕はあきらめて座りなおし、二本めのワインの残りを飲んだ。こうなったら彼女にしゃべりたいだけしゃべらせた方が良さそうだった。最終電車も門限も、何もかもなりゆきにまかせようと僕は心を決めた。
しかし直子の話は長くはつづかなかった。ふと気がついたとき、直子の話は既に終っていた。言葉のきれはしが、もぎとられたような格好で空中に浮かんでいた。正確に言えば彼女の話は終ったわけではなかった。どこかでふっと消えてしまったのだ。彼女はなんとか話しつづけようとしたが、そこにはもう何もなかった。何かが扱われてしまったのだ。あるいはそれを扱ったのは僕かもしれなかった。僕が言ったことがやっと彼女の耳に届き、時間をかけて理解され、そのせいで彼女をしゃべらせつづけていたエネルギーのようなものが狙われてしまったのかもしれない。
直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやりと見ていた。彼女は作動している途中で電源を抜かれてしまった機械みたいに見えた。彼女の目はまるで不透明な薄膜をかぶせられているようにかすんでいた。
「邪魔するつもりなかったんだよ」と僕は言った。「ただ時間がもう遅いし、それに…‥・」
彼女の目から涙がこぼれて頬をつたい、大きな音を立ててレコード・ジャケットの上に落ちた。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもうとめどがなかった。彼女は両手を床について前かがみになり、まるで吐くような格好で泣いた。僕は誰かがそんなに激しく泣いたのを見たのははじめてだった。僕はそっと手をのばして彼女の肩に触れた。肩はぶるぶると小刻みに煮えていた。それから僕は殆んど無意識に彼女の体を抱き寄せた。彼女は僕の腕の中でぶるぶると震えながら声を出さずに泣いた。涙と熱い息のせいで、僕のシャツは湿り、そしてぐっしょりと濡れた。直子の十本の指がまるで何かを――かつてそこにあった大切な何かを――探し求めるように僕の背中の上を彷徨っていた。僕は左手で直子の体を支え、右手でそのまっすぐなやわらかい髪を撫でた。僕は長いあいだそのままの姿勢で直子が泣きやむのを待った。しかし彼女は泣きやまなかった。
その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。二十年近く経った今でも、やはりそれはわからない。たぶん永遠にわからないだろうと思う。でもそのときはそうする以外にどうしようもなかったのだ。彼女は気をたかぶらせていたし、混乱していたし、僕にそれを鎮めてもらいたがっていた。僕は部屋の電気を消し、ゆっくりとやさしく彼女の服を脱がせ、自分の服も脱いだ。そして抱きあった。暖かい雨の夜で、我々は裸のままでも寒さを感じなかった。僕と直子は暗闇の中で無言のままお互いの体をさぐりあった。僕は彼女にくちづけし、乳房をやわらかく手で包んだ。直子は僕の固くなったベニスを握った。彼女のヴァギナはあたたかく濡れて僕を求めていた。
それでも僕が中に入ると彼女はひどく痛がった。はじめてなのかと訊くと、直子は肯いた。それで僕はちょっとわけがわからなくなってしまった。僕はずっとキズキと直子が寝ていたと思っていたからだ。僕はべニスをいちばん奥まで入れて、そのまま動かさずにじっとして、彼女を長いあいだ抱きしめていた。そして彼女が落ちつきを見せるとゆっくりと動かし、長い時間をかけて射精した。最後には直子は僕の体をしっかり抱きしめて声をあげた。僕がそれまでに聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声だった。
全てが終ったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊いてみた。でもそんなことは訊くべきではなかったのだ。直子は僕の体から手を離し、また声もなく泣きはじめた。僕は押入れから布団を出して彼女をそこに寝かせた。そして窓の外や降りつづける四月の雨を見ながら煙草を吸った。
朝になると雨はあがっていた。直子は僕に背中を向けて眠っていた。あるいは彼女は一睡もせずに起きていたのかもしれない。起きているにせよ眠っているにせよ、彼女の唇は一切の言葉を失い、その体は凍りついたように固くなっていた。僕は何度か話しかけてみたが返事はなかったし、休もぴくりとも動かなかった。僕は長いあいだじっと彼女の裸の肩を見ていたが、あきらめて起きることにした。
床にはレコード・ジャケットやグラスやワインの瓶や灰皿や、そんなものが昨夜のままに残っていた。テーブルの上には形の崩れたバースデー・ケーキが半分残っていた。まるでそこで突然時間が止まって動かなくなってしまったように見えた。僕は床の上にちらばったものを拾いあつめてかたづけ、流しで水を二杯飲んだ。机の上には辞書とフランス語の動詞表があった。机の前の壁にはカレンダーが貼ってあった。写真も絵も何もない数字だけのカレンダーだった。カレンダーは真白だった。書きこみもなければ、しるしもなかった。
僕は床に落ちていた服を拾って着た。シャツの胸はまだ冷たく湿っていた。顔を近づけると直子の匂いがした。僕は机の上のメモ用紙に、君が落ちついたらゆっくりと話がしたいので、近いうちに電話をほしい、誕生日おめでとう、と書いた。そしてもう二度直子の肩を眺め、部屋を出てドアをそっと閉めた。
一週聞たっても電話はかかってこなかった。直子のアパートは電話の取りつぎをしてくれなかったので、僕は日曜日の朝に国分寺まで出かけてみた。彼女はいなかったし、ドアについていた名札はとり外されていた。窓はぴたりと雨戸が閉ざされていた。管理人に訊くと、直子は三日前に越したということだった。どこに越したのかはちょっとわからないなと管理人は言った。
僕は寮に戻って役女の神戸の住所にあてて長文の手紙を書いた。直子がどこに越したにせよ、その手紙は直子あてに転送されるはずだった。
僕は自分の感じていることを正直に書いた。僕にはいろんなことがまだよくわからないし、わかろうとは真剣につとめているけれど、それには時間がかかるだろう。そしてその時間が経ってしまったあとで自分がいったいどこにいるのかは、今の僕には皆目見当もつかない。だから僕は君に何も約束できないし、何かを要求したり、綺麗な言葉を並べるわけにはいかない。だいいち我々はお互いのことをあまりにも知らなさすぎる。でももし君が僕に時間を与えてくれるなら、僕はベストを尽すし、我々はもっとお互いを知りあうことができるだろう。とにかくもう一度君と会あって、ゆっくりと話をしたい。キズキを亡くしてしまったあと、僕は自分の気持を正直に語ることのできる相手を失ってしまったし、それは君も同じなんじゃないだろうか。たぶん我々は自分たちが考えていた以上にお互いを求めあっていたんじゃないかと僕は思う。そしてそのおかげで僕らはずいぶんまわりみちをしてしまったし、ある意味では歪んでしまった。たぶん僕はあんな風にするべきじゃなかったのだとも思う。でもそうするしかなかったのだ。そしてあのとき君に対して感じた親密であたたかい気持は僕がこれまで一度も感じたことのない種類の感情だった。返事をほしい。どのような返事でもいいからほしい―そんな内容の手紙だった。
返事はこなかった。
体の中の何かが欠落して、そのあとを埋めるものもないまま、それは純粋な空洞として放置されていた。体は不自然に軽く、音はうつろに響いた。僕は週日には以前にも増してきちんと大学に通い、講義に出席した。講義は退屈で、クラスの連中とは話すこともなかったけれど、他にやることもなかった。僕は一人で教室の最前列の端に座って講義を聞き、誰とも話をせず、一人で食事をし、煙草を吸うのをやめた。
五月の末に大学がストに入った。彼らは「大学解体」を叫んでいた。結構、解体するならしてくれよ、と僕は思った。解体してバラバラにして、足で踏みつけて粉々にしてくれ。全然かまわない。そうすれば僕だってさっぱりするし、あとのことは自分でなんとでもする。手助けが必要なら手伝ったっていい。さっさとやってくれ。
大学が封鎖されて講義はなくなったので、僕は運送屋のアルバイトを始めた。運送トラックの助手席に座って荷物の積み下ろしをするのだ。仕事は思っていたよりきつく.最初のうちは体が痛くて朝起きあがれないほどだったが、給料はそのぶん良かったし、忙しく体を動かしているあいだは自分の中の空洞を意識せずに済んだ。僕は週に五日、運送屋で昼間働き、三日はレコード屋で夜番をやった。そして仕事のない夜は部屋でウィスキーを飲みながら本を読んだ。突撃隊は酒が一滴も飲めず、アルコールの匂いにひどく敏感で、僕がベッドに寝転んで生のウィスキーを飲んでいると、臭くて勉強できないから外で飲んでくれないかなと文句を言った。
「お前が出て行けよ」と僕は言った。
「だって、りょ、寮の中で酒飲んじゃいけないのって、き、き、規則だろう」と彼は言った。
「お前が出ていけ」と僕は繰り返した。
彼はそれ以上何も言わなかった。僕は嫌な気持になって、屋上に行って一人でウィスキーを飲んだ。
六月になって僕は直子にもう一度長い手紙を書いて、やはり神戸の住所あてに送った。内容はだいたい前のと同じだった。そして最後に、返事を待っているのはとても辛い、僕は君を傷つけてしまったのかどうかそれだけでも知りたいとつけ加えた。その手紙をポストに入れてしまうと、僕の心の中の空洞はまた少し大きくなったように感じられた。
六月に二度、僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。どちらもとても簡単だった。一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を脱がせようとすると暴れて抵抗したが、僕が面倒臭くなってベッドの中で一人で本を読んでいると、そのうちに自分の方から体をすりよせてきた。もう一人の女の子はセックスのあとで僕についてあらゆることを知りたがった。これまで何人くらいの女の子と寝たかだとか、どこの出身かだとか、どこの大学かだとか、どんな音楽が好きかだとか、太宰治の小説を読んだことがあるかだとか、外国旅行をするならどこに行ってみたいかだとか、私の乳首は他の人のに比べてちょっと大きすぎるとは思わないかだとか、とにかくもうありとあらゆる質問をした。僕は適当に答えて眠ってしまった。目が覚めると彼女は一緒に朝ごはんが食べたいと言った。僕は彼女と一緒に喫茶店に入ってモーニング・サービスのまずいトーストとまずい.玉子を食べまずいコーヒーを飲んだ。そしてそのあいだ彼女は僕にずっと質問をしていた。お父さんの職業は何か、高校時代の成績は良かったか、何月生まれか、蛙を食べたことはあるか、等等。僕は頭が痛くなってきたので食事が終ると、これからそろそろアルバイトに行かなくちゃいけないからと言った。
「ねえ、もう会えないの?」と彼女は淋しそうに言った。
「またそのうちどこかで会えるよ」と僕は言ってそのまま別れた。そして一人になってから、やれやれ俺はいったい何をやっているんだろうと思ってうんざりした。こんなことをやっているべきではないんだと僕は思った。でもそうしないわけにはいかなかった。僕の体はひどく飢えて乾いていて、女と寝ることを求めていた。僕は彼女たちと寝ながらずっと直子のことを考えていた。闇の中に白く浮かびあがっていた直子の裸体や、その吐息や、雨の音のことを考えていた。そしてそんなことを考えれば考えるほど僕の体は余計に飢え、そしで乾いた。僕は一人で屋上に上ってウィスキーを飲み、俺はいったい何処に行こうとしているんだろうと思った。
七月の始めに直子から手紙が届いた。短かい手紙だった。
「返事が遅くなってごめんなさい。でも理解して下さい。文章を書けるようになるまでずいぶん長い時間がかかったのです。そしてこの手紙ももう十回も書きなおしています。文章を書くのは私にとってとても辛いことなのです。
結論から書きます。大学をとりあえず一年間休学することにしました。とりあえずとは言っても、もう一度大学に戻ることはおそらくないのではないかと思います。休学というのはあくまで手続上のことです。急な話だとあなたは思うかもしれないけれど、これは前々からずっと考えていたことなのです。それについてはあなたに何度か話をしようと思っていたのですが、とうとう切り出せませんでした。口に出しちゃうのがとても怖かったのです。
いろんなことを気にしないで下さい。たとえ何が起っていたとしても、たとえ何が起っていなかったとしても、結局はこうなっていたんだろうと思います。あるいはこういう言い方はあなたを傷つけることになるのかもしれません。もしそうだとしたら謝ります。私の言いたいのは私のことであなたに自分自身を責めたりしないでほしいということなのです。これは本当に私が自分できちんと全部引き受けるべきことなのです。この一年あまり私はそれをのばしのばしにしてきて、そのせいであなたにもずいぶん迷惑をかけてしまったように思います。そしてたぶんこれが限界です。
国分寺のアパートを引き払ったあと、私は神戸の家に戻って、しばらく病院に通いました。お医者様の話だと京都の山の中に私に向いた療養所があるらしいので、少しそこに入ってみようかと思います。正確な意味での病院ではなくて、ずっと自由な療養のための施設です。細かいことについてはまた別の機会に書くことにします。今はまだうまく書けないのです。今の私に必要なのは外界と遮断されたどこか静かなところで神経をやすめる乙となのです。
あなたが一年間私のそばにいてくれた乙とについては、私は私なりに感謝しています。その二とだけは信じて下さい。あなたが私を傷つけたわけではありません。私を傷つけたのは私自身です。私はそう思っています。
私は今のところまだあなたに会う準備ができていません。会いたくないというのではなく、会う準備ができていないのです。もし準備ができたと思ったら、私はあなたにすぐ手紙を書きます。そのときには私たちはもう少しお互いのことを知りあえるのではないかと思います。あなたが言うように、私たちはお互いのことをもっと知りあうべきなのでしょう。
さようなら」
僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく哀しい気持になった。それはちょうど直子にじっと目をのぞきこまれているときに感じるのと同じ種類の哀しみだった。僕はそんなやるせない気持をどこに持っていくことも、どこにしまいこむこともできなかった。それは体のまわりを吹きすぎていく風のように輪郭もなく、重さもなかった。僕はそれを身にまとうことすらできなかった。
風景が僕の前をゆっくりと通りすぎていった。彼らの語る言葉は僕の耳には届かなかった。
土曜の夜になると僕はあいかわらずロビーの椅子に座って時間を過した。電話のかかってくるあてはなかったが、他にやることもなかった。僕はいつもTVの野球中継をつけて、それを見ているふりをしていた。そして僕とTVのあいだに横たわる茫漠とした空間をふたつに区切り、その区切られた空間をまたふたつに区切った。そして何度も何度もそれをつづけ、最後には手のひらにのるくらいの小さな空間を作りあげた。
十時になると僕はTVを消して部屋に戻り、そして眠った。
*
その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。
螢はインスタント・コーヒーの瓶に入っていた。瓶の中には草の葉と水が少し入っていて、ふたには細かい空気穴がいくつか開いていた。あたりはまだ明るかったので、それは何の変哲もない黒い水辺の虫にしか見えなかったが、突撃隊はそれは間違いなく螢だと主張した。螢のことはよく知ってるんだ、と彼は言ったし、僕の方にはとくにそれを否定する理由も根拠もなかった。よろしい、それは螢なのだ。螢はなんだか眠たそうな顔をしていた。そしてつるつるとしたガラスの壁を上ろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。
「庭にいたんだよ」
「ここの庭に?」と僕はびっくりして訊いた。
「ほら、こ、この近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放すだろ?あれがこっちに紛れこんできたんだよ」と彼は黒いボストン・バックに衣類やノートを詰めこみながら言った。
夏休みに入ってからもう何週間も経っていて、寮にまだ残っているのは我々くらいのものだった。僕の方はあまり神戸に帰りたくなくてアルバイトをつづけていたし、彼の方には実習があったからだ。でもその実習も終り、彼は家に帰ろうとしていた。突撃隊の家は山梨にあった。
「これね、女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ」と彼は言った。
「ありがとう」と僕は言った。
日が暮れると寮はしんとして、まるで廃墟みたいなかんじになった。国旗がポールから降ろされ、食堂の窓に電気が灯った。学生の数が減ったせいで、食堂の灯はいつもの半分しかついていなかった。右半分は消えて、左半分だけがついていた。それでも微かに夕食の匂いが漂っていた。クリーム・シチューの匂いだった。
僕は螢の入ったインスタント・コーヒーの瓶を持って屋上に上った。屋上には人影はなかった。誰かがとりこみ忘れた白いシャツが洗濯ロープにかかっていて、何かの脱け殻のように夕暮の風に揺れていた。
僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒形の給水タンクは昼のあいだにたっぷりと吸いこんだ熱でまだあたたかかった。狭い空間に腰を下ろし、手すりにもたれかかると、ほんの少しだけ欠けた白い月が目の前に浮かんでいた。右手には新宿の街の光が、左手には池袋の街の光が見えた。車のヘッドライトが鮮かな光の川となって、街から街へと流れていた。様々な音が混じりあったやわらかなうなりが、まるで雲みたいにぼおっと街の上に浮かんでいた。
瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。僕が最後に螢を見たのはずっと昔のことだったが、その記憶の中では螢はもっとくっきりとした鮮かな光を夏の闇の中に放っていた。僕はずっと螢というのはそういう鮮かな燃えたつような光を放つものと思いこんでいたのだ。
螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしていた。
螢を最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そしていったい何処だったのだろう、あれは?僕はその光景を思いだすことはできた。しかし場所と時間を思いだすことはできなかった。夜の暗い水音が聞こえた。煉瓦づくりの旧式の水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。大きな川ではない。岸辺の水草が川面をあらかた覆い隠しているような小さな流れだ。あたりは真暗で、懐中電灯を消すと自分の足もとさえ見えないくらいだった。そして水門のたまりの上を何百匹という数の螢が飛んでいた。その光はまるで燃えさかる火の粉のように水面に照り映えていた。
僕は目を閉じてその記憶の闇の中にしばらく身を沈めた。風の音がいつもよりくっきりと聞こえた。たいして強い風でもないのに、それは不思議なくらい鮮かな軌跡を残して僕の体のまわりを吹き抜けていった。目を開けると、夏の夜の闇はほんの少し深まっていた。
僕は瓶のふたを開けて螢をとりだし、三センチばかりつきだした給水塔の縁の上に置いた。螢は自分の置かれた状況がうまくつかめないようだった。螢はボルトのまわりをよろめきながら一周したり、かさぶたのようにめくれあがったペンキに足をかけたりしていた。しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめてから、また左に戻った。それから時間をかけてボルトの頭によじのぼり、そこにじっとうずくまった。螢はまるで息絶えてしまったみたいに、そのままぴくりとも動かなかった。
僕は手すりにもたれかかったまま、そんな螢の姿を眺めていた。僕の方も螢の方も長いあいだ身動きひとつせずにそこにいた。風だけが我々のまわりを吹きすぎて行った。闇の中でけやきの木がその無数の葉をこすりあわせていた。
僕はいつまでも待ちつづけた。
螢が飛びたったのはずっとあとのことだった。螢は何かを思いついたようにふと羽を拡げ、その次の瞬間には手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。それはまるで失われた時間をとり戻そうとするかのように、給水塔のわきで素速く弧を描いた。そしてその光の線が風ににじむのを見届けるべく少しのあいだそこに留まってから、やがて東に向けて飛び去っていった。
螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。
僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。