ノルウェイの森

第二章
 
 昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学生寮に住んでいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。東京のことなんて何ひとつ知らなかったし、一人ぐらしをするのも初めてだったので、親が心配してその寮をみつけてきてくれた。そこなら食事もついているし、いろんな設備も揃っているし、世間知らずの十八の少年でもなんとか生きていけるだろうということだった。もちろん費用のこともあった。寮の費用は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。なにしろ布団と電気スタンドさえあればあとは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕としてはできることならアパートを借りて一人で気楽に暮したかったのだが、私立大学の入学金や授業料や月々の生活費のことを考えるとわがままは言えなかった。それに僕も結局は住むところなんてどこだっていいやと思っていたのだ。
 その寮は都内の見晴しの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は少くとも百五十年ということだった。根もとに立って上を見あげると空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまう。
 コンクリートの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲り、それから再び長い直線となって中庭を横切って いる。中庭の両側には鉄筋コンクリート三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。窓の沢山ついた大きな建物で、アパートを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したアパートみたいな印象を見るものに与える。しかし決して不潔ではないし、暗い印象もない。開け放しになった窓からはラジオの音が聴こえる。窓のカーテンはどの部屋も同じクリーム色、日焼けがいちばん目立たない色だ。
 舗道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。一階には食堂と大きな浴場、二階には講堂といくつかの集会室、それから何に使うのかは知らないけれど貴賓室まである。本部建物のとなりには三つめの寮棟がある。これも三階建てだ。中庭は広く、緑の芝生の中ではスプリンクラーが太陽の光を反射させながらぐるぐると回っている。本部建物の裏手には野球とサッカーの兼用グラウンドとテニス?コートが六面ある。至れり尽せりだ。
 この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はあるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されており、その運営方針は――もちろん僕の目から見ればということだが――かなり奇妙に歪んだものだった。入寮案内のパンフレットと寮生規則を読めばそのだいたいのところはわかる。「教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる」、これがこの寮創設の精神であり、そしてその精神に賛同した多くの財界人が私財を投じ……というのが表向きの顔なのだが、その裏のことは例によって曖昧模糊としている。正確なところは誰にもわからない。ただの税金対策だと言うものもいるし、売名行為だと言うものもいるし、寮設立という名目でこの一等地を詐欺同然のやりくちで手に入れたんだと言うものもいる。いや、もっともっと深い読みがあるんだと言うものもいる。彼の説によればこの寮の出身者で政財界に地下の閥を作ろうというのが設立者の目的なのだということであった。たしかに寮には寮生の中のトップ?エリートをあつめた特権的なクラブのようなものがあって、僕もくわしいことはよく知らないけれど、月に何度かその設立者をまじえて研究会のようなものを開いており、そのクラブに入っている限り就職の心配はないということであった。そんな説のいったいどれが正しくてどれが間違っているのか僕には判断できないが、それらの説は「とにかくここはうさん臭いんだ」という点で共通していた。
 いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。
 寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れるし スポーツ?ニュースからマーチが切り離せないように、国旗掲揚から国歌は切り離せない。国旗掲揚台は中庭のまん中にあってどの寮棟の窓からも見えるようになっている。
 国旗を掲揚するのは東棟(僕の入っている寮だ)の寮長の役目だった。背が高くて目つきの鋭い六十前後の男だ。いかにも硬そうな髪にいくらか白髪がまじり、日焼けした首筋に長い傷あとがある。この人物は陸軍中野学校の出身という話だったが、これも真偽のほどはわからない。そのとなりにはこの国旗掲揚を手伝う助手の如き立場の学生が控えている。この学生のことは誰もよく知らない。丸刈りで、いつも学生服を着ている。名前も知らないし、どの部屋に住んでいるのかもわからない。食堂でも風呂でも一度も顔をあわせたことがない。本当に学生なのかどうかさえわからない。まあしかし学生服を着ているからにはやはり学生なのだろう。そうとしか考えようがない。そして中野学校氏とは逆に背が低く、小太りで色が白い。この不気味きわまりない二人組が毎朝六時に寮の中庭に日の丸をあげるわけだ。
 僕は寮に入った当初、もの珍しさからわざわざ六時に起きてよくこの愛国的儀式を見物したものである。朝の六時、ラジオの時報が鳴るのと殆んど同時に二人は中庭に姿を見せる。学生服はもちろん、学生服に黒の皮靴、中野学校はジャンパーに白の運動靴という格好である。学生服は桐の薄い箱を持っている。中野学校はソニーのポータブル?テープレコーダーを下げている。中野学校がテープレコーダーを掲揚台の足もとに置く。学生服が桐の箱をあける。箱の中にはきちんと折り畳まれた国旗が入っている。学生服が中野学校にうやうやしく旗を差し出す。中野学校がローブに旗をつける。学生服がテープレコーダーのスイッチを押す。
 君が代。
 そして旗がするするとポールを上っていく。
 「さざれ石のお――」というあたりで旗はポールのまん中あたり、「まあで――」というところで頂上にのぼりつめる。そして二人は背筋をしゃんとのばして(気をつけ)の姿勢をとり、国旗をまっすぐに見あげる。空が晴れてうまく風が吹いていれば、これはなかなかの光景である。
 夕方の国旗降下も儀式としてはだいたい同じような様式でとりおこなわれる。ただし順序は朝とはまったく逆になる。旗はするすると降り、桐の箱の中に収まる。夜には国旗は翻らない。
 どうして夜のあいだ国旗が降ろされてしまうのか、僕にはその理由がわからなかった。夜のあいだだってちゃんと国家は存続しているし、働いている人だって沢山いる。線路工夫やタクシーの運転手やバーのホステスや夜勤の消防士やビルの夜警や、そんな夜に働く人々が国家の庇護を受けることができないというのは、どうも不公平であるような気がした。でもそんなのは本当はそれほどたいしたことではないのかもしれない。誰もたぶんそんなことは気にもとめないのだろう。気にするのは僕くらいのものなのだろう。それに僕にしたところで何かの折りにふとそう思っただけで、それを深く追求してみようなんていう気はさらさらなかったのだ。
 寮の部屋割は原則として一、二年生が二人部屋、三、四年生が一人部屋ということになっていた。二人部屋は六畳間をもう少し細長くしたくらいの広さで、つきあたりの壁にアルミ枠の窓がついていて、窓の前に背中あわせに勉強できるように机と椅子がセットされている。入口の左手に鉄製の二段ベッドがある。家具はどれも極端なくらい簡潔でがっしりとしたものだった。机とベッドの他にはロッカーがふたつ、小さなコーヒー?テーブルがひとつ、それに作りつけの棚があった。どう好意的に見ても詩的な空間とは言えなかった。大抵の部屋の棚にはトランジスタ?ラジオとヘア?ドライヤーと電気ポットと電熱器とインスタント?コーヒーとティー?バッグと角砂糖とインスタント?ラーメンを作るための鍋と簡単な食器がいくつか並んでいる。しっくいの壁には「平凡パンチ」のビンナップか、どこかからはがしてきたポルノ映画のポスターが貼ってある。中には冗談で豚の交尾の写真を貼っているものもいたが、そういうのは例外中の例外で、殆んど部屋の壁に貼ってあるのは裸の女か若い女性歌手か女優の写真だった。机の上の本立てには教科書や辞書や小説なんかが並んでいた。
 男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚ない。ごみ箱の底にはかびのはえたみかんの皮がへばりついているし、灰皿がわりの空缶には吸殻が十センチもつもっていて、それがくすぶるとコーヒーかビールかそんなものをかけて消すものだから、むっとするすえた匂いを放っている。食器はどれも黒ずんでいるし、いろんなところにわけのわからないものがこびりついているし、床にはインスタント?ラーメンのセロファン?ラップやらビールの空瓶やら何かのふたやら何やかやが散乱している。ほうきで掃いて集めてちりとりを使ってごみ箱に捨てるということを誰も思いつかないのだ。風が吹くと床からほこりがもうもうと舞いあがる。そしてどの部屋にもひどい匂いが漂っている。部屋によってその匂いは少しずつ違っているが、匂いを構成するものはまったく同じである。汗と体臭とごみだ。みんな洗濯物をどんどんベッドの下に放りこんでおくし、定期的に布団を干す人間なんていないから布団はたっぷりと汗を吸いこんで救いがたい匂いを放っている。そんなカオスの中からよく致命的な伝染病が発生しなかったものだと今でも僕は不思議に思っている。
 でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように消潔だった。床にはちりひとつなく、窓ガラスにはくもりひとつなく、布団は週に一度干され、鉛筆はきちんと鉛筆立てに収まり、カーテンさえ月に一回は洗濯された。偶の同居人が病的なまでに清潔好きだったからだ。僕は他の連中に「あいつカーテンまで洗うんだぜ」と言ったが誰もそんなことは信じなかった。カーテンはときどき洗うものだということを誰も知らなかったのだ。カーテンというのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じていたのだ。「あれ異常性格だよ」と彼らは言った。それからみんなは彼のことをナチだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。
 僕の部屋にはピンナップさえ貼られてはいなかった。そのかわりアムステルダムの運河の写真が貼ってあった。僕がヌード写真を貼ると「ねえ、ワタナベ君さ、ぼ、ぼくはこういうのあまり好きじゃないんだよ」と言ってそれをはがし、かわりに運河の写真を貼ったのだ。僕もとくにヌード写真を貼りたかったわけでもなかったのでべつに文句は言わなかった。僕の部屋に遊びに来た人間はみんなその運河の写真を見て「なんだ、これ?」と言った。     「突撃隊はこれ見ながらマスターベーションするんだよ」と僕は言った。冗談のつもりで言ったのだが、みんなあっさりとそれを信じてしまった。あまりにもあっさりとみんなが信じるのでそのうちに僕も本当にそうなのかもしれないと思うようになった。
 みんなは突撃隊と同室になっていることで僕に同情してくれたが、僕自身はそれほど嫌な思いをしたわけではなかった。こちらが身のまわりを清潔にしている限り、彼は僕に一切干渉しなかったから、僕としてはかえって楽なくらいだった。掃除は全部彼がやってくれたし、布団も彼が干してくれたし、ゴミも彼がかたづけてくれた。僕が忙しくて三日風呂に入らないとくんくん匂いをかいでから入った方がいいと忠告してくれたし、そろそろ床屋に行けばとか鼻毛切った方がいいねとかも言ってくれた。困るのは虫が一匹でもいると部屋の中に殺虫スプレーをまきちらすことで、そういうとき僕は隣室のカオスの中に退避せざるを得なかった。
 突撃隊はある国立大学で地理学を専攻していた。
 「僕はね、ち、ち、地図の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕にそう言った。
 「地図が好きなの?」と僕は訊いてみた。
 「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、地図作るんだ」
 なるほど世の中にはいろんな希望があり人生の目的があるんだなと僕はあらためて感心した。それは東京に出てきて僕が最初に感心したことのひとつだった。たしかに地図づくりに興味を抱き熱意を持った人間が少しくらいいないことには――あまりいっぱいいる必要もないだろうけれど――それは困ったことになってしまう。しかし「地図」という言葉を口にするたびにどもってしまう人間が国土地理院に入りたがっているというのは何かしら奇妙であった。彼は場合によってどもったりどもらなかったりしたが、「地図」という言葉が出てくると百パーセント確実にどもった。
 「き、君は何を専攻するの?」と彼は訊ねた。
 「演劇」と僕は答えた。
 「演劇って芝居やるの?」
 「いや、そういうんじゃなくてね。戯曲を読んだりしてさ、研究するわけさ。ラシーヌとかイヨネスコとか、ンェークスビアとかね」
 シェークスビア以外の人の名前は聞いたことないな、と彼は言った。僕だって殆んど聞いたことはない。講義要項にそう書いてあっただけだ。
「でもとにかくそういうのが好きなんだね?」と彼は言った。
「別に好きじゃないよ」と僕は言った。
 その答は彼を混乱させた。混乱するとどもりがひどくなった。僕はとても悪いことをしてしまったような気がした。
「なんでも良かったんだよ、僕の場合は」と僕は説明した。「民族学だって東洋史だってなんだって良かったんだ。ただたまたま演劇だったんだ、気が向いたのが。それだけ」しかしその説明はもちろん彼を納得させられなかった。
 「わからないな」と彼は本当にわからないという顔をして言った。「ぼ、僕の場合はち、ち、地図が好きだから、ち、ち、ち、地図の勉強してるわけだよね。そのためにわざわざと、東京の大学に入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。でも君はそうじゃないって言うし……」
 彼の言っていることの方が正論だった。僕は説明をあきらめた。それから我々はマッチ棒のくじをひいて二段ベッドの上下を決めた。彼が上段で僕が下段だった。
 彼はいつも白いシャツと黒いズボンと紺のセーターという格好だった。頭は丸刈りで背が高く、頬骨がはっていた。学校に行くときはいつも学生服を着た。靴も鞄もまっ黒だった。見るからに右翼学生という格好だったし、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼んでいたわけだが本当のことを言えば彼は政治に対しては百パーセント無関心だった。洋服を選ぶのが面倒なのでいつもそんな格好をしているだけの話だった。彼が関心を抱くのは海岸線の変化とか新しい鉄道トンネルの完成とか、そういった種類の出来事に限られていた。そういうことについて話しだすと、彼はどもったりつっかえたりしながら一時間でも二時間でも、こちらが逃げだすか眠ってしまうかするまでしゃべりつづけていた。
 毎朝六時に「君が代」を目覚し時計がわりにして彼は起床した。あのこれみよがしの仰々しい国旗掲揚式もまるっきり役に立たないというわけではないのだ。そして服を着て洗面所に行って顔を洗う。顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。歯を一本一本取り外して洗っているんじゃないかという気がするくらいだ。部屋に戻ってくるとパンパンと音を立ってタオルのしわをきちんとのばしてスチームの上にかけて乾かし、歯ブラシと石鹸を棚に戻す。それからラジオをつけてラジオ体操を始める。
 僕はだいたい夜遅くまで本を読み朝は八時くらいまで熟睡するから、彼が起きだしてごそごそしても、ラジオをつけて体操を始めても、まだぐっすりと眠りこんでいることもある。しかしそんなときでも、ラジオ体操が跳躍の部分にさしかかったところで必ず目を覚ますことになった。覚まさないわけにはいかなかったのだ。なにしろ彼が跳躍するたびに――それも実に高く跳躍した――その震動でベッドがどすんどすんと上下したからだ。三日間、僕は我慢した。共同生活においてはある程度の我慢は必要だといいきかされていたからだ。しかし四日めの朝、僕はもうこれ以上は我慢できないという結論に達した。
 「悪いけどさ、ラジオ体操は屋上かなんかでやってくれないかな」と僕はきっぱりと言った。
 「それやられると目が覚めちゃうんだ」
 「でももう六時半だよ」と彼は信じられないという顔をして言った。
 「知ってるよ、それは。六時半だろ?六時半は僕にとってはまだ寝てる時間なんだ。どうしてかは説明できないけどとにかくそうなってるんだよ」
「駄目だよ。屋上でやると三階の人から文句がくるんだ。ここなら下の部屋は物置きだから誰からも文句はこないし」
 「じゃあ中庭でやりなよ。芝の上で」
 「それも駄目なんだよ。ぼ、僕のはトランジスタ?ラジオじゃないからさ、で、電源がないと使えないし、音楽がないとラジオ体操ってできないんだよ」
 たしかに彼のラジオはひどく古い型の電源式だったし、一方僕のはトランジスタだったがFMしか入らない音楽専用のものだった。やれやれ、と僕は思った。
「じゃあ歩み寄ろう」と僕は言った。「ラジオ体操をやってもかまわない。そのかわり跳躍のところだけはやめてくれよ。あれすごくうるさいから。それでいいだろ?」
 「ちょ、跳躍?」と彼はびっくりしたように訊きかえした。「跳躍ってなんだい、それ?」
 「跳躍といえば跳躍だよ。ぴょんぴょん跳ぶやつだよ」
 「そんなのないよ」
 僕の頭は痛みはじめた。もうどうでもいいやという気もしたが、まあ言いだしたことははっきりさせておこうと思って、僕は実際にNHKラジオ体操第一のメロディーを唄いながら床の上でぴょんぴょん跳んだ。
 「はら、これだよ、ちゃんとあるだろう?」
 「そ、そうだな。たしかにあるな。気がつ、つかなかった」
 「だからさ」と僕はベッドの上に腰を下ろして言った。「そこの部分だけを端折ってほしいんだよ。他のところは全部我慢するから。跳躍のところだけをやめて僕をぐっすり眠らせてくれないかな」
 「駄目だよ」と彼は実にあっさりと言った。「ひとつだけ抜かすってわけにはいかないんだよ。十年も毎日毎日やってるからさ、やり始めると、む、無意識に全部やっちゃうんだ。ひとつ抜かすとさ、み、み、みんな出来なくなっちゃう」
 僕はそれ以上何も言えなかった。いったい何が言えるだろう?いちばんてっとり早いのはそのいまいましいラジオを彼のいないあいだに窓から放りだしてしまうことだったが、そんなことをしたら地獄のふたをあけたような騒ぎがもちあがるのは目に見えていた。突撃隊は自分のもち物を極端に大事にする男だったからだ。僕が言葉を失って空しくベッドに腰かけていると彼はにこにこしながら僕を慰めてくれた。
 「ワ、ワタナベ君もさ、一緒に起きて体操するといいのにさ」と彼は言って、それから朝食を食べに行ってしまった。


*


 僕が突撃隊と彼のラジオ体操の話をすると、直子はくすくすと笑った。笑い話のつもりではなかったのだけれど、結局は僕も笑った。彼女の笑顔を見るのは――それはほんの一瞬のうちに消えてしまったのだけれど――本当に久しぶりだった。
 僕と直子は四ッ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ヶ谷の方に向けて歩いていた。五月の半ばの日曜日の午後だった。朝方ばらばらと降ったりやんだりしていた雨も昼前には完全にあがり、低くたれこめていたうっとうしい雨雲は南からの風に追い払われるように姿を消していた。鮮かな緑色をした桜の葉が風に揺れ、太陽の光をきらきらと反射させていた。日射しはもう初夏のものだった。すれちがう人々はセーターや上着を脱いて肩にかけたり腕にかかえたりしていた。日曜日の午後のあたたかい日差しの下では、誰もがみんな幸せそうに見えた。土手の向うに見えるテニス?コートでは若い男がシャツを脱いでショート?ハンツ一枚になってラケットを振っていた。並んでペンチに座った二人の修道尼だけがきちんと黒い冬の制服を身にまとっていて、彼女たちのまわりにだけは夏の光もまだ届いていないように思えるのだが、それでも二人は満ち足りた顔つきで日なたでの会話を楽しんでいた。
 十五分も歩くと背中に汗がにじんできたので、僕は厚い木綿のシャツを脱いでTシャツ一枚になった。彼女は淡いグレーのトレーナー??シャツの袖を肘の上までたくしあげていた。よく洗いこまれたものらしく、ずいぶん感じよく色が褪せていた。ずっと前にそれと同じシャツを彼女が着ているのを見たことがあるような気がしたが、はっきりとした記憶があるわけではない。ただそんな気がしただけだった。直子について当時僕はそれほど多くのことを覚えていたわけではなかった。
 「共同生活ってどう? 他の人たちと一緒に暮すのって楽しい?」と直子は訊ねた。
 「よくわからないよ。まだ一ヵ月ちょっとしか経ってないからね」と僕は言った。「でもそれほど悪くはないね。少くとも耐えがたいというようなことはないな」
彼女は水飲み場の前で立ち止まって、ほんのひとくちだけ水を飲み、ズボンのポケットから白いハンカチを出して口を拭いた。それから身をかがめ七注意深く靴の紐をしめなおした。
 「ねえ、私にもそういう生活できると思う?」
 「共同生活のこと?」
 「そう」と直子は言った。
 「どうかな、そういうのって考え方次第だからね。煩わしいことは結構あるといえばある。規則はうるさいし、下らない奴が威張ってるし、同居人は朝の六時半にラジオ体操を始めるしね。でもそういうのはどこにいったって同じだと思えば、とりたてて気にはならない。ここで暮らすしかないんだと思えば、それなりに暮せる。そういうことだよ」
 「そうね」と言って彼女は肯き、しばらく何かに思いをめぐらせているようだった。そして珍しいものでものぞきこむみたいに僕の目をじっと見た。よく見ると彼女の目はどきりとするくらい深くすきとおっていた。彼女がそんなすきとおった目をしていることに僕はそれまで気がつかなかった。考えてみれば直子の目をじっと見るような機会もなかったのだ。二人きりで歩くのも初めてだし、こんなに長く話をするのも初めてだった。
 「寮か何かに入るつもりなの?」と僕は訊いてみた。
 「ううん、そうじゃないのよ」と直子は言った。「ただ私、ちょっと考えてたのよ。共同生活をするのってどんなだろうって。そしてそれはつまり……」、直子は唇を噛みながら適当な言葉なり表現を探していたが、結局それはみつからなかったようだった。彼女はため息をついて目を伏せた。「よくわからないわ、いいのよ」
それが会話の終りだった。直子は再び東に向って歩きはじめ、僕はその少しうしろを歩いた。 直子と会ったのは殆んど一年ぶりだった。一年のあいだに直子は見違えるほどやせていた。特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなっていたが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった印象はまるでなかった。彼女のやせ方はとても自然でもの静かに見えた。まるでどこか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうちに体が勝手に細くなってしまったんだという風だった。そして直子は僕がそれまで考えていたよりずっと綺麗だった。僕はそれについて直子に何か言おうとしたが、どう表現すればいいのかわからなかったので結局は何も言わなかった。
 我々は何かの目的があってここに来たわけではなかった。僕と直子は中央線の電車の中で偶然出会った。彼女は一人で映画でも見ようかと思って出てきたところで、僕は神田の本屋に行くところだった。べつにどちらもたいした用事があるわけではなかった。降りましょうよと直子が言って、我々は電車を降りた。それがたまたま四ツ谷駅だったというだけのことなのだ。もっとも二人きりになってしまうと我々には話しあうべき話題なんてとくに何もなかった。直子がどうして電車を降りようと言いだしたのか、僕には全然理解できなかった。話題なんてそもそもの最初からないのだ。
 駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩きはじめた。僕は仕方なくそのあとを追うように歩いた。直子と僕のあいだには常に一メートルほどの距離があいていた。もちろんその距離を詰めようと思えば詰めることもできたのだが、なんとなく気おくれがしてそれができなかった。僕は直子の一メートルほどうしろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩いた。彼女は茶色の大きな髪どめをつけていて、横を向くと小さな白い耳が見えた。時々直子はうしろを振り向いて僕に話しかけた。うまく答えられることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこともあった。何を言っているのか聞きとれないということもあった。しかし、僕に聞こえても聞こえなくてもそんなことは彼女にはどちらでもいいみたいだった。直子は自分の言いたいことだけを言ってしまうと、また前を向いて歩きつづけた。まあいいや、散歩には良い日和だものな、と僕は思ってあきらめた。
しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。彼女は飯田橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越えてお茶の水の坂を上り、そのまま本郷に抜けた。そして都電の線路に沿って駒込まで歩いた。ちょっとした道のりだ。駒込に着いたときには日はもう沈んでいた。穏かな春の夕碁だった。
 「ここはどこ?」と直子がふと気づいたように訊ねた。
 「駒込」と僕は言った。「知らなかったの? 我々はぐるっと伺ったんだよ」
 「どうしてこんなところに来たの?」
 「君が来たんだよ。僕はあとをついてきただけ」
我々は駅の近くのそば屋に入って軽い食事をした。喉が乾いたので僕は一人でビールを飲んだ。注文してから食べ終るまで我々は一言もロをきかなかった。僕は歩き疲れていささかぐったりとしていたし、彼女はテーブルの上に両手を置いてまた何かを考えこんでいた。TVのニュースが今日の日曜日は行楽地はどこもいっぱいでしたと告げていた。そして我々は四ツ谷から駒込まで歩きました、と僕は思った。
 「ずいぶん体が丈夫なんだね」と僕はそばを食べ終ったあとで言った。
 「びっくりした?」
 「うん」
 「これでも中学校の頃には長距離の選手で十キロとか十五キロとか走ってたのよ。それに父親が山登りが好きだったせいで、小さい頃から日曜日になると山登りしてたの。ほら、家の裏がもう山でしょ?だから自然に足腰が丈夫になっちゃったの」
 「そうは見えないけどね」と僕は言った。
 「そうなの。みんな私のことをすごく華奢な女の子だと思うのね。でも人は見かけによらないのよ」彼女はそう言ってから付けたすように少しだけ笑った。
 「申しわけないけれど僕の方はかなりくたくただよ」
 「ごめんなさいね、一日つきあわせちゃって」
 「でも君と話ができてよかったよ。だって二人で話をしたことなんて一度もなかったものな」と僕は言ったが、何を話したのか思いだそうとしてもさっぱり思いだせなかった。
彼女はテーブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじりまわしていた。
 「ねえ、もしよかったら――もしあなたにとって迷惑じゃなかったらということなんだけど――私たちまた会えるかしら?もちろんこんなこと言える筋合じゃないことはよくわかっているんだけど」
 「筋合?」と僕はびっくりして言った。「筋合じゃないってどういうこと?」
彼女は赤くなった。たぷん僕は少しびっくりしすぎたのだろう。
 「うまく説明できないのよ」と直子は弁解するように言った。彼女はトレーナー?シャツの両方の袖を肘の上までひっぱりあげ、それからまたもとに戻した。電灯がうぶ毛をきれいな黄金色に染めた。「筋合なんて言うつもりはなかったの。もっと違った風に言うつもりだったの」
直子はテーブルに肘をついて、しばらく壁にかかったカレンダーを見ていた。そこに何か適当な表現を見つけることができるんじゃないかと期待して見ているようにも見えた。でももちろんそんなものは見つからなかった。彼女はため息をついて目を閉じ、髪どめをいじった。
 「かまわないよ」と僕は言った。「君の言おうとしてることはなんとなくわかるから。僕にもどう言えばいいのかわからないけどさ」
 「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しょうとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」
 直子は顔を上げて僕の目を見つめた。
 「そういうのってわかる?」
 「多かれ少なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ」と僕は言った。「みんな自分を表現しょうとして、でも正確に表現できなくてそれでイライラするんだ」
僕がそう言うと、直子は少しがっかりしたみたいだった。
 「それとはまた違うの」と直子は言ったが、それ以上は何も説明しなかった。
 「会うのは全然かまわないよ」と僕は言った。「どうせ日曜日ならいつも暇でごろごろしているし、歩くのは健康にいいしね」
 我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗りかえた。彼女は国分寺に小さなアパートを借りて暮していたのだ。
 「ねえ、私のしゃべり方って昔と少し変った?」と別れ際に直子が訊いた。
 「少し変ったような気がするね」と僕は言った。「でも何がどう変ったのかはよくわからないな。正直言って、あの頃はよく顔をあわせていたわりにあまり話をしたという記憶がないから」
 「そうね」と彼女もそれを認めた。「今度の土曜日に電話かけていいかしら?」
 「いいよ、もちろん。待っているよ」と僕は言った。


*


 はじめて直子に会ったのは高校二年生の春だった。彼女もやはり二年生で、ミッション系の品の良い女子校に通つていた。あまり熱心に勉強をすると「品がない」とうしろ指をさされるくらい品の良い学校だった。僕にはキズキという仲の良い友人がいて(仲が良いというよりは僕の文字どおり唯一の友人だった)、直子は彼の恋人だった。キズキと彼女とは殆んど生まれ落ちた時からの幼ななじみで、家も二百メートルとは離れていなかつた。
 多くの幼ななじみのカップルがそうであるように、彼らの閥係は非常にオーブンだったし、二人きりでいたいというような願望はそれほどは強くはないようだった。二人はしょっちゅうお互いの家を訪問しては夕食を相手の家族と一緒に食べたり、麻雀をやったりしていた。僕とダブル?デートしたことも何回かある。直子がクラス?メートの女の子をつれてきて、四人で動物園に行ったり、プールに泳ぎに行ったり、映画を観に行りたりした。でも正直なところ直子のつれてくる女の子たちは可愛くはあったけれど、僕には少々上品すぎた。僕としては多少がさつではあるけれど気楽に話ができる公立高校のクラス?メートの女の子たちの方が性にあっていた。直子のつれてくる女の子たちがその可愛いらしい頭の中でいったい何を考えているのか、僕にはさっぱり理解できなかった。たぶん彼女たちにも僕のことは理解できなかったんじゃないかと思う。
 そんなわけでキズキは僕をダブル?デートに誘うことをあきらめ、我々三人だけでどこかに出かけたり話をしたりするようになった。キズキと直子と僕の三人だった。考えてみれば変な話だが、結果的にはそれがいちばん気楽だったし、うまくいった。四人めが入ると雰囲気がいくぶんぎくしゃくした。三人でいると、それはまるで僕がゲストであり、キズキが有能なホストであり、直子がアシスタントであるTVのトーク番組みたいだった。いつもキズキが一座の中心にいたし、彼はそういうのが上手かった。キズキにはたしかに冷笑的な傾向があって他人からは傲慢だと思われることも多かったが、本質的には親切で公平な男だった。三人でいると彼は直子に対しても僕に対しても同じように公平に話しかけ、冗談を言い、誰かがつまらない思いをしないようにと気を配っていた。どちらかが長く黙っているとそちらにしゃべりかけて相手の話を上手くひきだした。そういうのを見ていると大変だろうなと思ったものだが、実際はたぶんそれほどたいしたことではなかったのだろう。彼には場の空気をその瞬間瞬間で見きわめてそれにうまく対応していける能力があった。またそれに加えて、たいして面白くもない相手の語から面白い部分をいくつもみつけていくことができるというちょっと得がたい才能を持っていた。だから彼と話をしていると、僕は自分がとても面白い人間でとても面白い人生を送っているような気になったものだった。
 もっとも彼は決して社交的な人間ではなかった。彼は学校では僕以外の誰とも仲良くはならなかった。あれほど頭が切れて座談の才のある男がどうしてその能力をもっと広い世界に向けず我我三人だけの小世界に集中させることで満足していたのか僕には理解できなかった。そしてどうして彼が僕を選んで友だちにしたのか、その理由もわからなかった。僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きなどちらかというと平凡な目立たない人間で、キズキがわざわざ注目して話しかけてくるような他人に抜きんでた何かを持っているわけではなかったからだ。それでも我々はすぐに気があって仲良くなった。彼の父親は歯科医で、腕の良さと料金の高さで知られていた。
 「今度の日曜日、ダブルデートしないか?俺の彼女が女子校なんだけど、可愛い女の子つれてくるからさ」と知りあってすぐにキズキが言った。いいよ、と僕は言った。そのようにして僕と直子は出会ったのだ。
 僕とキズキと直子はそんな風に何度も一緒に時を過したものだが、それでもキズキが一度席を外して二人きりになってしまうと、僕と直子はうまく話をすることができなかった。二人ともいったい何について話せばいいのかわからなかったのだ。実際、僕と直子のあいだには共通する話題なんて何ひとつとしてなかった。だから仕方なく我々は殆んど何もしゃべらずに水を飲んだりテーブルの上のものをいじりまわしたりしていた。そしてキズキが戻ってくるのを待った。キズキが戻ってくると、また話が始まった。直子もあまりしゃべる方ではなかったし、僕もどちらかといえば自分が話すよりは相手の話を聞くのが好きというタイプだったから、彼女と二人きりになると僕としてはいささか居心地が悪かった。相性がわるいとかそういうのではなく、ただ単に話すことがないのだ。
 キズキの葬式の二週間ばかりあとで、僕と直子は一度だけ顔をあわせた。ちょっとした用事があって喫茶店で待ちあわせたのだが、用件が済んでしまうとあとはもう何も話すことはなかった。僕はいくつか話題をみつけて彼女に話しかけてみたが、話はいつも途中で途切れてしまった。それに加えて彼女のしゃべり方にはどことなく角があった。直子は僕に対してなんとなく腹を立てているように見えたが、その理由は僕にはよくわからなかった。そして僕と直子は別れ、一年後に中央線の電車でばったりと出会うまで一度も顔を合わせなかった。

 あるいは直子が僕に対して腹を立てていたのは、キズキと最後に会って話をしたのが彼女ではなく僕だったからかもしれない。こういう言い方は良くないとは思うけれど、彼女の気持はわかるような気がする。僕としてもできることならかわってあげたかったと思う。しかし結局のところそれはもう起ってしまったことなのだし、どう思ったところで仕方ない種類のことなのだ。
 その五月の気持の良い昼下がりに、昼食が済むとキズキは僕に午後の授業はすっぱかして玉でも撞きにいかないかと言った。僕もとくに午後の授業に興味があるわけではなかったので学校を出てぶらぶらと坂を下って港の方まで行き、ビリヤード屋に入って四ゲームほど玉を撞いた。最初のゲームを軽く僕がとると彼は急に真剣になって残りの三ゲームを全部勝ってしまった。約束どおり僕がゲーム代を払った。ゲームのあいだ彼は冗談ひとつ言わなかった。これはとても珍しいことだった。ゲームが終ると我々は一服して煙草を吸った。
 「今日は珍しく真剣だったじゃないか」と僕は訊いてみた。
 「今日は負けたくなかったんだよ」とキズキは満足そうに笑いながら言つた。
 彼はその夜、自宅のガレージの中で死んだ。N360の排気パイプにゴムホースをつないで、窓のすきまをガムテープで日ばりしてからエンジンをふかせたのだ。死ぬまでにどれくらいの時間がかかったのか、僕にはわからない。親戚の病気見舞にでかけていた両親が帰宅してガレージに車を入れようとして扉を開けたとき、彼はもう死んでいた。カー?ラジオがつけっぱなしになって、ワイパーにはガソリン?スタンドの領収書がはさんであった。
遺書もなければ思いあたる動機もなかった。彼に最後に会って話をしたという理由で僕は警察に呼ばれて事情聴取された。そんなそぶりはまったくありませんでした、いつもとまったく同じでした、と僕は取調べの警官に言った。警官は僕に対してもキズキに対してもあまり良い印象は持たなかったようだった。高校の授業を抜けて玉撞きに行くような人間なら自殺したってそれほどの不思議はないと彼は思っているようだった。新聞に小さく記事が載って、それで事件は終った。赤いN360は処分された。教室の彼の机の上にはしばらくのあいだ白い花が飾られていた。
 キズキが死んでから高校を卒業するまでの十ヵ月ほどのあいだ、僕はまわりの世界の中に自分の位置をはっきりと定めることができなかった。僕はある女の子と仲良くなって彼女と寝たが、結局半年ももたなかった。彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこなかったのだ。僕はたいして勉強をしなくても入れそうな東京の私立大学を選んで受験し、とくに何の感興もなく入学した。その女の子は僕に東京に行かないでくれと言ったが、僕はどうしても神戸の街を離れたかった。そして誰も知っている人間がいないところで新しい生活を始めたかったのだ。
 「あなたは私ともう寝ちゃつたから、私のことなんかどうでもよくなっちゃったんでしょ?」と彼女は言って泣いた。
 「そうじゃないよ」と僕は言った。僕はただその町を離れたかっただけなのだ。でも彼女は理解しなかった。そして我々は別れた。東京に向う新幹線の中で僕は彼女の良い部分や優れた部分を思いだし、自分がとてもひどいことをしてしまったんだと思って後悔したが、とりかえしはつかなかった。そして僕は彼女のことを忘れることにした。
 東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くこと――それだけだった。僕は緑のフェルトを貼ったビリヤード台や、赤いN360や机の上の白い花や、そんなものをみんなきれいさっぱり忘れてしまうことにした。火葬場の高い煙突から立ちのぼる煙や、警察の取調べ室に置いてあったずんぐりした形の文鎮や、そんな何もかもをだ。はじめのうちはそれでうまく行きそうに見えた。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとした空気のかたまりのようなものが残った。そして時が経つにつれてそのかたまりははっきりとした単純なかたちをとりはじめた。僕はそのかたちを言葉に置きかえることができる。それはこういうことだった。

 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。
 そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり<死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ>と。それは僕には至極まともで論理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向う側にある。僕はこちら側にいて、向う側にはいない。
 しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。
 僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っていた。でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だった。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして思えばたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。


 

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