世界の終りとハードボイルドワンダーランド

3 ハードボイルド?ワンダーランド

――雨合羽《あまがっぱ》、やみくろ、洗いだし―― 私がとおされたのはがらんとした広い部屋だった。壁は白、天井も白、カーペットはコーヒー?ブラウン、どれも趣味の良い上品な色だ。ひとくちに白といっても上品な白と下品な白とでは色そのもののなりたちが違うのだ。窓のガラスは不透明で外の景色を確認することはできなかったが、そこからさしこむぼんやりとした光が太陽の光であることは間違いないようだった。とすればここは地下ではないし、したがってエレベーターは上昇していたことになる。それを知って私は少し安心した。私の想像はあたっていたのだ。女がソファーに座るようにという格好をしたので、私は部屋の中央にある皮張りのソファーに腰を下ろして脚を組んだ。私がソファーに座ると、女は入ってきたのとはべつのドアから出ていった。
 部屋には家具らしい家具はほとんどなかった。ソファー?セットのテーブルの上には陶製のライターと灰皿《はいざら》とシガレット?ケースが並んでいた。シガレット?ケースのふたをためしに開けてみたが、中には煙草《たばこ》は一本も入っていなかった。壁には絵もカレンダーも写真もかかっていない。余分なものは何ひとつとしてない。
 窓のわきに大きなデスクがあった。私はソファーから立ちあがって窓の前まで行き、そのついでにデスクの上を眺《なが》めてみた。がっしりとした厚い一枚板でできた机で、両側に大きなひきだしがついている。机にはライト?スタンドとビックのボールペンが三本と卓上カレンダーがあり、その側《そば》にはペーパー?クリップがひとつかみちらばっていた。私は卓上カレンダーの日付けをのぞきこんでみたが、日付けはちゃんとあっていた。今日の日付けだ。
 部屋の隅《すみ》にはどこにでもあるスティールのロッカーが三つ並んでいた。ロッカーは部屋の雰囲気《ふんいき》にはあまりあっていなかった。事務的で直截的《ちょくせつてき》にすぎるのだ。私なら部屋にあわせてもっとシックな木製のキャビネットを置くところだが、ここは私の部屋ではない。私はここに仕事できただけなのであって、鼠色《ねずみいろ》のスティール?ロッカーがあろうが薄桃色のジューク?ボックスがあろうが、それは私の関与する問題ではないのだ。
 左手の壁には埋めこみ式のクローゼットがついていた。縦に細長い折り畳み扉《とびら》がついている。それが部屋の中にある家具のすべてだった。時計も電話も鉛筆削りも水差しもない。本棚《ほんだな》もないし状差しもない。いったいこの部屋がどのような目的を持ってどのように機能しているのか、私には見当もつかなかった。私はソファーに戻《もど》ってまた脚を組み、あくびをした。
 十分ほどで女は戻ってきた。彼女は私には目もくれずにロッカーの扉のひとつを開け、その中から黒くつるつるしたものを抱えるようにしてとりだし、テーブルの上に運んだ。それはきちんと畳まれたゴム引きの雨合羽と長靴《ながぐつ》だった。いちばん上には第一次世界大戦のパイロットがつけていたようなゴーグルまで載っていた。今いったい何が起りつつあるのか、私にはさっぱりわけがわからなかった。
 女が私に向って何かを言ったが、唇《くちびる》の動かし方が速すぎて、読みとれなかった。
「もう少しゆっくりしゃべってもらえないかな。読唇術《どくしんじゅつ》はそれほど得意な方じゃないので」と私は言った。
 彼女は今度はゆっくりと大きく口を開いてしゃべった。〈それを服の上から着て下さい〉と彼女は言った。出来ることなら雨合羽なんて着たくはなかったが文句を言うのも面倒だったので私は黙って彼女の指示にしたがった。ジョギング?シューズを脱いでゴム長靴にはきかえ、スポーツ?シャツの上から雨合羽をかぶった。雨合羽はずしりと重く、長靴はサイズがひとつかふたつ大きかったが、私はそれについても文句は言わないことにした。女は私の前にきてくるぶしまである雨合羽のボタンをとめ、頭にすっぽりとフードをかぶせた。フードをかぶせるとき、私の鼻の先と彼女のつるりとした額が触れた。
「すごく良い匂《にお》いだね」と私は言った。オーデコロンのことを賞《ほ》めたのだ。
〈ありがとう〉と言って、彼女は私のフードのスナップを鼻の下のところまでぱちんぱちんととめた。そしてフードの上からゴーグルをつけた。おかげで私は雨天用のミイラのような格好になってしまった。
 それから彼女はクローゼットの扉のひとつを開け、私の手を引いてその中に押しこんでから中のライトを点《つ》け、後手《うしろで》でドアを閉めた。ドアの中は洋服だんすになっていた。洋服だんすとはいっても洋服の姿はなく、コート?ハンガーや防虫ボールがいくつか下がっているだけだ。たぶんこれはただの洋服だんすではなく、洋服だんすを装った秘密の通路か何かだろうと私は想像した。何故《なぜ》なら私が雨合羽を着せられて洋服だんすに押しこまれる意味なんて何もないからだ。
 彼女は壁の隅にある金属の把手《とって》をごそごそといじっていたが、やがて案の定正面の壁の一部が小型自動車のトランクくらいの大きさにぽっかりと手前に開いた。穴の中はまっ暗で、そこからひやりとした湿った風が吹いてくるのがはっきりと感じられた。あまり良い気持のしない風だった。川が流れるようなごうごうという絶え間のない音も聞こえた。
「この中に川が流れています」と彼女は言った。川の音のおかげで、彼女の無音のしゃべり方にはいささかのリアリティーが加わったように感じられた。本当は声を出しているのに川の音に消されているように見えるのだ。それで心なしか彼女のことばが理解しやすくなったような気がした。不思議といえば不思議なものだ。
「川をずっと上流の方に行くと大きな滝がありますから、それをそのままくぐって下さい。祖父の研究室はその奥にあります。そこまで行けばあとはわかります」
「そこに行くと君のおじいさんがいて僕《ぼく》を待っているんだね?」
「そう」と彼女は言って、私にストラップのついた防水の大型懐中電灯をわたしてくれた。まっ暗闇《くらやみ》の中に入っていくのはどうもあまり気が進まなかったが、今更そんなことを言うわけにはいかないので、私は意を決してぽっかりと口をあけた闇の中に片脚を踏み入れた。それから体を前にかがめて頭と肩を中に入れ、最後に残りの脚を引きこんだ。ごわごわとした雨合羽に体をくるまれていると、これはなかなか骨の折れる作業だったが、どうにか私は自分の体を洋服だんすから壁の向う側に移し終えた。そして洋服だんすの中に立っている太った娘を見た。暗い穴の奥からゴーグルを通して眺めると、彼女はすごく可愛《かわい》かった。
「気をつけてね。川から外れたりわき道にそれたりしちゃだめよ。まっすぐね」と彼女は身をかがめて私をのぞきこむようにして言った。
「まっすぐ行って滝」と私は大声で言った。
「まっすぐ行って滝」と彼女も繰りかえした。
 私はためしに声を出さずに〈せら〉というかたちに唇を動かしてみた。彼女もにっこりと笑って〈せら〉と言った。そして扉をばたんと閉めた。 扉が閉まると私は完全な暗闇に包まれた。針の先ほどの光もない文字どおりの完全な暗闇だった。何も見えない。顔の前に近づけた自分の手さえも見えないのだ。私は何かに打たれたようにしばらくその場に茫然《ぼうぜん》と立ち尽していた。まるでビニール?ラップにくるまれて冷蔵庫に放《ほう》りこまれそのままドアを閉められてしまった魚のような冷ややかな無力感が私を襲った。何の心構えもなしに突然完全な暗闇の中に放りこまれてしまうと、一瞬体じゅうの力が脱け落ちてしまうのだ。彼女は扉を閉めるなら閉めると予告くらいはしてくれるべきだったのだ。
 手さぐりで懐中電灯のスウィッチを押すと、なつかしい黄色い光が暗闇の中にまっすぐな一本の線となって走った。私はまずそれで足もとを照らし、それからそのまわりの足場をゆっくりとたしかめてみた。私の立っている場所は三メートル四方ほどの狭いコンクリートのステージで、その向うは底も見えない切りたった絶壁になっていた。柵《さく》もなければ囲いもない。そういうことも彼女は前もって私に注意してくれるべきだったのだと私はいくぶん腹立たしく思った。
 ステージのわきに下に降りるためのアルミニウムの梯《はし》子《ご》がついていた。私は懐中電灯のストラップを胸にななめにかけ、つるつるとすべるアルミニウムの梯子を一段一段たしかめるようにして下に降りた。下降するにしたがって水の流れる音が少しずつ大きく明確になっていった。ビルの一室のクローゼットの奥が切りとおしの絶壁になっていてその底に川が流れているなんていう話は聞いたこともない。それも東京のどまん中の話なのだ。考えれば考えるほど頭が痛んだ。まず最初にあの不気味なエレベーター、次に声を出さずにしゃべる太った娘、それからこれだ。あるいは私はそのまま仕事を断って家に帰ってしまうべきなのかもしれなかった。危険が多すぎるし、何から何までが常軌を逸している。しかし私はあきらめてそのまま暗闇の絶壁を下降した。ひとつにはそれは私の職業上のプライドのせいだし、もうひとつはあのピンクのスーツを着た太った娘のせいだった。私には彼女のことが何故か気になっていて、そのまま仕事を断って引き上げてしまう気にならなかったのだ。
 二十段下りたところでひと休みして息をつき、それからまた十八段下りるとそこは地面だった。私は梯子の下に立って懐中電灯でまわりを用心深く照らしてみた。足の下は堅く平らな岩盤になっており、その少し先を幅二メートルほどの川が流れていた。懐中電灯の光の中で川の表面が旗のようにぱたぱたと揺れながら流れているのが見えた。流れはかなり速そうだったが、川の深さや水の色まではわからなかった。私にわかったのは水が左から右へと流れていることだけだった。
 私は足もとをしっかりと照らしながら岩盤づたいに川の上流へと向った。ときどき体の近くを何かが徘徊《はいかい》しているような気配を感じてさっと光をあててみたが、目につくものは何もなかった。川の両側のまっすぐに切りたった壁と水の流れが見えるだけだった。おそらく暗闇に囲まれているせいで神経が過敏になっているのだ。
 五、六分歩くと天井がぐっと低くなったらしいことが水音の響きかたでわかった。私は懐中電灯の光を頭上にあててみたが、あまりにも闇が濃すぎて天井を認めることはできなかった。次に娘が注意してくれたように、両側の壁にわき道らしきものが見受けられるようになった。もっともそれはわき道というよりは岩の裂けめとでも表現すべきもので、その下の方からは水がちょろちょろと流れだして細い水流となって川に注いでいた。私はためしにそんな裂けめのひとつに寄って懐中電灯で中を照らしてみたが、何も見えなかった。入口に比べて奥の方が意外に広々としているらしいことがわかっただけだった。中に入ってみたいというような気は毛ほども起きなかった。
 私は懐中電灯をしっかりと右手に握りしめ、進化途上にある魚のような気分で暗闇の中を上流へと向った。岩盤は水に濡《ぬ》れてすべりやすくなっていたので、一歩一歩注意しながら足を前に踏みださねばならなかった。こんなまっ暗闇の中で足をすべらせて川にでも落ちるか懐中電灯を壊すかでもしたらにっちもさっちもいかなくなってしまう。
 ひたすら足もとに神経を集中して歩いていたので、私は前方にちらちらと揺れるほのかな光にしばらく気づかなかった。ふと目をあげると、その光は私の七、八メートル手前まで近づいていた。私は反射的に懐中電灯のスウィッチを消し、雨合羽のスリットに手をつっこんでズボンの尻《しり》ポケットからナイフをひっぱりだした。そして手さぐりで刃を開いた。暗闇とごうごうという水音が私をすっぽりと包んでいた。
 私が懐中電灯の光を消すと、同時にそのほのかな黄色い灯《ひ》もぴたりと動きを止めた。それから大きく二度空中に輪を描いた。どうやら〈大丈夫、心配ない〉という合図のつもりであるらしかった。しかし私は気をゆるめずにそのままの姿勢で相手の出方を待った。やがて灯はまた揺れはじめた。まるで高度な頭脳を持った巨大な発光虫がふらふらと空中を漂いながら私の方に向ってくるように見えた。私は右手でナイフを握り、左手にスウィッチを切ったままの懐中電灯を持ち、その灯をじっと睨《にら》んでいた。
 灯は私から三メートルほどのところまで近づくとそこで停《と》まり、そのまますっと上方に上ってまた停まった。灯はかなり弱いものだったので、それが何を照らしだしているのかはじめのうちはよくわからなかったが、じっと目をこらしているとどうやらそれが人の顔であるらしいことがわかってきた。その顔は私と同じようにゴーグルをかけ、黒いフードをすっぽりとかぶっていた。彼が手にしているのはスポーツ用品店で売っているような小型のカンテラだった。彼はそのカンテラで自分の顔を照らしながら何ごとかを懸命にしゃべっていたが、水音の反響のせいで私には何も聞きとれなかったし、暗いのと口の開きかたが不明瞭《ふめいりょう》なせいとで、唇の動きを読みとることもできなかった。
「……でなから……せいです。あんたのすまと……わるいから、これと……」と男は言っているように見えたが、これでは何のことやらさっぱりわからない。ともかく危険はなさそうだったので、私は懐中電灯をつけてその光で自分の顔を横から照らし、指で耳をつついて何も聞きとれないということを相手に示した。
 男は納得したように何度か肯《うなず》いてからカンテラを下におろし、雨合羽のポケットの中に両手をつっこんでもそもそとしていたが、そのうちにまるで潮が急激に引いていくように私のまわりに充《み》ちていた轟音《ごうおん》がどんどん弱まっていった。私はてっきり自分が失神しかけているのだと思った。意識が薄れて、そのために頭の中から音が消えていくのだ、と。それで私は――どうして自分が失神しなくてはならないのかよくわからなかったけれど――転倒にそなえて体の各部の筋肉をひきしめた。
 しかし何秒かたっても私は倒れなかったし、気分もごくまともだった。ただまわりの音が小さくなっただけだった。
「迎えにきたです」と男は言った。今度ははっきりと男の声が聞こえた。
 私は頭を振って懐中電灯をわきにはさみ、ナイフの刃を収めてポケットにしまった。とんでもない一日になりそうな予感がした。
「音はどうしたんですか?」と私は男にたずねてみた。
「ええ、音ねえ、うるさかったでしょう。小さくしました。すみません。もう大丈夫」と男は何度も肯きながら言った。川の音はもう小川のせせらぎ程度にまで弱まっていた。「さあ行くですか」と男はくるりと私に背中を向け、慣れた足どりで上流にむけて歩きはじめた。私は懐中電灯で足もとを照らしながらそのあとを追った。
「音を小さくしたってことは、これが人工の音ということなんですか?」と私は男の背中があるとおぼしきあたりにむかってどなってみた。
「違うです」と男が言った。「ありゃ自然の音です」
「どうして自然の音が小さくなるんですか?」と私は質問した。
「正確には小さくするってんじゃなくて」と男は答えた。「音を抜くわけです」
 私は少し迷ったが、それ以上の質問は控えることにした。私は他人に対してあれこれと質問を浴びせかけられる立場にはないのだ。私は私の仕事を果しに来たのであって、私の依頼人が音を消そうが抜こうがウォッカ?ライムみたいにかきまわそうが、そんなことは私のビジネスの線上にはないのだ。それで私は何も言わずに黙々と歩きつづけた。
 いずれにせよ水音が抜かれたおかげで、あたりはとても静かになっていた。ゴム長靴のキュッキュッという音までがはっきりと聞きとれるくらいだった。頭上で誰《だれ》かが小石をこすりあわせるような奇妙な音が二、三度して、そして止《や》んだ。
「やみくろ《????》のやつがこっちにまぎれこんだような形跡があったんで心配になって、あんたをここまで迎えにきたですよ。本当なら奴《やつ》らはこっちまで絶対に来《こ》んのですが、たまにそういうこともあってね、困るですよ」と男は言った。
「やみくろ……」と私は言った。
「あんただってやみくろにばったりこんなところで出くわしちゃたまらんでしょうが」と男は言って、巨大な声でふおっふおっと笑った。
「まあそれはね」と僕も調子をあわせて言った。やみくろにせよ何にせよ、こんなまっ暗なところでわけのわからないものになんか会いたくない。
「それで迎えに来たです」と男は繰りかえした。「やみくろはいかんですから」
「それはどうも御親切に」と私は言った。
 そのまましばらく進むと前の方から水道の蛇口《じゃぐち》を出しっ放しにしたような音が聞こえてきた。滝だった。懐中電灯でざっと照らしてみただけなのでくわしいことはわからないのだけれど、かなり大きな滝であるようだった。もし音を抜かれていなかったら相当な音がしたことだろう。前に立つとしぶきでゴーグルがぐっしょりと濡れた。
「ここをくぐり抜けるわけですね?」と私は訊《き》いてみた。
「そう」と男は言った。そしてそれ以上の何の説明を加えることもなくどんどん滝の方に進んで、その中にすっぽりと姿を消してしまった。仕方なく私も急いでそのあとを追った。
 幸いなことに我々の抜けた通路は滝の中でもいちばん水量の少ない個《か》所《しょ》だったのだが、それでも体が地面に叩《たた》きつけられるくらいの勢いはあった。いくら雨合羽を着こんでいるとはいえ、いちいち滝に打たれないことには研究室に出入りできないなんて、どう好意的に考えても馬鹿気《ばかげ》た話だった。たぶん機密を保持するつもりなのだろうけれど、それにしてももう少し気の利《き》いたやりかたがあるはずだ。私は滝の中で転んで岩に膝《ひざ》がしらを思いきりぶっつけた。音が抜いてあるせいで音とその音をもたらす現実とのバランスが完全に狂っていて、それが私を混乱させてしまったのだ。滝というのはその滝にふさわしい音量を有するべきものである。
 滝の奥には人が一人やっと通れるほどの大きさの洞窟《どうくつ》があり、それをまっすぐ進むとつきあたりに鉄の扉がついていた。男は雨合羽のポケットから小型計算器のようなものをとりだし、それを扉のスリットに挿入《そうにゅう》してしばらく操作していたが、扉はやがて音もなく内側に開いた。
「さ、着きました。どうぞ入って下さい」と男は言って私を先に入れ、それから自分も中に入って扉をロックした。
「大変だったでしょう?」
「そんなことはないとはとても言えないですね」と私は控えめに言った。
 男は首からカンテラをひもで吊《つる》し、フードをかぶってゴーグルをかけた姿のまま笑った。ふおっほっほという妙な笑い方だった。
 我々の入った部屋はプールの脱衣室のような素気のない広い部屋で、棚《たな》には私の着ているのと同じような黒い雨合羽とゴム長靴とゴーグルが半ダースばかりきちんと並んでいた。私はゴーグルをとり、雨合羽を脱いでハンガーにかけ、ゴム長靴を棚に置いた。そして最後に懐中電灯を壁の金具にかけた。
「いろいろと手間をとらせて悪かったです」と男は言った。「しかし警戒を怠ることはできんのです。それなりの用心をせんと、我々を狙《ねら》ってうろうろと徘徊しておる奴らがおるですから」
「やみくろですか?」と私はかまをかけてみた。
「そうです。やみくろもそのひとつです」と男は言って、一人で肯いた。
 それから彼は私をその脱衣室の奥にある応接室に案内した。黒い雨合羽を脱いでしまうと、男はただの品の良い小柄《こがら》な老人になった。太っているというのでもないのだが、体のつくりはがっしりとして頑丈《がんじょう》そうだった。顔の血色がよく、ポケットから縁のない眼鏡をだしてかけると、戦前の大物政治家のような風《ふう》貌《ぼう》になった。
 彼は私にソファーに座るように勧め、自分は執務用のデスクのうしろに腰を下ろした。部屋のつくりは私が最初にとおされた部屋とまるで同じだった。カーペットの色も照明器具も、壁紙もソファーもみんな同じだった。ソファーのテーブルの上には同じ煙草《たばこ》セットが置いてあった。デスクの上には卓上カレンダーがあり、ペーパー?クリップが同じようにちらばっていた。ぐるりとまわって同じ部屋に戻《もど》ってきてしまったような気がするほどだった。本当にそうなのかもしれないし、本当はそうじゃないのかもしれない。私にしたところで、ペーパー?クリップのちらばりかたをいちいち記憶しているわけでもないのだ。
 老人はしばらく私を観察していた。それからペーパー?クリップを一本手にとってまっすぐに伸ばし、それで爪《つめ》の甘皮をつついた。左手の人さし指の爪の甘皮だった。甘皮をひとしきりつつき終ると、彼はまっすぐに伸びたペーパー?クリップを灰皿《はいざら》に捨てた。私はこの次なにかに生まれかわることができるとしても、ペーパー?クリップにだけはなりたくないと思った。わけのわからない老人の爪の甘皮を押し戻してそのまま灰皿に捨てられてしまうなんて、あまりぞっとしない。
「私の情報によれば、やみくろと記号士は手を握っておるですよ」と老人は言った。「しかしもちろんそれで奴らがしっかり結束したというわけじゃない。やみくろは用心深いし、記号士はさきばしりすぎる。だから奴らの結びつきはまだごく一部にすぎないです。でもこりゃあ良くない兆《きざ》しです。ここまで来るはずのないやみくろがこのあたりをちょろちょろしだしたというのもいかにもまずいですしな。このままでいけば、早晩このあたりもやみくろだらけになっちまうかもしれん。そうなると私もとても困るです」
「たしかにね」と私は言った。やみくろがいったいどういうものなのか私には見当もつかないが、記号士たちがもし何かの勢力と手をつないだのだとしたら、それは私にとっても非常に具合の悪いことになるはずである。というのは我々と記号士たちはただでさえきわめてデリケートなバランスをとって拮抗《きっこう》しているから、ちょっとした作用で何もかもがひっくりかえってしまうということだってあり得るのだ。だいいち私がやみくろのことを知らないのに連中が知っているというだけで、既にバランスは狂ってしまっているわけだ。もっとも私がやみくろのことを知らないのは私が下級の現場独立職だからなのであって、上の方の連中はそんなことはとっくの昔に承知しているのかもしれない。
「しかしまあ、それはともかくとして、あんたさえよろしければさっそく仕事にとりかかってもらうことにしましょう」と老人は言った。
「結構です」と私は言った。
「私はいちばん腕ききの計算士をまわしてくれるようにとエージェントに頼んだんだが、あんたはわりに評判が良いようですな。みんなあんたのことを賞《ほ》めておったです。腕はいいし、度胸もあるし、仕事もしっかりしている。協調性に欠けることをべつにすれば、言うことはないそうだ」
「恐縮です」と私は言った。謙虚なのだ。
 ふおっほっほと老人はまた大声で笑った。「協調性なんぞはどうだってよろしいです。問題は度胸だ。度胸がなくちゃ一流の計算士にはなれんですよ。ま、そのぶん高給をとっておるわけだが」
 言うべきことがないので、私は黙っていた。老人はまた笑って、それから私をとなりの仕事場へと案内した。
「私は生物学者です」と老人は言った。「生物学といっても私のやっておることは非常に幅が広くてとてもひとくちでは言えんです。それは脳生理学から音響学?言語学?宗教学にまで及んでおるです。自分で言うのもなんだが、なかなか独創的かつ貴重な研究をしておるですよ。今やっておるのは主に哺乳《ほにゅう》動物の口蓋《こうがい》の研究ですな」
「コウガイ?」
「口ですな。口のしくみです。口がどんな風に動いて、どんな風に声を出すかとか、そういうことを研究しておるです。まあこれをごらんなさい」
 彼はそう言うと、壁のスウィッチをいじって仕事場の電灯をつけた。部屋の奥の壁は一面棚になっていて、そこにはありとあらゆる哺乳動物の頭蓋骨が所狭しと並んでいた。キリンから馬からパンダから鼠《ねずみ》まで、私が思いつく限りの哺乳動物の頭は全部揃《そろ》っていた。数にすれば三百から四百はあるだろう。もちろん人間の頭蓋骨もあった。白人と黒人とアジア人とインディオの頭が、それぞれ男女ひとつずつ並べられていた。
「鯨《くじら》と象の頭蓋骨は地下の倉庫に置いてあるですよ。御存じのように、あれらはかなりの場所をとりますからな」と老人は言った。
「そうでしょうね」と私は言った。たしかに鯨の頭を並べたりしたら、それだけでこの部屋がいっぱいになってしまいそうである。
 動物たちはみんな申しあわせたようにぱっくりと口を開けて、ふたつのうつろな穴で正面の壁をじっと睨《にら》んでいた。研究用の標本とはいえ、そんな骨にまわりをとり囲まれているのはあまり気分のよいものではない。他の棚には頭蓋骨ほどの数ではないにせよ、様々なタイプの舌や耳や唇《くちびる》や口喉蓋《こうこうがい》がホルマリン漬《づ》けになってやはりずらりと並んでいた。
「どうですか、なかなかのコレクションでしょうが」と老人は嬉《うれ》しそうに言った。「世間には切手を集めるものもおれば、レコードを集めるものもおる。ワインを地下室に揃えるものもおれば、庭に戦車を並べて喜んでいる金持もおるです。私は頭骨を集めておるですな。世間は様々です。だから面白《おもしろ》い。そう思わんですか?」
「そうでしょうね」と私は言った。
「私は比較的若い時期から哺乳類の頭骨には少なからざる興味を持っておって、それでコツコツと骨を集めておったんです。もう四十年近くにもなりますかな。骨というものを理解するには想像以上に長い歳月がかかるのです。そういう意味では肉のついた生身の人間を理解する方がよほど楽だ。私はつくづくそう思うですよ。もっともあんたくらいお若ければ肉そのものの方に興味がおありだと思うが」と言って老人はまたふおっほっほとひとしきり笑った。「私の場合、骨から出てくる音を聴きとるまでにまるまる三十年もかかったですよ。三十年といえばあんた、これは並大抵の歳月ではない」
「音?」と私は言った。「骨から音が出るんですか?」
「もちろん」と老人は言った。「それぞれの骨にはそれぞれ固有の音があるです。それはまあ言うなれば隠された信号のようなものですな。比喩《ひゆ》的《てき》にではなく、文字どおりの意味で骨は語るのです。で、私の今やっておる研究の目的はその信号を解析することにあるです。そしてそれを解析することができれば今度はそれを人為的にコントロールすることが可能になる」
「ふうむ」と私はうなった。細かいところまでは私には理解できなかったが、もしそれが老人の言うとおりであるとすれば貴重な研究であることは確かなようだった。「貴重な研究のようですね」と私は言ってみた。
「実にそのとおり」と老人は言って肯《うなず》いた。「だからこそ奴《やつ》らもこの研究を狙《ねら》ってきておるわけです。奴らはまったくの地獄耳ですからな。私の研究を奴らは悪用しようとしておるです。たとえば骨から記憶を収集できるとなると拷問《ごうもん》の必要もなくなるです。相手を殺して肉をそぎおとし、骨を洗えばよろしいわけですからな」
「それはひどい」と私は言った。
「もっとも幸か不幸かそこまでまだ研究は進んではおらんのです。今の段階では脳をとりだした方がより明確な記憶の収集ができるですよ」
「やれやれ」と私は言った。骨だって脳だって抜かれてしまえば同じようなものだ。
「だからこそあんたに計算をお願いしておるのですよ。記号士たちに盗聴されて実験データを盗まれんようにね」と老人は真顔で言った。「科学の悪用は科学の善用と並んで現代文明を危機的状況に直面させておるです。科学とは科学そのもののために存在するべきものだと私は確信しておるのです」
「信念のことはよくわかりませんが」と私は言った。「ひとつだけはっきりさせておきたいことがあります。事務的なことです。今回のこの仕事の依頼は『組織《システム》』本部からでもなく、オフィシャル?エージェントからでもなく、あなたの方から直接来ています。これは異例のことです。もっとはっきりいえば就業規則に違反している可能性があります。もし違反していれば私は懲罰を受け、ライセンスを没収されます。それはおわかりですか?」
「よくわかっておるです」と老人は言った。「心配なさるのも無理はない。しかしこれはきちんと『組織《システム》』を通した正式な依頼なのです。ただ機密を守るために事務レベルを通さずに私が個人的にあんたに連絡をとったというだけのことです。あんたが懲罰を受けるようなことは起らんですよ」
「保証できますか?」
 老人は机のひきだしを開け、書類ホルダーをとり出して私に渡した。私はそれをめくってみた。そこにはたしかに『組織《システム》』の正式依頼書が入っていた。書式もサインもきちんとしている。
「いいでしょう」と言って私はホルダーを相手に返した。「私のランクはダブル?スケールですが、それでよろしいですね? ダブル?スケールというのは――」
「標準料金の二倍ですな。かまわんですよ。今回はそれにボーナスをつけてトリプル?スケールでいきましょう」
「ずいぶん気前がいいですね」
「大事な計算だし、滝もくぐっていただいたですからな、ふおっほっほ」と老人は笑った。
「一応数値を見せて下さい」と私は言った。「方式は数値を見てから決めましょう。コンピューター?レベルの計算はどちらがやりますか?」
「コンピューターは私のところのものを使います。あんたにはその前後をやっていただきたい。かまわんでしょうな?」
「結構です。こちらとしてもその方が手間が省けます」
 老人は椅子《いす》から立ちあがって背後の壁をしばらくいじっていたが、ただの壁のように見えていたところが突然ぱっくりと口を開けた。いろいろと手が込んでいる。老人はそこからべつの書類ホルダーを出し、扉《とびら》を閉めた。扉が閉まるとそこはまた何の特徴もないただの白壁に戻った。私はホルダーを受けとって七ページにわたる細かい数値を読んでみた。数値そのものにはとくに問題はなかった。ただの数値だ。
「この程度のものなら洗いだし《????》で十分でしょう」と私は言った。「この程度の頻度《ひんど》類似性なら仮設ブリッジをかけられる心配はありません。もちろん理論的には可能ですが、その仮設ブリッジの正当性を証明することはできませんし、証明できなければ誤差という尻尾《しっぽ》を振りきることはできません。それはコンパスなしで砂漠《さばく》を横断するようなものです。モーゼはやりましたがね」
「モーゼは海まで渡ったですよ」
「大昔の話です。私のかかわった限りではこのレベルで記号士の侵入を受けた例は一度もありません」
「というと一次転換《シングル?トラップ》で十分とおっしゃるわけですな?」
「二次転換《ダブル?トラップ》はリスクが大きすぎます。たしかにあれは仮設ブリッジ介入の可能性をゼロにしますが、今の段階ではまだ曲芸のようなものです。転換プロセスがまだはっきりと固定していないんです。研究途上というところですね」
「私は二次転換《ダブル?トラップ》のことは言っとらんですよ」と老人は言って、またペーパー?クリップで爪の甘皮を押しはじめた。今度は左手の中指だった。
「と言いますと?」
「シャフリングです。私はシャフリングのことを言っておるですよ。私はあんたに洗いだ《ブレイン?ウオ》し《ッシュ》とシャフリングをやっていただきたい。そのためにあんたを呼んだ。洗いだし《ブレイン?ウオッシュ》だけならとくにあんたを呼ぶ必要はないです」
「わかりませんね」と私は言って脚を組みかえた。「どうしてシャフリングのことを御存じなのですか? あれは極秘事項で部外者は誰《だれ》も知らないはずです」
「私は知っておるです。『組織《システム》』の上層部とはかなり太いパイプが通じておりましてな」
「じゃあそのパイプを通して訊《き》いてみて下さい。いいですか、今シャフリング?システムは完全に凍結されています。何故《なぜ》だかはわかりません。たぶん何かのトラブルがあったんでしょう。しかしとにかくシャフリングは使ってはいけないことになっているんです。もし使ったことがわかれば懲罰程度では済まないでしょう」
 老人は依頼書類の入ったホルダーをまた私に差しだした。
「その最後のページをよく見て下さい。シャフリング?システムの使用許可がついているはずです」
 私は言われたとおり、最後のページを開いて目をとおしてみた。たしかにそこにはシャフリング?システムの使用許可がついていた。何度も読みかえしてみたが、それは正式なものだった。サインが五つもついている。まったく上層部の人間が何を考えているのか私には見当もつかない。穴を掘ったら次はそれを埋めろと言い、埋めたら今度はまたそれを掘れと言う。迷惑するのはいつも私のような現場の人間なのだ。
「この依頼書類をひととおり全部カラー?コピーして下さい。それがないといざというときに私が非常に困った立場に追いこまれることになりますからね」
「もちろんですとも」と老人は言った。「もちろんコピーはおわたしします。心配することなど何もないです。手続きはすべて一点の曇りもない正式なものです。料金は今日半額、引きわたし時に残りの半額を支払います。それでよろしいかな?」
「結構です。洗いだし《ブレイン?ウオッシュ》は今ここでやります。そして洗いだし済みの数値をもって家に戻《もど》り、そこでシャフリングをやります。シャフリングにはいろいろと用意が必要なんです。そしてそのシャフリング済みのデータを持ってまたここにうかがいます」
「三日後の正午までにはどうしても必要なんだが?」
「十分です」と私は言った。
「くれぐれも遅れんようにな」と老人は念を押した。「それに遅れると大変なことになるです」
「世界が崩壊でもするんですか?」と私は訊いてみた。
「ある意味ではね《???????》」と老人はふくみのある言い方をした。
「大丈夫です。期限に遅れたことは一度もありません」と私は言った。「できればポットに入った熱いブラック?コーヒーと氷水を用意して下さい。それから簡単につまめる夕食。どうやら長い仕事になりそうですからね」 案の定それは長い仕事になった。数値の配列自体は比較的単純なものだったが、ケース設定の段階数が多かったので、計算は見かけよりずっと手間どった。私は与えられた数値を右側の脳に入れ、まったくべつの記号に転換してから左側の脳に移し、左側の脳に移したものを最初とはまったく違った数字としてとりだし、それをタイプ用紙にうちつけていくわけである。これが洗いだし《ブレイン?ウオッシュ》だ。ごく簡単に言えばそういうことになる。転換のコードは計算士によってそれぞれに違う。このコードが乱数表とまったく異っている点はその図形性にある。つまり右脳と左脳(これはもちろん便宜的な区分だ。決して本当に左右にわかれているわけではない)の割れ方にキイが隠されている。図にするとこういうことになる。
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 要するにこのギザギザの面をぴたりとあわせないことには、でてきた数値をもとに戻すことは不可能である。しかし記号士たちはコンピューターから盗んだ数値に仮設ブリッジをかけて解読しようとする。つまり数値を分析してホログラフにそのギザギザを再現するわけだ。それはうまくいくときもあるし、うまくいかないときもある。我々がその技術を高度化すれば彼らもその対抗技術を高度化する。我々はデータを守り、彼らはデータを盗む。古典的な警官と泥棒《どろぼう》のパターンだ。
 記号士たちは不法に入手したデータを主として情報のブラック?マーケットに流し、莫《ばく》大《だい》な利益を得る。そしてもっと悪いことには彼らはその情報のうちのもっとも重要なものを自分たちの手にとどめ、自らの組織のために有効に使用するのである。
 我々の組織は一般に『組織《システム》』と呼ばれ、記号士たちの組織は『工場《ファクトリー》』と呼ばれている。『組織《システム》』は本来は私的な複合企業《コングロマリット》だがその重要性が高まるにつれて、半官営的な色彩を帯びるようになった。仕組としてはアメリカのベル?カンパニーに似ているかもしれない。我々末端の計算士は税理士や弁護士と同じように個人で独立して仕事を行うが、国家の与えるライセンスが必要だし、仕事は『組織《システム》』あるいは『組織《システム》』の認めるオフィシャル?エージェントを通してまわってきたものしか引き受けてはならない。これは『工場《ファクトリー》』に技術を悪用されないための措置で、違反した場合には懲罰を受け、ライセンスを没収される。しかしそういう措置が正しいことなのかどうか私にはよくわからない。何故なら資格を奪われた計算士は往々にして『工場《ファクトリー》』に吸収されて地下にもぐり、記号士になってしまうからだ。
『工場《ファクトリー》』がどのように構成されているのか私にはわからない。最初それは小規模のベンチャー?ビジネスとして生まれ、急激に成長したということである。『データ?マフィア』と呼ぶ人もいるが、様々な種類のアンダーグラウンド組織に根をはりめぐらせているという点ではたしかにそれはマフィアに似ているかもしれない。彼らがマフィアと違う点は情報しかとり扱わないという点にある。情報はきれいだし、金になる。彼らは狙いをつけたコンピューターを確実にモニターし、その情報をかすめとる。 私はコーヒーをポット一杯ぶん飲みながら洗いだし《ブレイン?ウオッシュ》をつづけた。一時間働くと三十分休む――というのが規則だった。そうしないと右脳と左脳のあわせめが不明確になり、出てきた数値が混濁してしまうのである。
 その三十分の休憩のあいだに、私は老人といろいろな世間話をした。なんでもいいから口を動かしてしゃべるのが脳の疲労の最良の回復方法なのだ。
「これはいったい何についての数値なのですか?」と私はたずねてみた。
「実験測定数値ですな」と老人は言った。「私のこの一年間に及ぶ研究の成果です。それぞれの動物の頭蓋骨及び口蓋の容積の三次元映像を数値転換したものと、その発声を三要素分解したものをくみあわせてあるです。さきほど私は骨の固有の音を聴きとるのに三十年かかったと申しあげたですが、この計算が完成すると、我々は経験的《???》にではなく理論《??》的《?》にその音を抽出できるようになるです」
「そしてそれを人為的にコントロールすることができるようになると?」
「そのとおり」と老人は言った。
「人為的にコントロールすると、いったい何が起るんですか?」
 老人は舌先で上唇《うわくちびる》をなめながら、しばらく黙っていた。
「いろんなことが起るですよ」と彼は少しあとで言った。「実にいろんなことが起るです。これは私の口から申しあげることはできんですが、ちょっとあんたに想像もつかんようなことが起るです」
「音抜きもそのひとつですね」と私は質問した。
 老人はまたふおっほっほと楽しそうに笑った。「そう、そのとおり。人間の頭蓋骨の固有の信号にあわせて、音を抜いたり増やしたりすることができるです。人それぞれに頭蓋骨の形は違うから完全には抜けんが、かなり小さくすることはできるです。簡単に言えば音と反音の振動をあわせて共鳴させるわけですな。音抜きは研究成果の中ではもっとも害のないもののひとつです」
 あれで害がないというのなら、あとは推して知るべしである。私は世の中の人々がめいめい好き勝手に音を消したり増やしたりしている様を想像して、ちょっとうんざりした。
「音抜きは発声と聴覚の両方向から可能です」と老人は言った。「つまりさっきのように水音だけを聴覚から消去することもできるし、あるいはまた発声を消去してしまうこともできるです。発声の場合は個人的なものだから百パーセント消去することも可能ですな」
「これは世間に発表なさるつもりなんですか?」
「まさか」と老人は言って手を振った。「こんな面白いことを他人に知らせるつもりはないですな。私は個人的な楽しみでこれをやっとるです」
 そう言って老人はまたふおっほっほと笑った。私も笑った。
「私の研究発表はきわめて専門的な学術レベルに限るつもりですし、音声学になんて殆《ほと》んど誰も興味を持ちゃせんです」と老人は言った。「それに世間のバカ学者どもに私の理論が読みとれるわけはないです。ただでさえ私は学界では相手にされとらんですからな」
「しかし記号士たちはバカではないですよ。連中は解析にかけては天才的です。彼らはあなたの研究をぜんぶきれいに読みとってしまうでしょう」
「その点は私も用心しておるです。だからデータとプロセスはぜんぶ隠して、理論だけを仮説の形で発表する。これなら彼らに読みとられる心配はない。たぶん私は学界では相手にもされんだろうが、そんなことはどうでもいいです。百年後に私の理論は証明されるですし、それだけで十分というもんです」
「ふーむ」と私は言った。
「そういうわけで、すべてはあんたの洗いだしとシャッフルにかかっておるですよ」
「なるほど」と私は言った。 それから一時間、私は神経を計算に集中した。そしてまた休憩がやってきた。
「ひとつ質問があるんですが」と私は言った。
「なんだろう?」と老人は言った。
「入口にいた若い女性のことですが。あの、ピンクのスーツを着た肉づきの良い……」と私は言った。
「あれは私の孫娘です」と老人は言った。「非常によくできた子で、若いながら私の研究を手伝ってくれておるです」
「それで私の質問はですね、彼女は生まれつき口がきけないのか、それとも音抜きされてああなったのか、ということなんですが……」
「いかん」と老人は片方の手でぴしゃりと膝《ひざ》を打った。「すっかり忘れておったです。音抜きの実験をしたまま、もとに戻すことをやらなかったです。いかんいかん。すぐに行ってもとに戻してこなくては」
「その方がよさそうですね」と私は言った。
 

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