没有色彩的多崎作和他的巡礼之年(四格漫画)
村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を4コマ漫画にしてみた。傑作だった。
村上春樹をはじめて真剣に読んだ。感動した。それまでは少し読んで、主人公の抱える悩みがラジオ体操でもすれば治るように思えて、投げ捨てていた。
真剣に読んだきっかけは、この作品に対する罵詈雑言を並べたレビューを見かけた事だ。そもそも書評で荒れ狂う自体が不思議だ。なにがそんなに感情的にさせるのだろうか?
読んでみて思ったのは、これはエンタメではなく、読者を癒そうとするカウンセリングだということだ。例えばコーラだと言われてゴーヤジュースを飲まされたら激おこぷんぷん丸になるだろうが、それと同じように、エンタメ小説だと思っていた人がレビューで怒っているのではないだろうか。
この物語には、少なくとも次の3つが含まれていると思う。
・カウンセリング
・中年男性の女性化について
・村上の作品は空っぽだという批判に対する反論
まず、なぜカウンセリングかというと、今回4コマにしたあらすじが、故河合隼雄先生のような心理療法家が行うカウンセリング内容と類似しているからだ。物語の中では、主人公の恋人の沙羅がカウンセラーとなって、主人公の過去の傷を聞き出している。
そしてその傷をあらためて検証し、主人公にとって、その傷が本当は違う意味を持つのではないか、という新たな解釈を提案し、主人公の人生という物語を書きなおそうとしている。これはカウンセリングそのものだ。
エンタメとしては人の内面に踏み込みすぎているし、過去の傷に触れられたくない人にとっては不愉快だろう。さらに、エンタメにしやすい箇所はあえて素っ気なく書かれている。
例えば主人公の多崎つくるが二人の女性と出会ってHするまでの記述は次のように極端に短い。
■現恋人の沙羅とのケース
つくるの上司の新築祝いのホームパーティで紹介され、そこでメールアドレスを交換し、これが四度目のデートだった。三度目に会ったとき、食事のあと彼の部屋に行ってセックスをした。(原文ママ)
■初体験のケース
彼女は下の姉とちょうど同い年だった。
つくるは機会を見つけて彼女を食事に誘い、そのあと自分の部屋に誘い、それから思い切ってベッドに誘った。彼女はどの誘いも断らなかった。(原文ママ)
いくらなんでも淡泊すぎるだろ。
とある仕事で肉食女性にインタビューしたとき、「草食男子の中でも春樹好きは特にすぐ狩れる。作品がそういう展開だから」というセリフをふと思い出した。余談だけど。
話を戻すと、河合先生のような心理療法家が行うカウンセリングでは、当人に起きた事件の詳細そのものよりも、それが当人にとってどういう意味を持ったか、という内面の問題にフォーカスを当てる。なので、エンタメとしては物足りないが、カウンセリングとして見ると、この淡泊な書き方は妥当だ。
ただ一方で、あまりにもカウンセリングになると話が重くなりすぎるので、極端に軽いセリフをまぜて、軽く見せようともしている。
例えば旧友の1人、赤松の次のセリフだ。
「鋭いサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」
こんな風にしゃべる人は現実にはいないだろう。ただ、河合先生もよく診療中に場を軽くするためか、ダジャレを言っていたそうで、同じような工夫なのかもしれない。
■中年男性の女性化について
河合先生の名著『影の現象学』は次のように、抑圧していた性格を統合していく話だ。
この本では「人生の前半は影との統合が課題となるが、中年以降は性別の統合が課題となる」と書かれており『色彩を…』でも、36歳という中年に差し掛かった主人公は、「傷」という影を自らに統合していく中で、次の課題である性別の統合を示す内容が物語に散りばめられている。
例えば名古屋でバリバリと自己啓発セミナーをやっている赤松はゲイだが、名古屋でゲイはつらいと嘆く。主人公は夢の中で度々男性と交わっている。
男性は子どもの頃から「勝つ喜び」を奨励されるが、中年になるとそれに飽きて、様々な感情を味わおうとして涙もろくなる傾向がある。反対に女性は、中年を過ぎると感情に飽きて、勝つ喜びを見出す人が出てくるという。
そしてこの物語のタイトルの「色彩」とは、非常に単純に言えば「感情の味わい」だと思う。仲間と違って名前に色を持たない多崎つくるは、「オズの魔法使い」のブリキのロボットが「私には感情がありません、感情が宿る心臓をください」と魔法使いに願ったように、自分が他人に胸襟を開けないことに悩んでいる。そして物語では、かつて自分を苦しめた「傷」が胸を裂いてくれることで感情が宿る。
そして主人公はついに、自分が受けた「傷」の意味を捉えなおす。
魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。
■村上の作品は空っぽだという批判に対する反論
太田光に「中身がゼロ」と批判されているこの作品だが、
主人公は「自分が空っぽだ」と悩んでいる。これは偶然の一致だろうか?
これまでの作品も空っぽだと散々言われているので、これは確信犯だろう。
「空っぽにも意味があるのではないか?」と、批判する人に問うているように見える。
物語では、他にも「空っぽ」を示唆するセリフが多い。
「真空を作る人間も、世の中に少しは必要なんだろう」
「たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない。もしそうだとしても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるよう容器になればいい(要約)」
老子の「器が役に立つのは空だから」と同じじゃねーかといえばそれまでだが、
小説としては、空っぽの主人公だからこそ、沢山の人が自分を投影できる容器になれる。
そもそも主人公の職業も、駅の設計者であり、駅もまた電車を入れる容器だ。
「駅がなければ、電車はそこに停まれない」
というセリフが示すように、ここでもまた「空っぽ」の意味を問うている。
作家が駅で、読者は電車か。ちょっとしつこいくらいだ。
なにはともあれ、こんなに誠実に読者の内面に向き合った本をはじめて読んだ。もし河合隼雄先生が小説家だったら、同じような物語を書いのたではないだろうか。投げ捨てていた他の作品も読んでみようと思う。
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没有色彩的多崎作和他的巡礼之年(四格漫画):等您坐沙发呢!